堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

ポール・ブリュナ(Paul Brunat)の公文書

2009-08-02 23:58:39 | 富岡製糸場

富岡製糸場の建設に大きく関わったフランス人のポール・ブリュナの生涯について、

新しく解明したという記事が7月23日付けの新聞(←クリック)に載りました。


彼は富岡製糸場の開業に際して、日本にフランス式の器械製糸を導入し、指導しました。

1872年(明治5)開業から1875年まで製糸場の首長を務めましたが、

その後上海にいき、その地でも製糸場を設立していることが知られていました。

晩年本国に帰国したということまでわかっていましたが、

亡くなった場所やお墓は全くわかっていませんでした。


明治100年というイベントが1968年(昭和43年)におこなわれた時

NHKがフランスまで取材にいって、ブリュナの足跡を調べたことがあります。

その時に出生地がわかり、出生証明書や生家跡等がわかったそうです。

しかし、それ以上は何も調べがつかないまま40年も経ってしまいました。

したがって、子孫もわからず、またちゃんとした肖像写真も一枚もない状況です。



そんな経緯で、市では世界遺産を目指すにあたって、必死でポール・ブリュナのことを調べていました。

新聞記事に連動してか、数日前の富岡製糸場世界遺産伝道師協会のブログに

フランス公文書館のHPからポールブリュナの関連書類が閲覧(←クリック)できるとの記事がのりました。



早速飛んでみました。

全部で9枚の書類があります。

読んでみました。

といっても私はフランス語は全くできないので、助っ人(夫)を頼みます。

活字のものもあれば、手書きで読みにくそうなのもあります。

まず、これらは何の書類なのか、というところから。

9枚のうち、メインは7枚。

書類に番号が振ってあるので、それに合わせて内容を書き出してみます。


①レジオンドヌール勲章事務局発行の書類

 (名前・生年月日・死亡月日等)

②ラドローム県庁からレジオンドヌール勲章総裁に宛てた手紙

 (Brunatの出生証明送付について)

③ブールドペアージュ市役所発行の出生証明書

 (名前・生年月日・場所・両親の名前等)

④レジオンドヌール勲章事務局の書類

 (誰かが事務局を訪問した時に書いた書類だと思う)

⑤パリ16区発行の死亡証明書

 (190858日発行)

Brunatの葬儀案内

 (教会や墓地の名前が書かれている)

⑦フランス外務省発行の書類

 (Brunatについての情報、レジオンドヌール勲章関連)


出生証明書は以前からわかっていたので、

新発見は彼がパリ16区で亡くなったこと。

そしてお墓がパリ20区にある有名な墓地にあること。

東京でいえば青山墓地のようなかんじです。

これらが書いてある⑥の「ブリュナの葬儀案内」を読んだときには興奮しました。


今はとても便利で、ネットで教会の名前や墓地名を入力すればすぐ情報が得られます。

場所も歴史も映像も。

フランス語のHPは日本語に翻訳もできるし。


その他には彼がレジオンドヌール勲章のシュヴァリエ(5等)をもらっていたことに関するものがあります。

この叙勲についても日本では全く知らなかったことです。

与えられたのは上海におけるフランス租界において、市議会議長を何回もつとめた功績によってです。


勲章をもらっている人物だったから、こういった書類が公文書館に残されていたとも考えられます。

彼の人生がだいぶわかってきました。

フランスの貿易会社の生糸検査人として、開港間もない日本にやってきて、

数年後、官営の製糸場の開設に抜擢され活躍の場が広がった。

そして富岡製糸場を軌道にのせ、その実績をもって、今度は上海に行き、

ここでも大規模な製糸場をつくり、成功させます。


そういった技術者としての経歴だけにとどまらず、

市議会議長という公的な立場としても成功していたのは、全くの想像外でした。

そして最後はフランス、パリの高級住宅地で亡くなっています。

いわゆるサクセスストーリーそのものです。



彼の生涯における日本および富岡製糸場に関わった8年間はどうだったのだろう、とおもう。

晩年上海から功成り名遂げて故国フランスに帰国途中、日本に立ち寄っています。

富岡製糸場まで足を運び、その立派に操業している姿に驚き、懐かしさにしばし立ち止まり、

涙をながし、丁寧に見てまわったという話が伝わっています。



昨晩、この書類の最後のページに書いてあった文章を読み解いてみました。

職業の項目です。

リヨンと日本、中国、トンキン(ベトナム)の間で1866年から1900年まで絹の貿易に従事した。

という文章です。

はじめて「Japon」が出てきました。

うれしかった。



ブリュナは1840年生まれ。

よく考えたら、1839年生まれの堅曹さんと一つ違い。

二人は国籍は違うけれど、まさに同じ時代に生き、同じ生糸の器械製糸業を広めていった人物。

日本で本気になって器械製糸の先駆者として働いていた同士といってもいいかもしれません。


ブリュナのおおまかな人生がつかめて、何か満ち足りた気持ちになりました。


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
突然のコメント失礼致します。 (sirube)
2009-08-03 08:39:07
突然のコメント失礼致します。
失礼ながら、相互リンクしていただきたくて、コメントさせていただきました。
http://sirube-note.com/french/

もしよろしければ、こちらのページから相互リンク登録していただけましたら幸いです。
http://sirube-note.com/french/link/register/
今後ともよろしくお願い致します。
NqZit4Ae

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