友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『こどもの日』

2017年05月05日 18時48分03秒 | Weblog

 『こどもの日』は、何をしていたのだろう。祖母が生きていた時は、木型に米粉を押し込み蒸して色つけした「おこしもち」を食べたように思う。母の実家は知多半島だが、こちらでは「ちまき」だった。実家は丘陵地の集落だったが、母の妹の家は海岸にあり、ここでは「かしわ餅」が食べられたと思っている。もう、「おこしもち」を作る家はないし、「ちまき」も「かしわもち」も家庭では作らなくなった。

 母屋から離れた小屋に機織り機があり、祖母はコットンコットンと機織りをしていた。三河木綿という反物を織っていたのだと思う。その小屋の隣りに鶏小屋があり、朝、小屋から卵を取り出して祖父に食べさせていた。時々、祖母は私を連れて映画館に行った。長谷川一夫と市川雷蔵のファンだった。時代劇が好きだったのか、時代劇しか観なかったのかと思うほどだが、話題の『君の名は』はひとりで観に行っていたのだろうか。

 祖母は私を可愛がってくれたが、私は祖父とはウマが合わなかった。祖父が大事にしていた大工道具を持ち出したりして、叱られることが多かった。姉と兄は年子で、姉とは14歳も離れていたので、姉を知った時は「ヨソのおばさん」だった。兄は英語が好きで、英語の雑誌を読んでいた。兄に連れられて名古屋にあったアメリカ軍将校が住んでいる家に行ったこともある。会話が出来たのだから英語力は確かだったと大人になって分かった。

 兄は英語の教師になりたかったが、材木屋の跡継ぎになるため大学進学をあきらめた。徒競走で一番で走っているのに途中で止まり、後から来る子を待つような優しい人だったから、祖父に頼まれて断ることが出来なかったのだろう。いやいやながら材木屋を継ぎ、おだてられて建売業に手を出し、人の好さに付け込まれて保証人を引き受け、結局は破産し夜逃げしてしまった。

 兄の子どもたちと再会したのは、兄が死んでしばらくしてからだ。正月と盆にみんなで会うようにしてきたが、いつまで続けられるかと思う。甥っ子や姪っ子の子どもたちが結婚し子どもが生まれたら、やはり子どもたちとの絆を強めるべきだろう。今年は祖父が建てたお墓も撤去してしまったから、みんなにその跡地を見てもらう。集まりも正月だけにした方がよいのかも知れない。

 今日も朝からルーフバルコニーで作業し、14鉢仕上げた。4日間連続で疲れた。

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