先週の新聞の書評に、いとうせいこうの「想像ラジオ」が載っていて
何だか気になり、すぐ買って読んでみました。
大震災で津波にのまれた主人公が、杉の樹のてっぺんで自分が
生きているのか、死んでいるのか分からないまま想像力を電波に
ラジオ番組を流し始めるという、とんでもなシチュエーションの
小説です。
脚本かと思うほど、会話で話が進められ、浅田次郎の作品のように
場面が立ち上がってくるわけでもない、必要なの?と思う場面も
あるのに、なぜか心に引っかかりをつくっていく作品なのです。
死とは死者とはなにか?読んでいると、このテーマが心の底に
低音で響いてくる…
震災で亡くなった人達は、自分の死さえも認識できないうちに
逝ってしまったのかもしれません。
フィクションなのに、リアリティーを感じる不思議さは
なんだろう…
書評を書いた中島岳志氏は「いつからかこの国は死者を
抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?
生者が死者の声をキャッチするのは、悲しみが湧く時だ。
それは、不意にやってくる。
あとは耳を澄ますことができるかどうかだ。」と書いています。
生者が死者の側に立つことはできないけれど、想像してみる
ことは出来るかもしれない…
耳を澄ませば、雑踏の中に、風のざわめきの中に言葉には
ならない声があふれているかもしれない…
フィクションの中のリアルは、もしかしたら真実かも
しれないと思えた本でした。
何だか気になり、すぐ買って読んでみました。
大震災で津波にのまれた主人公が、杉の樹のてっぺんで自分が
生きているのか、死んでいるのか分からないまま想像力を電波に
ラジオ番組を流し始めるという、とんでもなシチュエーションの
小説です。
脚本かと思うほど、会話で話が進められ、浅田次郎の作品のように
場面が立ち上がってくるわけでもない、必要なの?と思う場面も
あるのに、なぜか心に引っかかりをつくっていく作品なのです。
死とは死者とはなにか?読んでいると、このテーマが心の底に
低音で響いてくる…
震災で亡くなった人達は、自分の死さえも認識できないうちに
逝ってしまったのかもしれません。
フィクションなのに、リアリティーを感じる不思議さは
なんだろう…
書評を書いた中島岳志氏は「いつからかこの国は死者を
抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?
生者が死者の声をキャッチするのは、悲しみが湧く時だ。
それは、不意にやってくる。
あとは耳を澄ますことができるかどうかだ。」と書いています。
生者が死者の側に立つことはできないけれど、想像してみる
ことは出来るかもしれない…
耳を澄ませば、雑踏の中に、風のざわめきの中に言葉には
ならない声があふれているかもしれない…
フィクションの中のリアルは、もしかしたら真実かも
しれないと思えた本でした。