昨日前橋へ歴史WGの勉強会に行って来ました。
暑くも寒くもなく、行楽にはうってつけ。
高速から見える上州の山々も霞んでいた春のころと比べると、
くっきりとした稜線があらわれ早い秋の訪れを感じさせます。
今日も堅曹さんの自叙伝『六十五年記』を読み解きます。
明治21年から23年にかけての出来事。
富岡製糸所の所長として手腕をふるいつつ、自分がつくった同伸会社も7年がたち、
多くの生糸直輸出の会社の経営が立ち行かなくなっている折、立て直しのために株券の発行をし、
翌年(明治22年)の総会に臨みます。
ちょうどその時の「総会開催のお知らせ」、「新旧株主の名簿」というのが、
5月に小諸で見せていただいた高橋平四郎さんの資料の中にありました。
正にこの記述を裏付けるものです。
そして総会後、富岡に戻り新繭買い入れの一年でもっとも忙しい4月、
堅曹さんは馬から落ちて大怪我をしてしまいます。
腰を骨折し、「半死半生なる」と書いてあるので、
生死の間をさまようほどの怪我だったことがわかります。
すぐに医者にみてもらったが、治療中も繭の買い入れに動いてしまったのがよくなかったのか、
怪我は快方に向かわない。
4ヶ月後東京の有名な外科医に見てもらったが、
最初の治療で筋肉をいためてしまったのがいけなかったらしく、
その後数ヶ月におよぶ安静の生活を強いられ、結局一生杖をつく身となってしまった。
堅曹さん50歳の時のことです。
自叙伝には淡々と経過が書いてあるけれど、たいへんだったんだろうな、とおもう。
一番忙しい繭の買い入れの季節だったので、無理をして動いてしまったのが経過を悪くし、
ひいては杖をつく身となってしまった。
しかしたとえ身を損なおうともやらないわけにはいかず、
実業を担任する責任の重さとはこういうものだ。
と、めずらしく後悔と諦めに似た文章が書かれています。
そして約一年間その体で痛みに耐え、横になりながらも、富岡製糸所を経営していく。
一年後(明治23年)、当時の農商務大臣に宛てた上申書にこんなくだりがある。
近頃腰臀部を負傷し歩行不自由なるに於いてをや、速に辞職願ひ奉る可きの所、
他の勤務と異なり当所の如き至難の営業場に於て、苟(いやし)くも所長に任せられ、
其終りを全うせずして退かんも恐懼に堪へず、依て再三熟考するに・・・・・
ちょうど払い下げの問題を解決しなければならない時期であり、
それをきちんと終わらせなければやめるわけにはいかない、という責任感、意地、強さが表れている。
立派だとおもった。
そして国としても、もう他に誰も替われる人物がいなかったのだとおもう。
そのまま意見は受入れられ、明治26年の払い下げ実現まで、
堅曹さんは製糸所々長としてがんばるのである。