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堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

五代友厚

2010-09-04 23:19:27 | 人物

早稲田のオープンカレッジの夏の講座で五代友厚についてのものがあり、受講してきました。

堅曹さんは五代友厚と「莫逆(ばくぎゃく・ばくげき)の友」だったと書いています。

それは「たがいに意気投合した親友」という意味です。

そこまでの間柄だった人はどんな人物なのか?

調べないではいられません。



五代は薩摩藩士で、幕末に海外にいき、早くから薩摩の貿易にかかわっています。

しかし其の頃の行動には未だに謎が多いといわれています。

維新後は外交の担当として出仕しますが、すぐに官僚をやめ、

民間の商人となり主に大阪の経済界を確立します。

実業家であり、政商といわれています。


しかし、こういった経歴だけでは、

なぜ堅曹さんが彼と意気投合して、何事も相談する相手と選んでいたのか、

納得できる答えが得られません。

伝記や資料も読んでみましたが、

私の頭では彼の行動や仕事の内容から、それが当時どういう意味をもつことだったのか、とか

商人、実業家としてのセンスなどを理解するのはとてもむずかしい。



そこで彼を研究している歴史学者の説をぜひ聞いてみたいとおもっていました。

あくまでも経済学の講座でよく取り上げられる政商としての五代ではなく、

歴史的に分析した五代友厚の話しです。

それがすごくおもしろかった。


できうる限りの史実に基づく解釈で語られる五代友厚の実像。

聞いていて、なるほどなるほど、とおもう。

堅曹さんが書いていることとすべて合致してくる。

五代友厚の壮大な思想や事業のやり方、直貿易のこと等々、

すべてが堅曹さんと同じだ!

