わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

「成長」の呪縛。

2012-06-03 01:58:00 | カイシャ・シゴト
ことの発端は、隣の室のマネジャーに、彼の親友だという別のマネジャーのことを「最近○○さん、ヤバそうです。何か会話してます?」と言ったことから始まった。
会話の中心は「ヤバそうなマネジャー」の仕事っぷりだったんだけど、最近、元気なさそうに見えるけど、と心配された。「そりゃー、いろいろ悩んでますよー、このままでいいのか症候群です」と軽口叩いたら、


事業で仕事するって選択肢はないの?
今とは違った「成長」ができると思うけどな。


と。


ありゃりゃ。激しく違和感。


なんで?


ひとつめは、もともと、あたしはライン志向だったってこと。今のカイシャに入ったのだってそれが出発点だったし、社会人のスタートもそう。そういや、就職活動してたときにも「ライン志向なんですね、スタッフでもじゅうぶんにやっていけると思うし、むしろスタッフに欲しいけど」みたいなことはよく言われた。
社会人大学院に入るときの研究計画もIEとからめて「効率的な組織設計と運営」みたいなことをやりたい、ってものだったし、何よりも、ケイエイキカク室に異動、専任になるときに、泣いて嫌がって(あ、泣いたというのは嘘ですwww)、おぢCに怒られたし。


もうひとつの違和感は「成長」ってことへの呪縛。


成長って言葉に今、異常なほどに拒否反応示してるんだけど、それってなんでだ?っていうと概ね3つの理由から。


一つ目は、
成長成長っていうけど、そんなに右肩上がりでがんばっていかなきゃならないのはしんどすぎる、って思い。これは今、殊更に弱っているからそう思うのかもしれないけれど、しゅーかつ中の大学生が陥るように、ばりばりと働くのはあたしにはムリってキモチに近いかも。どこまで行ってもゴールがない、あの坂を登れば海が見えるはずだったのに、また坂かい??見たいな息苦しさ。

二つ目は、
そうは言っても「成長」の尺度っていうのは、第三者によって定められているっていう違和感。特にカイシャ組織にいるとなおさらで、上司の思う方向に成長してはじめて、成長したと言われる。あたし自身が自分でいくら成長した、これができるようになった、と思っていても、カイシャ/上司が認めなければ成長したとは認めてもらえないわけで。評価、とも言えるね。
あいつ、成長したな~っていうとき、なんとなーくですけどね、組織にとって都合のいい人になっていくようなそんな違和感を覚えて仕方がないわけです。上司にとって自分の存在を脅かすほどに成長してしまった部下は脅威でしかないわけで、見えない枠があるような気がするんですよ。もちろん、上司に力があればそんなこと全然怖くないんでしょうけど。

三つ目は、
あえて言っちゃいますが、成長しろ、と言っているあなた(上司)は成長してますか?しようとしてますかってこと。
中原先生と長岡先生の「ダイアローグ」のあとがきにも書かれていたこのことは、自らに言い聞かせている。他人に強要しちゃいかん、と思うけど、それでもしたり顔で「成長」って言葉を口に出されると、じゃああんたは?といいたくなっちゃうココロの狭いあたしがいます。


昨日より今日の方が素晴らしい一日でありたい、そのために一生懸命生活する、生きる。成長ってそういうことな気がする。カイシャとか仕事って文脈で言う「成長」ってコトバが好きじゃないだけなんだ、とあらためて気付いた。
コメント
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