長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

小平 名もなく命もいらず アンコールブログ連載小説3

2013年08月05日 07時51分05秒 | 日記
  しばらくして、棺から離れて別の部屋にいってから、「想像もしなかったわ……あなたが……こんなところで生まれ育ったなんて」と卓淋は息をつぎながらいった。粗末な家が妙にしっくりこなかった。このすべてを、そして自分の知らない小平を、頭の中でなんとか整理しようとしていた。
「そりゃどうも」小平はそっけなくいった。
「そんなつもりでいったんじゃないわ」
 しかし、彼はきいてなかった。それから二人はすぐに、帰るべく外にでた。屋敷から車庫につづく屋根の下に並んで駐った二台の車のほうにあるいていった。一台は安っぽい農業者が乗るようなトラックだったが、小平の目が釘付けになっているのはもう一台のほうだった。
 なんだかピカピカのメード・イン・ヨーロッパの外車だった。あざやかなその外車はクリーム色で、人の手で忍耐強くワックスがかけられ、磨きこまれ、みごとな光沢を帯び、輝くばかりだった。
 卓淋は仰天した。「お父さんって、お金持ちだったの?」
「ただの地主さ」きらびやかな外車からかたときも目を離さずに、小平は答えた。「よく手入れしてある」車のボンネットをいとおしげになでた。
「すごい車ね」卓淋はほめた。
「おやじのやつ、無理して買ったんだ」小平は柔らかくいって、つけたした。
「ハンドルを握ったのは一度きりだけどな」
 その言い方がどこかおかしくて、卓淋は彼に鋭い目を向けた。しかし、彼はその視線を避け、黙り込んでしまった。
 石に囲まれた大きな花壇には、うっとりするほどさまざまな薔薇が集められていた。花が大好きな卓淋は、たいそうに珍しい品種が混じっているのに目をとめた。しかし、それらはうなだれ、葉はほこりをかぶり、花びらの先が茶色に変色しかけていた。
「水をやらなくちゃ……全部枯れてしまうわ」
 小平は薔薇に軽蔑の視線を投げ付けた。花をその場で枯らしてしまうようなスルドさだった。「心配しなくていい」と、ぴしゃっといった。またまた驚きだ。薔薇の園にいったいなんの恨みがあるというのか?

 それから、ふたりは車庫をあとにし、庭に置いてある長椅子に腰かけた。やがて不意に……
「なあ、あの外車のこと、覚えてる?」小平がきいた。
 卓淋は何か重大なことが起こるのを予感して、うなずいた。
「おやじのベービーだったんだ。あれと…くそったれの薔薇がさ」彼の声には、怒りをふくんだ苦々しさがあった。「おれはあの車には手も触れさせてもらえなかった。「高級車だからな」っていうのがおやじの口癖だった。「敬意を払わなくては。子供の乗るもんじゃない」っていうのさ」彼の声は気味悪いほど横柄で、卓淋は文明の言葉のこだまを聞いたような気がした。
「中学二年。十五のときだった。そのとき一度きりだけど、成績表を持って帰って、それがほとんど優で……」
 卓淋は感心した表情を浮かべた。
「そんな驚いた顔しないでくれよ」
「じゃあ、ぶっとばされたって顔はいかが?」
「やってみろ」卓淋はその表情をつくり、二人してにやっと笑いあった。
「で、おやじんとこへいった」小平は続けた。「おやじはいつものように「おめでとう」ともなんとも言わなかった。そして、口癖をいった。「お前ならもっと出来るはずだ」ってな。まぁ、またか!って感じだったよ」
「そう。」
「で、あの外車に友達乗せてドライヴしていいか、ってきいたんだ。勝利のドライヴってとこかな。おやじはだめだといった。けど、おれはとにかくでかけた。キーを盗んで。こっそり抜け出した」
「どうして、そんなことを」卓淋の目が彼の顔にじっと注がれ、答えをまっていた。
「だって、褒美として当然じゃないか!」小平の声がうわずり、ついには震えだした。「おれはみごとにやりとげた!おやじの言葉を借りればな。なのに……」小平の声がしぼんだ。「……おやじのやつ、へそ曲りのろくでなしだった」
 そのときからなのね、卓淋は悲しく考えた。そのときから、彼は父親が嫌いになったのね。彼女はなにもいわず、ただ熱心に耳を傾けた。
「で俺たちは村から離れて公道を走っていた。ガキ四人でさ。そしたら車を停められた。おやじが車の盗難届けを出してたんだ。自分の息子が許可なく車をもちだすはずない。たんに盗まれただけだって」小平の顔が苦悩に満ちたものになった。
「捕まったの?」
「あぁ」
「警察に?」
「そうさ。………警察本部。…友達のおやじは保釈金を積んで、一時間もしないうちに子供をつれてかえった。うちのおやじは知らんぷりだった……二日間も」
「ひどい…」深いショックを受けて、卓淋はつぶやいた。
「怖かった?」
「あぁ。酔っ払い連中がヘドを吐くし」彼は恐怖に満ちたあの四十八時間を思い出して、身震いした。「あのときだけはさすがの俺も腹の底から怖いとおもったね。パンツを濡らすほど…。おれはもうそれから父親とは口をきかなかった。そして、俺は家をでた。それっきり戻らなかった」
 そうだったの。そんな事情があったのね。息子に決して満足しようとしない、執念深い横暴な父親から逃げ出した少年、自分だってやれるんだということを父親にみせたくて自分なりに努力した少年の物語。しかし、残念ながら遅すぎた。父親が彼の成功をみとめることは決してないだろうし、彼の失敗を咎めることも二度とないだろう。父親が彼を誇りとすることもないのだ。
 小平が卓淋に笑顔を見せた。”こんなのへでもないさ”と強がってみせる笑顔だった。


