友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

7月も今日で終わり

2008年07月31日 22時48分46秒 | Weblog
 7月も今日で最後だ。明日からは8月になってしまう。1年も半年を過ぎてからもう1ヶ月が過ぎた。こんな風に時間はどんどん過ぎて行く。1日が24時間であることは全ての人に平等だ。みんな誰もが同じ条件の下で暮らしている。人が生まれた時も、親しい家族しかその誕生を祝ってはくれなかったはずだ。

 死ぬ時はどうか、現役の人ならば大勢の人がその死を悼んで見送りに来てくれる。現役から遠のいた人は見送りの人も疎らだ。しかしいずれのケースも、本当にその死が悲しくって仕方がないという人が何人いるだろうか。葬儀は確かに悲しいものだけれど、ある意味では正しく儀礼的だ。葬式という儀式は生存者のためのもので、死者には全く不要の儀式だと私は思っている。

 私は子どもたちに、私が死んでも葬式はいらないと言っている。私が死んだら、葬儀屋に頼んで火葬の手続きだけはしなくてはならない。火葬場では遺骨を拾う振りをして決して持ち帰らない。それでおしまいだ。誰も呼ばなくていい。その年の年末に、私のパソコンの年賀状のあて先に対し、「父は○月○日、何々で亡くなりました。大変お世話になりました。心からお礼を申し上げご連絡いたします。ありがとうございました。」と印刷して送ってくれればそれでいい。

 人は生きているうちは意味があるが、死んでしまえば紙くず同然だ。だからこそ、一生懸命で生き、悲しんだり喜んだり、恋したり恨んだり、そういう日々をしっかりと送ることだと思う。死んでしまえば、確かに何日間かは悲しんだり思い出したりしてくれるだろうが、そのうちに忘れ去られていく。私は「忘れ去られていく」ことこそ大事なことだと思っている。いつまでも死んでしまった人のことなんか思い煩うことなんかない。だって、人はいつか死ぬのだから。

 7月が終わり8月が来るように、人の生涯もその繰り返しだ。そしてまた、人類はそうして今日を迎えている。どんなにあがいたところで、1日が24時間は変わりようがない。変わるとしたら、それは自分自身が24時間をどのように使うかだと思う。その積み重ねで、1日が、あるいは1週間が、1ヶ月が、全く違う時間となることは可能だ。しかし、それは不幸なことかもしれないし、非常識なことかもしれない。

 今日が月の終わりだというだけで、いったい自分が何を書こうとしているのか、よくわからなくなった。お酒を飲みすぎたのかもしれない。明日は2日から始まる夏祭りの準備をしなくてはならないから、これで終わりにしよう。こんなことが書けるのだから、やはり冷静ではないだろうか。
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