堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

堅曹の考えていたこと②

2010-05-14 23:42:13 | 人物

堅曹が明治6年に構想していた国家プロジェクトとは。


簡単にいうと

全国で養蚕の盛んな地域に製糸業の模範となる製糸所を置くこと。

それは上州、信州、陸羽に各1箇所とした。

これは官営ではなく私立であり、しかし官が保護するという形をとる。

その模範製糸所ではその地域で製糸業を望む者に教授をし、

その方針と計画が定まったところから順次製糸所を建てていく。

そして、この3か所の製糸所の長が3名で横浜に生糸の売店を開き、

横浜での古い因習を一掃した売買をする。

そして欧米に売店を開く。

そこで世界の需要の情態をさぐり着実に生糸の販路と貿易を進歩させ、

いずれイタリア、フランスの両国を凌駕するだけの製糸業にする。

というものであった。



この構想を持った時、彼はちょうど福島県に「二本松製糸会社」を創っていた。

福島県令の依頼で堅曹が設計から運営を軌道にのせるまで請け負ったが、

県令は官営としてつくる予定であったものを堅曹が民営を主張して、激論のすえ会社形式とした。

これは日本で最初の株式会社といわれており、画期的であった。

民営の形で、操業が軌道にのるまでは官で保護しなが、模範となる製糸所をつくる、

という堅曹の構想に結びつくひとつの実現でもあった。


これはどういうことかと言えば、

まだ日本に器械製糸というものが根付く本当に最初の頃のことであり、

何も知らない人々が製糸所をやってはみたいけれど、

器械を購入する資金もなければ、方法もよくわからない。

だからとりあえず粗末な器械で始めてみたり、いいかげんなやり方で始めてしまう。

そうすれば、いい糸は挽けず、経営もうまくいかず、苦労の連続で資金繰りも大変になってしまう。


大規模な官営の製糸所を一つつくって、損益も考えずに製糸所を経営していては、

技術の伝習はできても、製糸業の得失や製糸所経営の実際は誰も教えられないのである。


そのうち人々は利益のでない産業に見向きもしなくなる。

それでは、せっかくこの日本の国益になると確信した製糸業、とくに器械製糸を全国に広めることはむずかしい。

そこでもっと地に足のついた、きめ細かな実際的な製糸所設立と技術伝習の方法を考えたのである。

堅曹が自分で身をもって会得した器械製糸の技術と、製糸業の得失を知らせ、

製糸所を全国に広まらせるにはどうしたらいいか、考え抜いたプランである。



この政府に建策した意見書は、

こののち、堅曹が明治8年にこの大事業を実行するために内務省に入省し、

翌9年米国フィラデルフィア万国博覧会に審査官として渡米、視察をおこない

帰国後、世界情勢と国内の製糸業の発展状況を見極めた考察で

さらにパワーアップした内容として再度政府に提出された。

明治9年のことである。


それには座繰り製糸も揚返しをして進歩させ組合とすることや、

横浜の売店は生糸直輸出会社のかたちとなり、詳細について記してある。

人々が製糸業の難しさに戸惑うことがないよう、最善の方法をさぐり、

目線はあくまで全国の製糸業者の立場にたち、貸与金で保護しながら、

この業界を着実に盛んにしていく内容である。


そして、この国家プロジェクトがまさに実行されようとした。

つづく。


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