人は誰でも歳を取る。人も動物も植物も皆同じだ。地球で生命を受けたものの定めである。年老いた人でも、いつも前向きで、ジムに通ったり、人の輪に入りおしゃべりを楽しむ人がいる。逆に、家に閉じ籠り、テレビや新聞ばかり見ている人もいる。
今朝、小学校の運動場でグランドゴルフの大会が開かれていたが、まるで小学生のような大きな声ではしゃいでいる。男性も女性も関係ない、むしろ恋人同士のように称え合っている。幾つになっても、夢中になれるものがある人は若々しい。
先輩の中にも常に仲間がいて、みんなのために下支えで頑張っている人がいる。サラリーマン時代はキャバレーやスナックに通い詰め、惚れ込んだ女性に店を持たせるほど働いたそうだ。今は普通の老人だが、背筋がピリッと伸びている。
「若々しいのは、どうしてですか?」と訊いてみた。「妄想かな」と言うので、「妄想って、夢を見ているってことですか?」とさらに訊くと、「男としてはもう、役には立たん。でも、頭の中で勝手に思い描くことは出来る」。
「例えば、好きなタイプの女性に出会うだろう。この女の足首はどんなだろう。うなじが見えれば、背中を想像する。抱くことは無くても、抱いた時の感触は想像できる。すると、もう恋に落ちた気分になれる」と、得意そうに言う。
いつも先輩が口にする「最後の恋」とは、そういうことかと思った。川端康成の『眠れる美女』は、老いた男の憧れを表現している。喫茶店で年老いた男が、ヌードが載っている週刊誌に見入っているのも同じことだろう。
今朝、先輩に呼び出されて家に行った。家族から見放されて、話す相手がいないのだ。身体が不自由で歩くことも難しい。子どもは父親の老いを遅らせようと、手を出さない。しかし、話し相手になることも出来ない。孤独な老人は夢想する余裕も無い。
老人(高齢者)天国と持て囃された時代は過去。老人不要論が台頭する時代。失意のまま何も語らない老人が増えている。