だから莫逆の友なんだ、と講義を聴いていて、本当に興奮してしまいました。

2時間の講義もあっという間。

先生の一言一句決して聞き漏らすまいと身を乗り出していました。


現在語られる、どちらかというと悪いイメージのある政商としての五代とは全く違う、

真実の五代友厚像を知ることができてうれしかった。

こういった人物なら堅曹さんが意気投合して一生付き合っていったというのもすごく納得できる。

ずっとわからなかった謎が解けました。


長野濬平翁の冊子

2010-07-06 00:46:26 | 人物

熊本県山鹿市でつくられた冊子

「熊本県の近代蚕糸業の開祖(1823~1897) 長野濬平」を

ご子孫が送ってくださいました。


  Photo



小中学生向きにつくられたということですが、内容がとてもいいです。

長野濬平の生まれから亡くなるまでの生涯が書かれていますが、

おもに蚕糸業に関わることに重きをおいています。


熊本の近代化のために養蚕の研究に力をいれ、

明治のはじめから先進地をたずねて積極的に学び、

しかし度重なる苦難にもみまわれ、それを乗り越え、

遂に蚕糸業の開祖として熊本の生糸を日本一にしました。


それをわかりやすい文章で、難解な言葉には意味もつけて

濬平翁の功績について過不足なく、きちんと伝えています。

コラム欄に速水堅曹が取り上げてあり、その内容が的確でとてもうれしかったです。



次の世代の人たちに先駆者の功績がこのような冊子で伝えられることは

本当に喜ばしいことで

しみじみよかったな、とおもいました。


堅曹の考えていたこと②

2010-05-14 23:42:13 | 人物

堅曹が明治6年に構想していた国家プロジェクトとは。


簡単にいうと

全国で養蚕の盛んな地域に製糸業の模範となる製糸所を置くこと。

それは上州、信州、陸羽に各1箇所とした。

これは官営ではなく私立であり、しかし官が保護するという形をとる。

その模範製糸所ではその地域で製糸業を望む者に教授をし、

その方針と計画が定まったところから順次製糸所を建てていく。

そして、この3か所の製糸所の長が3名で横浜に生糸の売店を開き、

横浜での古い因習を一掃した売買をする。

そして欧米に売店を開く。

そこで世界の需要の情態をさぐり着実に生糸の販路と貿易を進歩させ、

いずれイタリア、フランスの両国を凌駕するだけの製糸業にする。

というものであった。



この構想を持った時、彼はちょうど福島県に「二本松製糸会社」を創っていた。

福島県令の依頼で堅曹が設計から運営を軌道にのせるまで請け負ったが、

県令は官営としてつくる予定であったものを堅曹が民営を主張して、激論のすえ会社形式とした。

これは日本で最初の株式会社といわれており、画期的であった。

民営の形で、操業が軌道にのるまでは官で保護しなが、模範となる製糸所をつくる、

という堅曹の構想に結びつくひとつの実現でもあった。


これはどういうことかと言えば、

まだ日本に器械製糸というものが根付く本当に最初の頃のことであり、

何も知らない人々が製糸所をやってはみたいけれど、

器械を購入する資金もなければ、方法もよくわからない。

だからとりあえず粗末な器械で始めてみたり、いいかげんなやり方で始めてしまう。

そうすれば、いい糸は挽けず、経営もうまくいかず、苦労の連続で資金繰りも大変になってしまう。


大規模な官営の製糸所を一つつくって、損益も考えずに製糸所を経営していては、

技術の伝習はできても、製糸業の得失や製糸所経営の実際は誰も教えられないのである。


そのうち人々は利益のでない産業に見向きもしなくなる。

それでは、せっかくこの日本の国益になると確信した製糸業、とくに器械製糸を全国に広めることはむずかしい。

そこでもっと地に足のついた、きめ細かな実際的な製糸所設立と技術伝習の方法を考えたのである。

堅曹が自分で身をもって会得した器械製糸の技術と、製糸業の得失を知らせ、

製糸所を全国に広まらせるにはどうしたらいいか、考え抜いたプランである。



この政府に建策した意見書は、

こののち、堅曹が明治8年にこの大事業を実行するために内務省に入省し、

翌9年米国フィラデルフィア万国博覧会に審査官として渡米、視察をおこない

帰国後、世界情勢と国内の製糸業の発展状況を見極めた考察で

さらにパワーアップした内容として再度政府に提出された。

明治9年のことである。


それには座繰り製糸も揚返しをして進歩させ組合とすることや、

横浜の売店は生糸直輸出会社のかたちとなり、詳細について記してある。

人々が製糸業の難しさに戸惑うことがないよう、最善の方法をさぐり、

目線はあくまで全国の製糸業者の立場にたち、貸与金で保護しながら、

この業界を着実に盛んにしていく内容である。


そして、この国家プロジェクトがまさに実行されようとした。

つづく。


堅曹の考えていたこと①

2010-05-11 02:52:16 | 人物

速水堅曹は生涯ただ一つのことを実現するために邁進した。

それは日本の製糸業を発展させること、この一点。


彼は長く鎖国していた日本が開港して、外国から生糸の需要があることを知り、

日本の質のいい生糸をいかにして世界で通用する生糸にするか、それだけを考えていた。


だからまだ誰も手掛けようとしなかった器械で糸を繰ることをやってみた。

そして器械製糸の有効なことを実際に体験して会得し、

これを日本全国に広めていこうとおもった。


けれど、手で糸を繰る仕事が長い間行われていた日本では、

なんでそんな外国でやっているようなことをしなければいけないのか、とか

