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シュテファン・ドレスラー『かの素晴らしきオーソン・ウェルズ』その1

2019-03-26 04:54:00 | ノンジャンル
 国立映画アーカイブが2015年に主催した「生誕100年 オーソン・ウェルズ━━天才の発見」のパンフレットに掲載されたシュテファン・ドレスラー『かの素晴らしきオーソン・ウェルズ』の全文を転載させていただこうと思います。

 30年前の1985年10月10日早朝、オーソン・ウェルズはハリウッドの自宅で、その日撮影する予定であったThe Magic Show(マジック・ショー)についての演出メモをタイプで打っている最中に心臓発作を起こし、息を引き取った。その数時間後、迎えに来た運転手が彼の遺体を発見した。「『市民ケーン』の監督、『第三の男』の主演俳優が亡くなった」というニュースは、世界中を駆け巡ったのである。

「『市民ケーン』とその後」
 映画評論家たちが何度も映画史上最も素晴らしい作品に選出している『市民ケーン』(1941年)、そして最も素晴らしいイギリス映画と評される『第三の男』(キャロル・リード監督、1952年)は、オーソン・ウェルズの人生において影のような存在であった。彼にとって、これら2作は切っても切れない自己のアイデンティティーとも言えるものであったが、のちに製作された作品は全てこれらと比較され、同様の成功を収めることは決してなかったのだ。ウェルズは、一生涯このような「呪い」を振り払おうと努めた。キャメラマンには「『市民ケーン』風のショット」はやめるように厳しく注意し、自分の人生はスターで始まり「どんどん下積みに落ちていく」という皮肉な言い方をした。どの企画にも新しい方法を試みたが、社会での彼のイメージは固定されたままだった。
 意外なことに、ウェルズが監督した12本の映画は、どれ一つ商業的に成功していない。多くの作品は切り刻まれ、当初ウェルズが意図していたのとは異なるさまざまなヴァージョンが存在している。ウェルズが存命中に公開された12本の完成作品と、少なくとも同じ数の撮影済みではあるが未完成の作品が存在する。その他にも、テレビ映画、コマーシャル、あるいは他の監督作品への出演、ナレーション、コメンテーター、声優そして吹替えの演出家としての仕事がある。さらに、数に入っていないものに、何百というラジオやレコード録音、舞台の演出、製作に至らなかった脚本、政治論評、イラストや絵画もある。
 オーソン・ウェルズの創造的アウトプットは想像を超えるもので、その作品目録を完成させるのにも今後何年もの時間が必要であろう。近年オーソン・ウェルズは神格化され、ポップカルチャーの伝説になっているため、彼自身についてのドキュメンタリーや、他の俳優たちが演じる劇映画あるいは演劇作品が増え続けている。まさに悲劇的とも呼べる、オーソン・ウェルズの人生、そして作品が魅力的なのだ。彼の並はずれた創造性に対して非常に少ない作品数、映画史に与えた彼の影響力の大きさとは正反対の存命中の低い評価、一貫してハリウッドの映画産業と戦った自由な精神をもつ芸術家という、数々の矛盾がその魅力の理由である。

「神童そして万能の天才」
 1915年5月6日、ウィスコンシン州ケノーシャで生まれたオーソン・ウェルズは、すでに10歳のころ、古典文学全集を読破し、小説や詩を書き、デッサン、絵画に長け、舞台での朗読や演技をこなす「神童」として新聞で報じられていた。そして10代になると、ヨーロッパ(イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ドイツ、スペイン、アイルランド)、アフリカ(モロッコ)、アジア(日本、中国)に旅行し、コスモポリタンらしく自慢話をすることがあったという。ニューヨーク州ウッドストックのトッド男子校時代に彼の才能はさらに開花し、シェイクスピア作品に心酔した結果、1934年、恩師ロジャー・ヒルとともにEverybody’s Shakespeare(みんなのシェイクスピア)を出版した。そこにはウェルズ編のシェイクスピア劇3作品の脚本と、学校やアマチュア劇団のための実践的な演出指導が含まれている。そして、それに続く伝説的シェイクスピア演出2作によって、ニューヨークの芸術界における彼の地位が確立したのだ。出演者は黒人のみで、1936年にハーレムで初演された「マクベス」と、イタリアのファシストの軍服を着た俳優たちが演じた1937年版「ジュリアス・シーザー」である。(明日へ続きます……)