ネコのミモロのJAPAN TRAVEL (Mimoro the cat:JAPAN TRAVEL)

「京都観光おもてなし大使」のライターとネコのミモロが、京都の情報や暮らし、グルメなどをご紹介。心和む雑誌のようなブログ

坂本龍馬ゆかりの伏見「寺田屋」。当時の様子を復元した建物や資料を見学

2016-08-31 | 歴史・史跡

夏のある日、ミモロは、伏見に出かけました。
 
濠が走る水の町、伏見は、大阪と京都を結ぶ船の荷揚げ場として、栄えた町。「京都の町中とは、ちょっと雰囲気違うよね~」とミモロ。

そう、濠のそばには大きな酒蔵が並び、鴨川が流れ込む滔々とした淀川の景色もあり、京都の町中より、開放的な感じです。

さて、伏見といえば、幕末、薩摩、長州など尊王攘夷の討幕の志士と、徳川幕府の佐幕派が、それぞれの立場で日本の未来を思い、ぶつかった場所です。
交通の要所ということもあり、伏見には、薩摩藩や土佐藩の屋敷も置かれていたのです。

ミモロが訪れた「寺田屋」も、そんな歴史の激動期の舞台になったところです。
 
「寺田屋」は、京都に滞在する坂本龍馬の定宿のひとつ。
「あ、坂本龍馬だ~」敷地内には、龍馬の銅像が迎えます。

慶応2年(1866)1月23日。滞在中の龍馬は、幕府方の襲撃を受け、負傷する「寺田屋事件」が起こります。
その事件から、「寺田屋」は、歴史に名を記す場所になりました。

「中を見学しようよ~」とミモロ。
現在も旅館として営業し、その一部が坂本龍馬に関わる史蹟博物館として公開されています。

龍馬がいた時の宿の建物は、鳥羽伏見の戦いで、焼失。現在の建物は、それ以後、復元されたものです。

入口からまずは、階段を上がり、龍馬お気に入りの部屋「梅の間」へ進みます。
「う~急な階段・・・」 
「あ、刀傷だって…」佐幕派が階段を駆け上がったときの刀傷の再現。

「ここが、龍馬お気に入りのお部屋?」
 庭に面した静かなお部屋。
そこには、龍馬の姿の掛け軸や写真、ピストルや刀など、当時を思わせる品々が展示されています。
 
「わ~龍馬がいっぱい…」。床の間にかかる掛け軸は、この宿の女将お登勢が、龍馬に薦め、絵師に描かせたと言われるもの。
これが円山公園の銅像のモデルになった絵だそう。
「この絵、焼けなかったんだ~」そうなんでしょうね~。ここに飾られてるのはレプリカだと思うけど…。

後に妻となるおりょうさんが、入浴中、迫り来る刺客に気づき、部屋で長州藩士、三吉慎蔵と飲んでいた龍馬に、裸で急を知らせたという話は、有名。「あの階段、おりょうさんが上がって来たのかな?」おりょうさんが駆け上がったのは、別の階段です。


その「寺田屋事件」などを説明した絵も展示されています。
 
深手を負った龍馬らは、なんとか「寺田屋」を脱出し、追手を逃れ、近くの材木小屋に隠れます。
その後、薩摩藩の伏見屋敷に、それを知らせた三吉慎蔵は走り、薩摩藩から船で助けがやってきて、負傷した龍馬は救われるのです。

「寺田屋から土佐藩のお屋敷すぐ近くなのに、そっちに助けてもらえなかったんだ~」とミモロ。
そう、脱藩した龍馬と土佐藩の微妙な関係が伺えます。

龍馬の窮地を救ったおりょう。共に、京都の薩摩屋敷に移り、しばし療養の後に、薩摩への旅にでます。これが日本初の新婚旅行と言われるもの。


龍馬は、とても筆まめで、さまざまなことを、姉の乙女に手紙に綴っています。
それらの書き記したものが、その当時の状況を今に伝える貴重な歴史的資料になっているのは間違いありません。

「龍馬が筆不精や、記録するの嫌いだったら、きっとその当時の様子わからなかったね~」とミモロ。

現在の「寺田屋」は、第14代寺田屋主人が復元したもの、実際、当時の建物は、その隣の今庭になっているところにあったそう。



2017年は、大政奉還(1867)から150年の節目。龍馬や幕末の志士たちに関する展示やイベントが次々に企画されています。

*「寺田屋」京都市伏見区南浜町 075-622-0243 見学受付は、10:00~16:40 拝観料400円 月曜不定休 交通/京阪「中書島駅」から徒歩5分 京都駅からタクシーで15分


人気ブログランキングへ
ブログを見たら、金魚をクリックしてね~ミモロより


ミモロの通販ショップ「ミモロショップ」はこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする