「ねえ、どうだった?」「生まれる前ってこんな気持ちかなぁー」と、次女がいろいろ私に聞く。「産んだことがないから、分からん」と言っているのに、「この辺に頭があるみたいなんだけど、分かる?」とまた聞く。「よく分からないけど、どうして?」と訊ねても、「頭がここにあるってことは、まだまだってことだよね」と言うので、「僕は産んでいないから」と答えるしかない。
欲しくて仕方がなかった妊娠だったのに、出産前は不安でいっぱいになるようだ。それでいて、迷惑をかけたくないと思うから不安を口にしないが、なぜかイラついている様子が見て取れる。10代や20代の身体なら何も心配することはないのかも知れないが、40歳となると産む方も生まれる方も大丈夫かと思ってしまう。次女は私以上にそれを心配していたのだろう。「母子ともに健康です」と聞いた時は本当にホッとした。
次女が分娩室に入る前、隣りの室は既に分娩状態となっていて、大きなうめき声というか、奇妙な叫び声というか、悲しいような恐ろしいような声が響き渡っていた。私はとても聞いていられなくて、面会室で待機することにした。分娩に立ち会う夫もいるというけれど、かなり胆の据わった人だと思う。出産の時の痛みがどれほどのものか、私には想像することも出来ないけれど、あの悲痛な叫び声を聞いただけで、恐ろしくなる。分娩に立ち会ったためにインポになる男性がいるというのは理解できる。
どれほどの苦痛なのかは分からないが、SEXで女性が昇天するのは、苦痛の代償として受け取る悦楽というものだろう。SEXが苦痛でさらに出産の苦痛も引き受けるのは、余りにも不公平だ。だからこそ神様は女性に、男以上にSEXの喜びを与えられたのだと思う。生まれ出た子どもの愛らしさも、苦痛を癒す大きな力だ。そしてまた、精子を放っただけの父親も我が子を実感することにもなる。子どもが育っていくと次第に苦痛を忘れてしまうが、忘れられるからこそ次の子つくりに挑むことが出来ると思う。