堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

速水堅曹の卒業論文

2010-01-16 00:41:47 | 勉強会、講演会

14日は前橋に歴史ワーキンググループの勉強会にいってきました。

今日はなんと、素敵なお客様が。。。

群馬大学のMさん。

現在大学3年生で、こんど卒業論文に速水堅曹を取り上げたいのでアドバイスを、と連絡があり、

ちょうどいいので歴史WGにお呼びしました。



前日に相棒Tさんから連絡があり、

へぇ、卒論に速水堅曹ね~。

堅曹さんも、そうやって若い人が関心を持って、

卒論に取り上げられたりするほど認知されてきたんだ、と驚きと感慨がありました。




さて、期待をして待っていると、

やってきたのは将来は学校の先生になりたいというまじめな感じの教育学部の女の子。

きちんと卒論に取り組んでいる姿勢にたいへん好感がもてました。


歴史WGのおじさん、おばさんたちは、

若い人が速水堅曹に関心をもって取り上げてくれる、というだけでうれしくて、

参考資料やら、自分との関わり、どういう人物かなど、

彼女にそれぞれがいっぱい話をしました。


わたしは、どうして速水堅曹なのか、とそれが気になっていて聞いてみました。

彼女は卒論のテーマが中学校の社会科授業で身近な地域の人物を通して近代化を教える、という内容で、

群馬県なので、養蚕製糸に関する人のなかから探して選んだということです。


その答えを聞いて、うれしかった。

群馬県には養蚕製糸で活躍した人物は本当にたくさんいるけれど、

それで日本の近代化に大きく貢献した人といったら、堅曹さんはまさにぴったり!

あなたの選択は正しい!

堅曹さんを選んでくれてありがとう、とこちらがお礼を言いたいくらいの気持ちでした。



彼女からもいくつか質問があり、

堅曹さんはなぜ製糸業にかかわっていくようになったのか?

どうして富岡製糸場をつくるときよくないと批判したのか?

などなど。

それらについては、できるだけ参考になるように話しました。


でも、きっと彼女はいっぺんにたくさんのことを聞いて、頭のなかを整理するだけでも

大変かもしれない。

これからしっかり資料を読み解いてがんばってくださいね。

皆で応援してますよ、とエールをおくりました。


年明け最初の市民研究会

2010-01-10 23:59:25 | 原三溪市民研究会

お正月があけて、堅曹さん関連の初おでかけ。

9日に横浜の原三溪市民研究会へ行ってきました。

世の中3連休で、皆さん集まるかしら? などとおもっていたけれど、

しっかり20人も集まりました。

この会は、昨年『原三溪翁伝』を出版して、一応使命を果たしたけれど、

これからも本の普及を目的にさまざまな活動をしていこうと第2ステージが開きました。



まずこの日は4月からの体制づくりについての話し合いがもたれました。

名称は変えず、目的をはっきりと明文化し、会長や役員を選出し、会則をつくり、

新たな会として出発する方向が決まりました。

会員も新たに募集することにしました。

現会員のおよそ半数が、なにかしらの役になり

多くの意見が反映される風通しのいい会となりそうです。


Cimg2021 『原三溪翁伝』



さて、後半は昨年10月から続けている『原三溪翁伝』の輪読をしました。

今日は第一篇の最終章の三溪さんが亡くなった時の様子が書かれている部分と

第2篇の公共貢献に尽力した原三溪の功績を読んでいきました。


葬儀の様子は三溪園の庭に咲く蓮の花を飾るだけの実に簡素な、

しかし真に巨人を送るにふさわしい心のこもった式であったのが胸をうちます。

そして大正時代の生糸貿易の危機にさいして設立された

第一次帝国蚕糸株式会社と第二次帝国蚕糸株式会社の設立や運営の経緯が、

藤本實也流の聞き取りによる文章が多く載せられ、実証的に明らかにされています。


こうして読んでみると原三溪は実業家としてもっと評価されてしかるべきで、

横浜のために尽したことは本当にたくさんあるのだ、と改めて知ることができました。



会が終わって、有志で新年会しました。


Cimg7476 ドックヤードガーデン


ランドマークのドックヤードガーデンのところにあるお店で、

明治29年につくられた「ハマのドック」の石垣を眺めながらの乾杯!

横浜らしかった。


ラジオ放送 再聴

2010-01-06 23:52:40 | 日記・エッセイ・コラム

年が明けて、いろいろ考えている。

いわゆる「年頭の所感」というもの。


毎年人々は、今年はどういう風に過ごそうか、何を目標にしようかと考え、

神社に初詣でに行っては、おみくじを引き、大吉だ小吉だ、と気にしたりする。


私も毎年、年のはじめに一つだけ気にして見るものがある。

「日蓮宗御寶暦」

日蓮宗のお寺で毎年お檀家さんに配っているものです。


この中では、生まれ年によって、9つの星にわけられ、それぞれの星の人の

一年間の運勢が書いてある。

今年は「順調な年」とか、「変化の年」とか、「八方塞がり」とか・・・。


そこで、私の星(九紫火星)の今年の運勢は、「飛躍の年」。

本年は目上の引立てや周囲の協力に恵まれて、飛躍と好調な運気となりまが、

これまでの軌道をはずさず、自信をもって前進することが大切です。

実行にあたってはとまどってはいけません。

地道な努力によって大きな成果をあげましょう。


なるほど、今年はよさそうです。(良かった!)

