54歳からの欧州一人旅と日々をつれづれに

思いつくまま時、場所を選ばず綴ります。

8/15(土)70回目の終戦記念日…

2015-08-15 19:07:01 | 日記・雑記2011.1~

原爆投下の8/6広島8:45 8/9長崎11:02 そして終戦の8/15正午 3回共黙祷した
8/15 今年も式典に天皇・皇后ご出席 そのお姿にご健康を祈らずにいられませんでした
今日高校野球は1回戦が早実 8:4で勝利 1年生清宮はあどけなさも好感 また見れるな~
高校生たちの苗字より名前が気になる私 いい名前が多い 付けた人の願いに思いを巡らす
今夜BS10:00~ 錦織が7戦全敗のナダルとどう戦うか楽しみ 素晴らしい若者いっぱいだ
原爆の恐ろしさが分っても持つ国があるのが現実 どうしようもない複雑な人間社会だが
この素晴らしい若者たちなら平和を守っていけると… 明るい気持ちにしてくれる
65回目の終戦記念日にも投稿してあったので久々の投稿)

雑記
産経新聞連載“「ふりさけみれば」 昭和天皇の87年” 川瀬弘至 第Ⅰ章 昇陽の日々(4/1~6/27)
第2章 帝王教育75~109回(6/29~8/8) 第3章天子への道110回~(8/10~)
赤線を引いて読んでいる
3章は大正10年20歳の裕仁皇太子が丸刈りだった髪を伸ばしはじめたところから(欧州各国外遊のため)
大正天皇は生後間もなく髄膜炎を患い病気がちだったが貞明皇后とご結婚後は地方巡啓も重ねていた
だが病状悪化 原首相や山県枢密院議長ら元老、政府首脳が皇太子を摂政とし、まず世界の大勢に
ついて見聞を広め、各国元首らと直接交際し、五大国の一員となった日本の君主にふさわしい態度や
思考を磨いてほしいと考えた 貞明皇后の同意は翌年10年2月13日 同年3月3日慌ただしく横浜港出港
艦内ではデッキゴルフも楽しんだ 最初の寄港地沖縄で真心こもった歓迎(昭和天皇はこの訪問を終生
忘れなかった)次の寄港地香港では反日朝鮮人活動家が潜入したとの情報に伊藤博文暗殺の例もあり
海軍軍装で上陸したのは替え玉の北白川宮能久親王の第4皇子小松輝久侯爵 25分後に背広姿の皇太子上陸4日間を歓迎の中で過ごした 18日シンガポール→セイロン→スエズ運河→マルタ島 30日ジブラルタル どの地でも歓迎された 艦内では作法や言語の特訓も 東宮御学問所時代泰然とした態度を求めた杉浦の教えや寡黙な東郷の姿勢を見習ってきた皇太子は社交性に欠けると批判された テーブルマナーやデッキゴルフでのフェアープレー精神も叩き込まれ身につけた 5/9英国上陸 26歳のエドワード皇太子とはフランス語で懇談した このころ日英同盟の今後にイギリスは方針が揺れていた アメリカが反対していたのだ 大正10年5月9日の晩餐会はジョージ5世メアリー皇后、ロンドンの英国皇族全員とロイド・ジョージ首相ら政府首脳…盛大に 乾杯の後立ち上がった裕仁皇太子は堂々と立派な演説をした 駐英大使館書記官の吉田茂もこの演説に感動したことを書き残している 演説は静まり返ったホールに拍手の嵐を巻き起こした 
ここまでがこの1週間6日分の拾い読み 次どうなるか…

「昭和天皇7つの謎」加藤康男著も図書館で借りて読んでいる 今までとは違う受け止め方出来る
この本からも忘備録としてここに書いておきたいこといっぱいだ 新しい資料が出ると全然
違う見方が… 偏見で決め込まないようにしなければと 返却日近いがまだ335頁の136頁  

新聞・テレビで広島・長崎のあの日の記事、特攻隊…悲惨な経験を背負ったままの生涯だった多くの人
私も集団疎開は3年生、半年で栄養失調になり田舎へたった一人疎開したのが4年生 玉音放送の日
学校行かなくていいと言われ一人で庭にいたような気がするが終戦の記憶はない 他人の家での
心細い日々、学校でいじめられる怖さで3月生まれの私は戦争のことは考えられなかったかもしれない
田舎での日々は辛く暗いものしかない 愛情を感じた思い出が欲しいが浮かばない 
 
腰痛は治らない いつまでも元気にさっさと歩き低山は行けると思っていたが…ほんとにこのまま?
与えられた人生を一所懸命生きれば神様は見ていると信じて、このブログが投稿できる現実に感謝 

追記:8/15投稿後テレビ19:00ニュースで錦織勝って準決勝はマレーと ( 8/16マレーに2:0で完敗)  
 
左:S19年夏3年生で川治ホテル疎開 H27.8.15ブログ閲覧数 「昭和天皇7つの謎」目次1部分 
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする