伊勢湾台風から60年になる。私は材木屋の奥の家で、両親と妹の4人で暮らしていた。この日は、それまで体験したことのない強風で家がミシミシと揺れ、どうなることかと思った。それでも眠ってしまった。翌朝は青い空だった。立てかけてあった材木が倒れていて、やっぱりすごい台風だったと分かった。けれど、周りで倒壊した樹木や家屋は見なかったし、そんなに被害は出ていないように感じた。
中学校へ登校する道すがらの光景も、台風が通り過ぎた傷跡が各所にあったものの、余り気にならなかった。学校に着いて見たその変わり様に驚いて、周りの記憶が吹っ飛んでしまったのかも知れない。体育館の屋根が吹き飛ばされて、北東の畑に突き刺さっていた。それから毎日、後片付けに追われ、授業が始まったのは何日目だったのだろう。
私は友だちから、「死体がいっぱい並べられている。見に行かないか」と誘われて、彼と自転車に乗って名古屋に向かった。どこまで行けたのか覚えていないが、大高を過ぎた辺りから進むことが出来なかった。お寺に死体が置かれていると聞いたが、とても見る気にはなれなかった。何日か経って、名古屋の姉の家に行ったけれど、まだヘドロの臭いがしていた。
名古屋より北に位置するこのマンションの街は、台風の被害は大きかったと聞いた。一度、自然災害に襲われるとなんと人の営みは脆いことだろう。どんなに手を尽くしても災害を止めることは出来ない。自然災害に備えて出来ることは、被害を少なくすることでしかない。もっと非力であることを認めて謙虚になった方が、自然災害に備えることになるような気がする。
自然を支配するような力は人間には無い。けれど、自然の法則や原理を解き明かして来て、あたかも自然を支配できるように錯覚してしまった。人間は法則や原理を逆利用しているが、きっとそれは僅かな部分でしかないのだろう。万能の神に祈るか、一切の人の感情を棄てるか。
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