日本人になった金美齢さん!
2009/12/02 04:01
「国の恩恵、保護」を忘れるな!
自分の国を距める日本人は日本
のパスポートを即刻返上しなさい!
何と金美齢さんは帰化されて日本国籍を取得されたのですね。届いたばかりの雑誌「正論」新年号で知りました。「大歓迎!」本当に嬉しいです。私はこの金美齢さんの「凛」とした毅然たる筋の通った話が大好きです。日本人にも「あなた方がだらしないから…、しっかりしなさい!」としかってくれる数少ない超のつく保守論客です(というか、台湾独立の闘士ですね)。
その日本人となった金美齢さんの独占手記「二つの祖国のはざまでー私はなぜ日本人となったか」が堂々15ページにわたって掲載されています。いや~素晴らしい論文です。例によってそのさわり、後半部分の一部を以下でご紹介します。前半部分は台湾独立に関する記述を中心に書かれています
〃最前線〃は日本に移った
歴史的な視点から言えば、日本人がいわゆる東京裁判史観を未だに超克できないように、台湾人もまた華夷秩序に搦め捕られている。台湾人はふたたび長い忍従を強いられる。台湾海峡が中国の内海になるのは時間の問題だ。いまや中国という危険な存在を押しとどめる"最前線"は、この日本に移った。その現実を認識し、重責を担う覚悟がいまの日本人にあるか。
このとき誕生したのが鳩山「友愛」政権とは、「まるで悪夢を見ているよう」と言ったら日本人に失礼かもしれないが、馬英九に政権が移った瞬間の落胆と同じ思いを私は抱いた。そして、最前線で戦うことを決意した。
二つの祖国の一つは、もう私の中では永遠に取り戻すことのできない暗闇に沈んでしまった。少なくとも私の生あるうちには、浮上することはあるまい。
ならば、この身の能(あた)うかぎり、愛するもう一つの祖国を守りたい。周英明が生きていたら、恐らく同じ思いを抱いただろう。李登輝総統の時代ですら、中華民国のパスポートは要らないと言っていた夫である。
私は、私や周という人間をかたちづくった台湾人としてのアイデンティティ、そしてその根幹にある日本精神を守りたい。中国式に屈したくない。その戦いの最前線が日本に移ったのだと実感したとき、日本人(国民)への回帰を決めた。今度は「台湾人にとっての靖国」ではない。日本国民)にとっての靖国」なのである。「私(中国が自らに呑み込もうとするのは、台湾の次は日本である。昨年五月初旬、中国の国家主席として胡錦濤主席が十年ぶりに来日し、「暖春の旅」と自ら名づけたように日中友好を強調するのに躍起となった。この日本訪問自体が同年三月のチベット騒乱以後初の外遊で、日本との関係緊密化を印象づけることによって、国際社会で高まった対中批判を和らげ、中国外交の孤立を回避する目的を持っていたわけである。
一九八九年に起きた天安門事件のあと、「友好」の名のもとに日本に天皇訪中を要請し、それが実現したことで国際社会への"復帰"がかなったことの再来を企図したと言ってもよい。
二〇〇三年三月に引退した中国の銭其環元副首相は、自身の回顧録『外交十年』で、外相をつとめていた一九九二年の天皇訪中について、天安門事件によって西側から受けた制裁を打破する戦略的な狙いがあったことを明らかにした。
銭氏ははっきり、「日本は中国に制裁を科した西側の連合戦線の中で弱い部分であり、おのずから中国が西側の制裁を打ち破る最も適切な突破口になった」と指摘、天皇訪中が実現すれば、「西側各国が中国との高いレベルの相互訪問を中止した状況を打破できるのみならず、(中略)日本の民衆に日中善隣友好政策をもっと支持させるようになる」と書いた。
平成九年五月九日、自民党行政改革推進本部総会で当時の武藤嘉文総務庁長官が、一九九五年にキーティング豪州首相からこんな話を聞かされたとして明かしたのは、中国の李鵬首相(当時)がオーストラリアを訪問した際、キーティング首相(同)に「日本などという国はあと三十年もすれば潰れてなくなっている」と語ったという話だ。
天安門事件での国際社会の制裁を「日中友好」のためにいち早く解除し、天皇訪中を実現して"親中外交"につとめた日本を、中国の首脳部は感謝するどころかこう見なしていた。これを日本人はしっかり記憶にとどめておくべきである。
私からすれば、日本人は救いのないほどに中国人に対し甘い幻想を抱いている。はっきりしていること、また今後も変わらないだろうことは、中国共産党政府にとって国民の生命などは鴻毛の軽さしかないということである。
たとえば晩年の毛沢東がソ連から大量のICBM(大陸間弾道弾)を購入していることに、訪中したフランスのポンピドー大統領(当時)が、「貴国は本気でアメリカとの全面戦争を考えているのか」と尋ねたのに対し、「場合によったらやるかもしれない。この国は人口が多すぎるから、二、三千万人くらい死んでも一向にかまわない」という答えが返ってきて唖然としたというエピソードは、いまの中国を語るうえでも有効だ。
文化大革命の混乱では七千万人が殺致されたとも言われている。この甚だしい人命軽視という“中国式”は、太古からいまに至るも変わらない。
