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『せたがや女性史』を読んで

2007-05-23 14:15:37 | Weblog
画家 中根のり子さんの描いた「せたがや女性史」の表紙 素敵ですね。青空に草原が一面に広がる景観をきれいな色彩と柔らかいタッチで描かれ、とてもさわやかです。「世田谷代官屋敷」についてブログに掲載したのがきっかけで貴重なコメントを下さったkiekoさんから、はからずも「せたがや女性史」をお送り頂きました。うれしかったですね。kiekoさんは世田谷女性史編纂委員会の専門委員のお一人です。



「せたがや女性史」は、世田谷の女性が近世(江戸時代)から第二次世界大戦の終わりまでの歴史の変遷とともにどのように生きてきたかを年代順に四章に分けて書かれています。世田谷女性史は、聞き書き集『里から町へ100人が語るせたがや女性史』(1998年3月発行)と『せたがや女性史』(1999年11月発行)から成っています。

自由に現代を生きる女性とは違って、この本に書かれている時代は女性蔑視と束縛のなかでそれぞれの時代を生きることの苦悩がどんなものであったか、それでも尚その中でたくましく生きていく世田谷の女性が資料と聞き取りに基づいて大変よくまとめられています。ここにたくましく生きてきた何人かの女性をご紹介します。

第12代当主大場代官の妻大場美佐(1833~1905) 大場家に嫁いだ美佐は結婚生活わずか8年で夫を亡くし、28歳のときから日記を書き始め亡くなる明治37年(1904年)までの45年間の長きにわたって書き続けました。『大場美佐の日記』と呼ばれ、当時を知る大事な資料として、世田谷区立郷土資料館に展示されています。
伊吹まさ  三軒茶屋に明治42年(1909年)から産婆業を開業、世田谷における助産婦の先駆者の一人。大変人望があり非常に腕もよく、どんな難産でも母子を死なせたことはなかったと伝えられています。
平塚らいてう(1886~1971)明治 大正 昭和の女性解放の先駆者、思想家として85年の人生を生きてきました。その後半生を世田谷で過ごしました。中学・高校の歴史の教科書で習いましたね。
林芙美子(1903~1951)「花のいのいちは短くて苦しきことのみ多かりき」の言葉で有名です。19歳から23歳までの多感期の放浪の日々を綴った小説「放浪記」が出世作となりました。太子堂の国立小児科病院のそばに「林芙美子旧宅」があります。
野上弥生子(1885~1985)百歳まで現役作家として活躍し、昭和初期に「真知子」、戦後に「迷路」、「秀吉と利休」など、100歳まで創作意欲は衰えず多くの著書を残しました。昭和48年から亡くなるまで成城に住んでいました。
江間章子(1897~2005)江間さんを有名にしたのは「夏がくれば 思い出す」の歌詞で始まる尾瀬をうたった『夏の思い出』です。作曲は中田喜直さん、1949年NHKラジオで放送されて以来、教科書にも載り長く愛されています。また『花の街』も作詞し、團伊玖磨作曲で長く歌われ親しまれています。この歌は江間さんが戦後の焼け野原に夢見た平和の花咲く美しい街を思って作詞をしたと言われています。両方とも大好きな歌で、「花のまわりで」とともにいつからか私の心の歌になっています。1992年江間さんは世田谷の名誉市民になりました。

「せたがや女性史」の中から活躍した6人の女性を私好みにピックアップして書きましたが、まだまだたくさんの女性が活躍しています。また一般の主婦の方々の中にも智慧と工夫によって力強くやさしく生きてきた方が多くおり、大変読み応えのある『せたがや女性史』です。
江戸 明治 大正 昭和の激動の時代を生き抜いてきた女性に比べて、はるかに自由に今を生きる私たちは、どのように有意義に心豊かに生きたらよいか、だれもがむかえる老いを幸せに生きるにはどうしたらよいかを考える良い機会をこの本から与えていただきました。


母の日のカーネーション

2007-05-13 11:10:11 | Weblog
今日は「母の日」、朝9時頃玄関チャイムがピンポーン きれいなカーネーションが早々と届きました。お手紙に「初月給でお花を買いました」とあり、とてもうれしかったですね。
陰の声『えっ モナリザさんには子供がいたっけ いないよね 隠し子でもいるのかな』 ご想像におまかせ致します。ともあれ今日はお花に囲まれ幸せな一日となるでしょう。そして母への思いを深くし「お母さん、たくさんの愛を本当にありがとう」と感謝いっぱいです。カーネーションの花言葉は「女性の愛」「清らかな愛」です。