         内戦の終結



  1939年。日本の傀儡国家、満州国が成立した。国家元首にはあのラストエンペラー、溥儀(ふぎ)がなった。しかし、なったといっても彼はたんなる日本軍部のパペット(操り人形)にしか過ぎなかった。その頃、中国共産党軍は国民党軍と日本軍に追われていた。そこで「長征」がふたたび開始された。………
 ”馬が倒れれば馬肉を食い、馬肉がなくなれば骨をかじり、骨さえなくなれば草の根樹皮を食い、最後にはベルトさえ食べた。飢え、病気、誤って食べた毒草、底無し沼、様々な危険が行軍兵士たちの命を奪っていった。”
 小平自身もチフスに犯され、半身半病のまま行軍したという。
 その4年前の1935年には、ある会議が開かれている。会議ではソ連派の指導部への不満が高まっていた。そんな中、周恩来がイスから立ち上がって言った。
「毛沢東同志を中国共産党のトップに指名します」
 こうして毛は実権を取り戻し、小平も復活した。毛、、周のそののち四十年にもおよぶトライアングルができた瞬間だった。
 ふたたび1939年……。日中戦争勃発。その頃より、小平の軍はすざまじく、日本軍から悪魔のように恐れられた、という。
 そしてついに、1945年。日本は広島と長崎に原爆をおとされ、無条件降伏をするのである。”耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……”昭和天皇の声がラジオで流れた。 こうして、日本は戦争にやぶれ中国から引き上げた。しかし、その頃、中国は内戦に突入していた。共産党軍と国民党軍の泥沼の内戦である。いわゆる「国共戦」であった。
「国民党をやぶり、地主から農民を救おう!」
 毛の命令のもと、小平は次々と地主を殺していく。彼はのちにいっている。「彼等を殺さなくてはどうやって小作人たちに土地をわけ与えることができるのだ?」
 そうして小平は序々に国民党を追い詰めていくのである。そして……
 1949年、南京解放。国民党は惨敗し、命からがら台湾へと逃げのびていった。毛は小平について「あの男をナメてはいけない!国民党百万の兵を懺滅した男だ」と語ったという。そう、あの小平がである。

「おとうさん、どういうかしら?あなたの活躍をみたら」
 卓淋は彼にきいた。しかし、彼はいやそうな顔で、「さぁね」と答えるだけだったという。あんな父親のことなど、どうだっていい!とにかく、我々は勝ったのだ!……





         二・五戦略とTMD(戦域ミサイル防衛構想)