手でだって充分いい糸が挽けるじゃないか、といって反発がはげしかった。


しかしそれでは外国の需要に見合う均一の糸はなかなかできない。

だから何としても、この生糸の改良を自分の生涯の目標としていこうと決心する。

まだ、誰もそんなことを考えていなかった時、明治3年である。


彼は「先見の明」があった。



日本最初の器械製糸所を造ってからは、全国から見学、伝習にくるものがおおく、

それらを快く受け入れ、どんどん指導をしていった。

明治時代前半で日本各地の製糸業の指導者となったもののほとんどは、

堅曹の指導をうけていたといっても過言ではない。


そして3年後の明治6年には、日本の状況をみきわめ、国の製糸業の発展をはかる

大事業の構想をたてた。

まだ、富岡製糸場が開業して一年もたたないうちである。

彼は最初から官営で富岡製糸場のような巨大なものをつくることに反対をしていた。

それには理由があったのである。


その大事業計画を詳細に検討するとよくわかる。

「製糸改良基礎ノ意見書」(明治6年)と

明治10年松方正義が勧業局長の時に政府に提出した

「生糸製造勧奨に関する伺書」にその内容が描かれている。

つづく。


フィラデルフィア万国博覧会

2009-12-05 00:49:51 | 人物

ここのところ、堅曹さんに関する資料をまたゴソゴソと集めています。


例の「ヨミダス歴史館」で検索して明治、大正期の新聞記事から「速水堅曹」や「富岡製糸」の記事を検索しました。

まだまだ知らない記事がありました。

国立国会図書館のデジタルアーカイブスで検索をかけると、

国立公文書館やアジア歴史資料センターのものも一緒に検索できるようになっていました。

驚きです。

こんなに便利になっていいのでしょうか。

国立公文書館には行かなくては、とおもっていたので、大助かりです。




そこで、フィラデルフィア万国博覧会の記録です。

堅曹さんは明治9(1876)年、アメリカ建国100年を記念して行われたフィラデルフィア万国博覧会に

日本より審査官として参加しています。

35カ国が参加して、1876年5月10日から11月10日まで開催。

会期中の延べ来場者は1000万人です。


Openday4_r05_c3 万博メイン会場 オープニングデー



日記や自叙伝『六十五年記』にも詳しくその時のことが書かれていますが、

いつか公文書などで、確認をしておこうと思っていました。



ある方から、フィラデルフィア万国博覧会の報告書がある、と教えてもらいました。

早速図書館へ行って閲覧。

 『米国博覧会報告書』 第1~5 明治9年出版 米国博覧会事務局編纂(平成11年復刻)


会場の見取り図や賞牌の図もはいっており、勿論博覧会委員の名簿も。

堅曹さんは

  審査官 勧業寮八等出仕 群馬県士族 速水堅曹 となっています。


そして、博覧会の審査官の名簿もありました。

世界中からあつまった審査官は159名で、そのなかで日本人はたったの2人でした!

速水堅曹と納富介次郎(この人は陶磁器の審査)。


24の部門に分かれて堅曹さんは第8類です。

審査したのは繭、生糸、紡糸縫糸、絹織物等です。


一緒に審査をした人は13名。

アメリカ人7名、イギリス人1名、ドイツ人2名、スウェーデン人、スイス人、エジプト人、各1名です。

このときの記念集合写真が群馬県立文書館に寄託されています。


Cimg0802 写真では全員で13人


やっとここに写っている人たちのことがわかりました。

それにしても、会期中数ヶ月ものあいだ外国人のなかで意見を戦わせて審査をするなんてすごいです。


このときの堅曹さんの武勇伝があります。

当時英仏独伊の審査官は皆資産家ばかりで、勢い全会を圧しており、

日本の蚕糸をほとんど取り上げることもせず、排斥されようとしていた。

そこで堅曹一喝して、「日本の審査官も意見がある」と言って発言をもとめ、

満場の視線のなか、

「文明国の委員と称する諸君の繭糸審査の状況を窺うに、

主眼はもっぱら糸の太さと光沢とにあるようである。

これ、その一を知ってその二を知らないにも甚だしい。

そもそも生糸の審査すべき要点は第一に糸質、第二に製法にして

第三以下また注意すべきものは少なくない。

しかし諸君が審査して優等としている生糸は製法に力点をおいていないため、

もし糸を採り撚りをを戻せば、三四線あるいは六七線よりなる斑(まだら)糸ばかりで、

生糸としての価値はほとんどない。

しかも産地が欧州であるために、いわゆる盲審査をして優等としている。

日本の審査で選んで優等とするのはこういう糸のことをさすのです。」

と言って、日本産の生糸を取って示し、数百メートルの細い糸は皆、七線より成っていてすこしの斑もない。

「これが製法の適切なものである。ただ、日本の製糸業はまだはじまったばかりで

欧米の最新機器には適していないものがあるのが残念である。」

そう言って、目の前に鍋を持ってこさせ繭を煮、自分の手で糸を紡いでこれを示した。

列国の委員皆驚いて、その卓説に感じ入り、堅曹のことを「繭神堅曹」と呼んだという。



まあ、こんなことをしてまで、渡り合った堅曹さん。

まだ当時日本は器械製糸をはじめて6年、やっといい糸がとれるようになっても、

座繰り糸の粗製乱造で落ちた信頼を回復して、日本の器械製糸の品質を認めてもらうためには、

この位の押しでいかなくてはならなかったのでしょう。


こういった開拓者たちの奮闘のおかげで、やっと日本の器械製の生糸は世界に認められるようになり、

輸出貿易に大きく前進することができたのです。