54歳からの欧州一人旅と日々をつれづれに

思いつくまま時、場所を選ばず綴ります。

7/14続ショパン 本の返却日②

2010-07-14 20:07:43 | 欧州旅 思い出…

ショパンの生涯
ポーランドで生まれ育ち、20歳で祖国を離れウィーンで8ヶ月、
パリで18年過ごし39歳で生涯を閉じた
ワルシャワから60キロのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれ7ヶ月でワルシャワに越した
父はフルートやヴァイオリンを、母はピアノを弾く音楽が溢れた家庭
この生まれた地に、幼児期何度も訪れショパンの原風景になった
14,15歳夏 親元を離れシャファルニャという田舎で過ごしたり、
16歳夏 母親、姉とドゥシニキ・ズドルイで療養した(2人とも病弱)
18歳夏 友人の家サンニキに滞在した このような経験がマズルカを生んだ
17~18歳で音楽家への決意をする
20歳1830.11.2 プラハを経由してウィーンへ 
21歳1831.9 パリ生活が始まる 程なくして名声を確立
25歳1835夏 カルロヴィヴァリで5年ぶりに両親と再会 ショパンはそのあとドレスデンの
ヴォジンスカ家(ワルシャワ時代家族ぐるみで親しかった)を訪ね16歳のマリアと再会
2週間の滞在でお互い惹かれ 1年後にまたマリアンスケで婚約まで漕ぎつけたがショパンの
吐血を知ったマリアの両親に反対され、悲しい別れの結末となる

28歳1838.10ショパンより10才年上のジョルジュ・サンドとその2人の子供とマヨルカ島へ
マヨルカ島は素晴らしかったが冬は最悪でショパンは衰弱していく
結核をことさら忌み嫌う島民に意地悪をされマルセイユに向う
29歳1839.2.24マルセイユに着く 2ヶ月の滞在で病気は回復、2週間のジェノバ旅行もした
マルセイユでは殆ど外出しなかったが唯一 ノートルダム・デュ・モンを訪れた
滞在中、友人のオペラ歌手アドルフがナポリで自殺、家族がこの教会で追悼ミサを行った
その時、ショパンがオルガンを弾いたことがこの教会に書かれている
29歳~36歳 ノアンのサンドの館での日々
1839.10.11 一年ぶりにパリに戻った お互いがスープの冷めない位置に住んだ
パリとノアン(パリから270kmサンドの故郷)で過ごすパターンが続いた 
サンドのショパンへの心配りが友人に宛てた手紙に滲んでいる
写真にあるドラクロアと語り合った石のベンチ、当時の馬車、ショパンの髪の毛も使われて
いるであろう人形劇の人形(息子モーリス作)リストやバルザックも来た部屋など面白い
子供たちが成長し複雑さが増した サンドは娘と気が合わなかった
サンドとの別れは突然に起きた
娘のソランジュ夫婦がノアンでモーリスと取っ組み合いのけんかをしサンドに追い出されて
しまった  その時パリにいたショパンに、手を貸さないようサンドから頼まれたのに
妊娠し衰弱しているソランジュに馬車を貸した 
それがサンドに決別の手紙を書かせることになった 
その後サンドとショパンが会ったのは1度だけ偶然すれ違い二言三言
ソランジュの出産について話しただけという

1848.4.20 ショパンはロンドンへ (以前マリアとの恋が終わり、傷心を癒すために来た)
今回はスコットランドの富豪の令嬢ジェインに勧められたのだ 
演奏続きで疲れきっていった スコットランドでも家系の話を聞かされる苦痛な毎日
1848.11.16 ロンドンのギルドホールの演奏が最後の演奏になった

1848.11.24 パリに戻った 衰弱しきった体、体調がよいとき馬車でブローニュの森へ
「絶筆のマズルカ」を書けたのは5年ぶりに姉ルドヴィカと再開だろう
ショパンは夫と子供を連れて駆けつけた姉の姿を見て涙を流して喜んだという
1849.10.17 すでに昏睡状態だったショパンはルドヴィカやソランジュ、グジマワなど
親しい人に見守られながら生涯を閉じた 最後まで咳と吐血に苦しみながら
その前日遺言を告げた 自分の心臓をワルシャワへ運ぶこと、
葬儀にモーツアルトのレクイエムを演奏してほしいこと
未完の作品はすべて焼却することの 3点だった
葬儀はマドレーヌ寺院で行われた

「ショパン紀行」あの日ショパンが見た風景 堀内みさ文/堀内昭彦写真より
 


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