  ナチス・ドイツと日本帝国という悪の帝国が滅んだことは、とてもいいことだった。しかし、ドイツには原爆を落とさずに、何故アメリカは日本にだけ二発も落としたのか? もう日本の敗色は誰の目にも明らかな時に…。あるひとは、日本は黄色人種だから、だとか、あるひとは核爆弾の実験がしたかったのだ、という。しかし、それはあるにしても、戦争という状況下でおこったことであり、日本人が被害者意識だけをもって世界にアピールするのはおかしい。それどころか、日本は加害者であるのだ。中国や朝鮮などで大量の人々を虐殺したりレイプしたりしたのはどこの国の人間か?南京大虐殺は?従軍慰安婦は?731部隊は?まだまだある。だからけして日本人は被害者ではない。だからこそ、アジア諸国にまともに謝罪もしないでただ広島や長崎のことだけを持ち出して”世界平和”を宣言するこの国は、ひどく異常にみえるのである。
 確かに、広島などへの原爆人体実験は許してはならない。しかし、その前に加害者としての意識をもつことだ。
 ワイドショーだとかくだらない番組をみて馬鹿笑いしているだけではなく、そうした意識をもつこと……これが重要なのである。
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
 まさに至言なのだ。
 原爆をおとしたのは戦争終結を早めるため、そしてソ連に日本を侵略される前に日本に「降伏宣言」をさせてソ連をストップさせるため、というのがアメリカのたて前だ。
 しかし、その頃、ソ連も中国もアメリカの陰謀を知るよしもなかったろう。
 アメリカに軍産複合体が誕生したのは第二次世界大戦の頃である。大戦以前から、アメリカ国内では、ウォー・エコノミー(戦争経済)を永年的に維持していく必要性を産業界の大物たちが説いていた。独裁主義にかわって新たな敵・国際共産主義・ソ連邦や中国の影響力が台頭し始めたからだ。だがそれは、民主主義をおびやかす巨大な勢力の誕生も意味していた。
「アメリカの民主主義はいまや新しい勢力によっておびやかされている。それは軍産複合体と呼ばれる力である。軍産複合体の経済力、政治力、そして精神的とまでいえる影響力は、すべての州政府、すべての連邦政府機関に浸透している。この複合体が、われわれの自由と民主主義政治過程を破壊することを許してはならない」
 一九六一年、アイゼンハワーが大統領辞任演説で国民に残した警告だった。軍産複合体は、ソ連や中国との兵器近代化競争に打ち勝つため、膨大な補助金を大学の研究所に注ぎ込み、優秀な頭脳を集めて新しい武器開発を求めてきた。そこで得た成果をもとに、軍需産業が大量に生産する。優秀な大学で実験された武器や兵器が、大企業によって大量に生産される訳である。そして戦争によって大量に消費される。こうして軍産複合体は、大学の研究室と産業と政府がガッチリと手を組んで、冷戦という需要を手にして巨大なものとなっていったのだ。
 戦争を無傷で乗りきり、そして莫大な利益をあげた産業界にしてみれば「ウォー・エコノミーを維持すべき!」という意見は当然だった。しかし、ドイツは降伏してしまった。だが、戦争状態とはいかないまでも、その一歩手前であればかまわない。アメリカ人が納得するような潜在的脅威を秘めた敵……格好の敵がある。国際共産主義の代表で、共産革命により世界征服を狙う「ソヴィエト」と弟分の中国だ。
 戦後すぐにソ連はイランのアゼルバイジャンに傀儡政権を立て、中東への土台にしようとしたし、ギリシアやトルコでも混乱に乗じて共産革命の後押しを演じている。またチェコ・スロバキアをはじめとする東欧諸国はソ連圏に飲み込まれつつあった。(一九四七年六月、ハンガリーでは共産党が権力を握り、四八年にはチェコ・スロバキアも共産化された。一九四七年九月にはアメリカのマーシャル・プラン(欧州復興計画)に対抗するためソ連リーダー・シップのもと、コミンフォルムが結成された)
 アメリカ人にとっては、これはソ連の拡張主義以外のなにものでもなかった。
 第二次世界大戦では共に闘ったが、それはなりゆき上であって、もともとアメリカはソヴィエトの持つシステムには嫌悪感を抱いていた。だからソヴィエトを「悪の帝国」と呼ぼうが不自然ではなかった。もちろん、ソヴィエトが被害者だった訳ではない。それはモロトフ・リッベントロップ秘密義定書やカティンの森事件など様々なことでも明らかだ。そして、アメリカはソ連の弟分の中国もまた嫌っていた。