私が「中国人は変わらない」と痛感したもう一つの例を挙げておこう。上海出身で米ハーバード大学に留学し、帰国後はその身についたリベラル感覚が中国共産党政権に耐えられなくなり、中国を出てシンガポールの新聞社の特派員として日本に長く住むことになった友人がいる。
いわば“さすらいの中国人”だ。自由の価値を認め、それを守ることの意味を知っていた彼と私は、この日本で友人となったが、あるとき彼のひとことに私は絶句し、それ以後交際は途絶えた。彼は私が台湾独立運動に関わっていることを知りながら、「台湾が独立するくらいなら中国共産党にくれてやったほうがましだ」と言い放ったのである。
これが中華思想なのだ、と痛感した。自由や民主主義の価値を知りながら、彼の頭の中には、さらなる上位概念として中華思想があった。それは拭いようもない他者への蔑視と同質のもので、台湾人が華夷秩序から離れて生きる自由は一顧だにしない。彼らがチベット人やウイグル人などに対しても同様に見ているのは間違いない。それが日本人に対してでも変わらないということが、金輪際日本人の想像力の中にはないように思える。
まことに中華思想は厄介なのである。それ自体が多くの中国人を不幸にしているのに、その逆説に気がつく中国人はあまりに少ない。中華思想にNOと言わないかぎり、その不幸は周囲に及ぶ。国家間の友好は対等の上に成り立つという考えは中国には通用しない。
中華思想とは、中国は世界の中心であり、周辺の国々はそれを取り巻く衛星にすぎないという“信仰”なのだ。それを受容しないかぎり成り立たない「日中友好」に、日本人はいつまで幻想を抱き続けるのか。
日本人としての私の役目
狡知に長けた中国式に対抗するためには、日本人はしっかりした国家観、歴史観を持たなければならない。自国の歴史に対する深い造詣と自負が求められるが、それは誰もが簡単に身につけられるというものではない。普通の日本人は何を手がかりにすればいいか。私は自分の経験に照らして、とくに若者に対し「日本国」のパスポートに深く感謝しなさいと言いたい。
一国のパスポートは身分証明書であり、外国に出たら「最後の頼みの綱」である。その頼みの綱を失ったとき、私は個人にとっての国家がいかに大切であるか、個人は国に守られて生きているということを肌で感じた。台湾(中華民国)のパスポートではどこへ行くのにもビザ(査証)が必要になるが、パスポートがなければビザの申請自体を受け付けない国がたくさんある。
日本のパスポートは世界のほとんどの国にビザなしで入れる。この凄さを認識している日本人(国民)はいったいどれほどいるだろうか。パスポートはその国の国際社会におけるポジションを示す。日本人はミシュランガイドの星を有り難がるよりも前に、日本のパスポートが三つ星どころか五つ星と言えるほどの実力を持っていることを、つまりそういう国に生まれたことを感謝すべきなのである。
ところが、そんなパスポートを持っている日本人の多くが、いま享受している諸々は先人たちが営々と築いてくれた遺産の上に成り立っていることを認識できず、国の恩恵、保護を忘れて、自分の国を蔑み、距めようとしている。私に言わせれば、そんな日本人は日本のパスポートを持つ資格はない。即刻返上すべきである。
たしかに人間はいつの時代の、どんな国の、どんな両親のもとに生まれてくるかは決められない。それは運命である。その運命の中で、自らの生をすべて受け入れたところから
人生は出発するしかない。日本人に生まれたということは、日本という国の歴史を背負っていくということである。
「これはいいけれど、あれは嫌だ」というようなご都合主義はきかない。日本人であることから逃れられないし、否定もできない。日本人として生まれたことをどう受け止め、どう背負っていくか。いかに前向きに、より良い人生をめざすか。
日本人に回帰した私の役目は、それを語っていくことだと思っている。台湾という祖国を心のうちに喪ったいま(いずれ実態としても)、もう一つの祖国である日本を喪うわけにはいかない。
最近、生前の周英明と親交のあったさるご婦人から、「周さんはあなたについて、『何より“正義の味方”であることが誇らしい』と笑顔で語っていた」と綴られた手紙を頂戴した。“正義の味方”というのは何とも照れくさいが、長年の“同志”として率直に私を表した言葉であったと想う。屈託がなく、どんなことでも素直に思ったままを表現する。そんな人だった。
周は陳水扁が馬英九に敗れた選挙を見る前に逝ったが、台湾独立運動に半世紀を捧げた周がいま生きていたら、私が日本国籍を取得したことを何と言うだろうか。
そういえば九二年のブラツクリスト解除後、三十一年ぶりに帰国した私に、帰国しないと言い張った周は、「きみのほうが正しい。この運動の最前線は台湾なんだから。でも僕はどうしても嫌なんだ。中国的なものが大嫌いなんだから。“中華民国”には近寄りたくない。嫌だという僕の気持ちも察してくれ」と言ったっけ…。
私たち夫婦は二人でひとりだった。台湾の間題から子育てまで、常に同じ側に立ち、相補い合い、二人でひとりとして生きてきた。
周英明が愛し、終生その行く末を気にした台湾と日本の二つの祖国。「“中華民国”には近寄りたくない。嫌だ」と言った彼は、日本人として最前線に立つことに決めた私と、きっと同じ道を歩んでくれたにちがいない(正論2010年1月号、P63-P66)。