「これまでの軌道をはずさず、自信をもって」 とあると勇気づけられます。

いままでやってきたことが間違ってなかった、と安心します。

「実行にあたってはとまどってはいけません。」

では悩まずに突き進みますか。




昨年末、伝道師のHさんのブログで私のラジオ放送を取り上げて紹介してくれました。

ブログ「蚕糸日記」~座繰りをするため群馬に移り住んで8年のHさんが

             座繰りのこと、生糸のこと、日々の生活を彼女の感性で綴っています。

             2009年12月28日の「蚕糸日記」 (←クリック)


そちらのブログから飛んできて、聞いてくださった方が何人もいます。

本当にありがたいです。



ラジオ放送されたのは、もう2年も前です。

堅曹さんのモニュメントを2008年の1月17日に建立、お披露目をした時に

私がインタビューをうけて語ったものです。


聞いていない方はこちらからどうぞ。(2008/2/9のブログより)

  P1090478 取材の様子

再生ボタンをクリックしてください。

<embed src="http://web.sfc.keio.ac.jp/~s05683sh/kokonihitoari.mp3" width="300" height="40" type="audio/mpeg" loop="true" repeat="true" autostart="false"></embed>

     (2010年3月末で再生は終了します)



久しぶりに自分でも聞く。

イッパイイッパイに話していて、息がつまるよう。

いろいろな事を思い出した。


2年前と今も、私の考えはまったく変わっていないことに気がつく。

  堅曹さんがやってきたことを明らかにしたい!

ただ、それだけ。

ぶれずに真っ直ぐにやってきたと自分ではおもう。

今年もそのために、一生けん命やるしかない、と心に決めた。


須坂新聞

2010-01-04 23:25:34 | 日記・エッセイ・コラム

新年早々、長野県の須坂新聞1月1日号に私のことが少し記事になりました。


   Cimg1994  須坂新聞1月1日号



昨年10月に「シルク・サミット 2009 in 須坂」がおこなわれ、

その成果として、明治初期の須坂の製糸結社「東行社」の扁額の揮毫した人物が

わかったという内容です。


135年前の明治8(1875)年、日本最初の製糸結社として誕生した「東行社」(須坂市上町)の

応接間に掛かっていたとされる扁額「東行社」を揮毫した「海東」とは、

第4代、第6代内閣総理大臣を務めた松方正義(1835-1924)と分かった。

昨年10月の「シルク・サミット2009イン須坂」の席上、

市誌編さん室の青木広安主任専門員が投げかけ、

出席した速水○○○さん(富岡製糸場世界遺産伝道師協会の伝道師)が調べ、

市誌編さん室へ連絡して判明した。


サミットの講演会で、地元に「海東」という人が書いた「東行社」の扁額があるが、

「海東」が誰だかわからない、という話がありました。(須坂サミット訪問のブログはこちら


物好きな私はなんだかすぐにわかるような気がして、帰宅後、調べてみました。


 ・「海東」が松方正義の雅号だということ

 ・落款も「正義之印」となっており、「海東」の印も松方の書に同じものがある

 ・松方の他の扁額の文字と非常に似ている

 ・「東行社」の創立初期の明治10年前後は、松方正義は大久保利通の下、

  勧業頭として蚕糸業にかかわり、第一回内国勧業博覧会の御用掛もつとめている。


これらの事から、松方の揮毫である可能性はたかい、とわかりました。

そのことを、地元で講演をした方に手紙でお知らせしたところ、それが記事となりました。


新聞には速水堅曹の経歴や松方正義との関係も書いていただき、

堅曹が明治10年須坂に視察に行ったときに厳しい評価をし,

翌11年に訪れたときは「大いに進歩した」と語ったことなども載っています。



わたしのようなものが調べたことが

「須坂人にとってはこの上ない大発見です」とたいへんに喜んでいただき、

恐縮しています。



松方正義は堅曹さんが中央の役人になってからは、ずっと関わりのあった方で、

製糸業について堅曹の考え方をよく理解してくれ,

堅曹がもっとも信頼をおいて相談をしていた政治家の1人でした。

自叙伝『六十五年記』で索引をつくると、一番の登場人物となります。


そんな松方正義の揮毫した扁額がたまたま訪れた須坂にあり、

名前が明らかになるお手伝いができたことは、

ご縁があったのでしょうが、本当にうれしくおもいます。