  さて、二・五戦略というのをご存じだろうか?
 これはアメリカの当時の軍事戦略である。
 わかりやすく書けば、二つの大きな戦争とそれプラス中くらいの内戦的な戦争をアメリカ軍は同時に実行できる、というペンタゴン(米国国防総省)の考えである。二つの大戦とは間違いなく、対ソ連と対中国、内戦は例えば朝鮮半島などだ。えらい自信である。しかし、ヴェトナム戦争で”そんなことはできない”ということをアメリカは証明してくれた。
 さて、話は変わるが、冷戦が終結してもうだいぶたつ。それから世界は軍縮に向けて動き続けたが、東アジアだけは例外である。
 理由は難しくない。東アジアでは中国と台湾、そして朝鮮半島がいう分断されたままであり、危機の構造が依然として存在するからである。そのため、東アジア諸国は財政が苦しい中から国防費予算を年々増大させ、新兵器の導入に血まなこになっているのだ。
 とりわけその問題が焦点となった台湾総統選挙をめぐって中国が態度を硬化させ、演習と称して台湾近海にミサイルを撃ちこむという事態になった。
 これに対して米国は台湾海峡周辺に空母『インディペンデンス』『ニミッツ』を中心とする海軍機動部隊を派遣した、ということもあった。
 しかし、本当に中国は「脅威」なのか?ときかれれば疑問符がつく。
 中国人民解放軍は約220万人で兵力こそ世界最大だが、装備は旧式で海軍の上陸作戦能力や空軍力は特に貧弱である。ロシアからスホーイ27、37戦闘機や潜水艦などの新型兵器の導入を急いでいるものの、外貨が充分でないためまとまった数をそろえることができず、また維持管理能力も低いので、実戦ではさほどの威力は発揮できないだろう。(新兵器の供給を外国に頼ること自体、軍事技術の水準が低いということ。)
 北朝鮮も似たりよったりで、北朝鮮軍が韓国軍をやぶって半島を占領することなどありえない。中国も北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)もミサイルを除けばさしたる脅威はない。
 中国が台湾に上陸すること、武力占領することも、不可能である。しかし、戦略ミサイルを中国本土から発射して台湾にぶちこむことは可能だ。(発射から10分でターゲットに到達するというから、迎撃も難しいという。)
 これらのミサイルはすべて旧ソ連のものの改良型だ。北朝鮮の「ノドン」「テポドン」イラクの「アル・フセイン」中国の「M9」などはスカッド戦術ミサイルの改良型である。 ここにアメリカの軍需産業・軍産複合体は目をつけた。つまりTMD(戦域ミサイル防衛構想)である。(湾岸戦争の時のパトリオットの発展型)ここに生き残りをかけているのだ。また、軍産複合体のつぎの獲物は「朝鮮半島」だ。だから、「北朝鮮や中国の脅威」は軍需産業のメリットにつながる。だからこそ、中国軍などの装備の貧弱さをアピールしないで" 有事””有事”と主張するのだ。
  それに乗せられるのは、やはり日本国政府である。具体的にいえば、日本の馬鹿政治家はTMDのために巨額の予算を分担することだろう。
「中国が脅威だ」「危ないのだ!」「北朝鮮が脅威だ!」などと主張して開発や導入に巨額の予算を投じることなど愚の骨頂だといわざるえない。
 そもそもミサイルを迎撃するなどと考える前に、飛ばさなくする方法を考えていくこと、信頼関係を築くことの方が建設的であるはずだ。
 軍拡に走る国やテロ国家(北朝鮮、イラン、スーダン、シリア、キューバ、アルジェリアなど)へのODA(政府開発援助)などを考えて減らしたりゼロにしたりしていけば、「脅威」は少なくなる。そして、貧国の経済を発展させていけば、大半の「脅威」も消え去るのである。なぜなら、エスノ・ナショナリズム(民族主義)や宗教対立の根は貧しさにあるからだ。貧しいからこそ争う、銃をもつ、殺し合うのであり、所得が上がっていけば人々のフラストレーションも少なくなり、「脅威」などなくなっていくのだ。(教育も大事だけれど)そうしたアクション・プランが実行されること、「脅威」を減らしていくためのアクションこそが大事なのである。……
 日本に求められているのはまさにそれなのだ。










































