堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

堅曹と横浜 ②

2007-10-29 05:48:04 | 堅曹と横浜

英一番館と前橋藩のトラブル処理で男をあげた堅曹さん、次は横浜で何をしたか。

一件落着した直後の明治3(1870)年3月今度はスイス領事館に行きます。

Cimg1713 「英一番館」「スイス領事館」があった居留地の現在

領事のシーベルは当時横浜で生糸輸出を行っていた九十番館(シーベル=ブレンワルド)のメンバーでもあります。

明治三年三月廿五日 横浜寄留地瑞西国領事館に於領事シーベル氏と談じ欧州製糸の業上生糸の代価等を問ひ又倫敦の生糸相場表を一覧し始めて驚く我日本の糸価は百斤に付六百五六十弗なるに、伊仏両国の糸価は同量に付一千二百弗以上に売買し居れり、殆ど倍額なれば大に驚嘆し一意改良に熱注すと雖も其方法に於て如何せば可ならん・・・・・(自叙伝『六十五年記』)

彼に会い、ヨーロッパの製糸業のことや生糸の代価を教えてもらい、ロンドンの生糸相場表を見せてもらいます。

驚きました、日本の生糸に比べてイタリア、フランスの生糸の値段はなんと倍もの価格で売買されていたのです。

そこで堅曹は考えました。とにかく生糸の品質をよくすることが急務であり最重要であると。それにはどうしたらいいのか。

シーベルは教師を雇ったらいいと助言しました。



堅曹は横浜寄留の外国人に質のよい生糸を生産する方法を知っている人物がいないか尋ねまわります。しかしみつからず。

やっと神戸にスイス人のミウラーというイタリアで13年間生糸製造の教師をしていた人物を探しだします。

ミウラーは製糸全般にわたり熟知していて、教師として最適でした。

シーベルを通して前橋藩はミウラーを雇い入れ、責任者は参事深澤雄象、直接の担当者を速水堅曹として明治3(1870)年6月器械製糸場を細ヶ沢(前橋市住吉町)につくります。

これが日本で最初の器械製糸場の「前橋製糸所」です。



ミウラーは4ヶ月の契約で雇われていたので、その間堅曹は泊り込みでミウラーから器械製糸技術の奥義をすべて学びとろうと必死の努力をします。

七月 是ヨリ日々糸ノ試験ニ関係シ、ミウラーニ欧州製糸ノ実際ヲ問フ故、宅ニ帰スル克ハサル多事ナリ (堅曹履歴抜粋 甲号自記)

この経験を基礎として堅曹は日本最高の製糸技術者の地位を確立するのです。

前橋製糸所は9月には近くの大渡(前橋市岩神町)に移り、規模を6人繰りから12人繰りにして「大渡製糸所」となります。

ミウラーは10月に解雇となり、すぐに小野組に雇われ東京の築地製糸場(60人繰り)を作り、次いで工部省に雇われ明治6(1873)年に東京溜池に勧工寮製糸所(48人繰り)をつくっています。



こうした器械製糸の勃興をうけて明治政府も国の経営で大規模な器械製糸場の建設を考えました。政府が教師として雇い入れたのは横浜の生糸輸出商社「和蘭八番館」の紹介のフランス人技術者ポール・ブリュナーです。

そして作られたのが群馬県富岡市に今も残っている「官営富岡製糸所」(300釜)です。

開業明治5(1872)年10月。



だんだん器械製糸場の開業の話になってしまいましたが、日本の器械製糸のはじまりには横浜の外国人たちが大きく関わってきた歴史があることがわかります。

つづく。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