高齢者の交通事故が相次いでいる。いくら認知機能検査に合格し、高齢者講習も済ませても、いつどこで自分も事故を起こすかも知れない恐怖に襲われる。もうハンドルは握りたくない、そんな気持ちになってしまう。日頃はもっぱらカミさんが車を使っているので、私がハンドルを握るのは姉のところへ見舞に行く時か、長女のところの小4の孫娘を迎えに行く時くらいしかない。
私はこれまでと変わらなく運転ができているつもりだが、事故はいつどんな風に起きるか分からない。高齢者の交通事故がこれだけ多く報じられると、そんな気持ちになってしまう。4日の中日新聞に「引きこもり 危険視やめて」と題した記事が大きく出ていた。神奈川県川崎市の事件を起こした加害者は、「引きこもり」だった。元農林水産省の事務次官だった男は、「引きこもり」の長男を刺し殺した。
こんな事件が大きく報道されると、誰もが「引きこもり」は危険な殺人者と結び付けてしまう。それに追い打ちをかけるように、「人を巻き添えに殺すのはよくない。自分ひとりで自分の命を絶てばいい」「死にたいなら、ひとりで死ね」「迷惑かけずにひとりで死ねば」といった発言が相次いだ。一般的な感情論だろうけれど、自殺を奨励するだけでは本当の解決にはならない。
交通事故や殺人事件など、社会で起きた様々な事件を報道するのは、みんなに知ってもらって再発を防ぐためだ。こういう手口もある、こういう抜け道もある、などと興味をいっそう抱かせるためではない。事故の原因を探り、事故を無くす、これが報道の基本だと思う。隠さずに全てを知らせることは大切なことだけれど、報道する側は何をどうなんのために知らせるのか、吟味しなくてはならない。
被害者や加害者の家族に、「今の心境を」としつこく質問する記者がいるが、それで何を引き出したかったのだろう。報道にかかわる人々は、私たちの社会をよくしていくという重大な任務を背負っている。社会をしっかり見つめ、分析していって欲しいと思う。