   第二章 文化大革命





















         新中国成立


  一九四九年十月一日。
 天安門広場は大勢の人々でごったがえしていた。無数の赤旗と中国国旗がひるがえる。見物人の間から拍手が沸き上がった。彼等の視線は、毛沢東に向けられていた。
 毛沢東は足下の人々にむかって手をふった。そして、メモ用紙を取り出して、
「中華人民共和国
 今天成立了!」
 と宣言した。
 すぐさま大歓声と拍手がわきあがった。
「万才!万才!」
「毛沢東主席、万才!万才!」
「中華人民共和国万才!」
「万才!万才!」
 ”中国の革命は偉大ではあるが、
  革命後の行程はもっともながく、その仕事は、もっと偉大であり、もっとも労力のいるものである。
  中国の人民民主主義革命の勝利は、長い芝居のちいさな序幕にすぎない!
 われわれはまた新しい万里の長征の第一歩をふみだしたのだ。”
                      一九四九年・毛沢東

 中華人民共和国の成立である。
 小平はこの時、毛沢東のすぐ近くにたち、満足そうに宣言をきいていた。小平ときに四十五才……第二の出発の齢だった。

 毛沢東によって「新中国」の建国が宣言された。これは「共産党イコール新中国」という、共産党独裁宣言だった。そして、それは同時に共産党内での新たな権力闘争の始まりでもあった。それは、高嵐、暁瀬石の「反党陰謀活動」を理由とした摘発。これは周恩来と劉小奇らによる陰謀だった。こうしてさまざまな権力闘争が激化することになる。
  この年、一九四九年の十二月、毛沢東はソヴィエト連邦を訪れている。しかし、この頃より中国とソ連の仲は悪くなっていくのである。毛沢東とスターリンの確執の違い、それが原因だった。………



         チベット問題と朝鮮戦争


   中国軍政府がチベットを占領したのは、一九五○年のことである。以来、抵抗を続けていたチベット民衆は、59年首都ラサで武装蜂起したが鎮圧され、ダライ・ラマ14世は北インドへ亡命した。
 以後、独立運動が続いているが、この間の犠牲者は120万人(チベット側の発表)に達するという。このチベット虐殺・弾圧問題は日本人にはあまり知られてない。(もっとも日本人は国際情勢をまったく知らない)が、この問題は中国の人権弾圧問題として根が深い。また、公開処刑などが連日おこなわれるのも問題だ。

 1950年、六月。スターリンと毛沢東がGOサインを出し、突如として北朝鮮軍が38度線を突破し、南下してきた。これがのちにいう、朝鮮動乱である。
 国連軍として参戦した米軍司令官ダグラス・マッカーサーが、北朝鮮人民軍の背後から仁川に上陸、北朝鮮軍を寸断した。戦況が一気に逆転したところで、突然、20万人の中国共産党人民志願軍がなだれ込み、国連軍は38度線まで押しもどされてしまう。あまりの人海戦術に苦戦したマッカーサーは中国軍の後ろ・北朝鮮に原爆投下を進言する。だが、トルーマン大統領(当時)に却下され、マッカーサーは「アジアの紛争にアメリカは関与すべきではない」といったのち解任されてしまう。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という彼の言葉は、あまりにも有名である。南北朝鮮は分断されて現在にいたる。
 が、この悲劇の元は日本であることを忘れてはならない。(日本が侵略した半島を解放するという名目で米軍とソ連軍が半島に駐留し、半島は共産と反共産国に分断された。そうした冷戦化のしくずが現在の朝鮮半島である。ヴェルリンの壁がくずれ、ソ連邦が消滅した今、この半島だけが冷戦状況をひきずっているということになる。)
 とにかく北朝鮮のことは後述するが、この半島は注意深くウォッチしてもらいたい。この半島に内戦でも起これば、ボートですぐにいける国・日本に大量の難民がやって来ることは間違いがないのだから。
 よもや、それさえ理解できない人間がいるとは考えにくいが、いるかも知れない。しかし、そんな馬鹿はほうっておいて読者の皆様には真剣にウォッチして頂けることを願いたい。
 なにも一日中、北朝鮮や中東などに目を向けろといっている訳ではない。ほんの五分でもいい、一分でもいいから海の向こうに目を向けて自分で考えてほしい。
 ”国家にとってもっとも恐るべき敵は、何事にも無関心な国民である”
 JFKの言葉だ。
 …これこそまさに至言なのだ。
 考えればわかる。自分のこと、自分の金のこと、恋人のことや子供のこと成績のこと…こうしたことだけしか考えず、海の向こうでなにが起ころうが無関心を決め込む。そして、ワイドショーやくだらないバラエティ番組やカラオケに逃げ込む。バングラデシュやアフリカで何万人死のうが、チェチエンなどで何人死のうが”どうでもいい”と考える。もしくは”世界が平和になりますように”などと漠然と考える。考えるだけでアクションを起こさないならそれは何もしないのも同じことだ。
 無関心を決め込む人間ほど恐ろしいものはない。なぜなら、無関心=関心のないことにはコミットしない勉強しない、考えない……ということだからだ。
だからそうした人間は馬鹿になる。教科書は暗記できるがオウムに騙されてサリンをまいたりするようになるのだ。
 すべて、自分の頭で考えないから……何ごとにも無関心をきめこむからそうなるのである。なんとなく薬害エイズ運動に参加した手合いも同レヴェルである。ならばどうするか? 自分で考えろ!といいたい。とりあえず、十八才以上にもなって本屋やラーメン屋でぶ厚いマンガ雑誌を読み耽るような人間にはなるな!
























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