今日は東日本大震災が起きてからちょうど8年目となります。避難されている方がまだ5万人超もいるのに、安倍政権は今月末で住宅援助金を打ち切ると言っています。こんな理不尽なことがあっていいのでしょうか? みなさんとともに声を上げて行きたいと思っています。
さて、昨日の続きです。
では、具体的な内容について、特記しておきたいことを次に記します。
・「2009年に出版された一冊の書物を読んだことがすべての始まりでした。
『特攻隊振武(しんぶ)寮 証言・帰還兵は地獄を見た』(講談社)。(中略)アジア・太平洋戦争中に、福岡県福岡市に『振武寮』と呼ばれる、生還した特攻隊員だけを集めた寮が存在したこと、そこで行われていたさまざまなこと、が主要なテーマのひとつでした。
著者は、元陸軍少尉であり元特攻隊員の大貫健一郎氏と、大貫氏の体験を元に番組を創ったNHKディレクターの渡辺考氏。
大貫氏は、ミュージシャンの大貫妙子さんの父親であり、彼女と何度かテレビなどで仕事をしていた僕は、余計に大貫氏の体験が切実に迫りました。」
・「『なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ』と怒鳴りました。
『そんなに命が惜しいのか。いかなる理由があろうと、突入の意思がなかったのは明白である。死んだ仲間に恥ずかしくないのか』
炎天下の中庭で、大貫さん達、喜界島からようやく戻ってきた28名の特攻隊員は30分近く罵られ続けました。」
・「そして、次の日、大貫さん達は(中略)『振武寮』と書かれた寮に軟禁されます。(中略)周囲には鉄条網が張り巡らされ、銃を持った衛兵が入り口に立っていました。外出はもちろん、手紙も電話も禁止され、外部との接触は一切断たれました。また、先に入寮している隊員との会話も厳禁でした。」
・「大貫さん達喜界島から戻った28名は毎日、(中略)『軍人勅諭』を書き写すことを命令されました。『なぜ生きて戻ってきたのか』という反省文も書かされたこともありました。『般若心経』を筆写しろという命令もありました。」
・「大貫さんは、すでに自分の戦死公報が親元に届けられていたことが、『振武寮』に送られた大きな理由だったのではないかと考えています。特攻隊員が生きて帰ってきたことを他の兵隊達が知ってしまうと戦意が鈍る、だから隔離しなければいけないという一番の理由に加えて、死んだと発表した以上、極力、人目にさらしたくなかったのではないか、ということです。」
・「出撃した佐々木友次伍長は、『戦艦』一隻を撃沈したという輝かしい戦火を報道されます。天皇にまで報告され、佐々木伍長は軍神として褒めたたえられました。
が、佐々木伍長は生きていました。体当たりではなく、急降下爆撃を試みた後、不時着したのです。戻ってきた佐々木伍長に、司令部は何度も出撃の命令を出し、参謀は『必ず体当たりしろ』と強く求めました。
が、佐々木伍長は、命令を拒否して爆弾を落としました。
・「ここで、佐々木に大きな影響を与えた、陸軍第一回の特攻隊『万朶隊』の岩本益臣(ますみ)隊長のことを書く。
岩本隊長は(中略)『跳飛(ちょうひ)爆撃』の第一人者だった。『跳飛爆撃とは、爆弾を直接、艦船に投下しないで、一度、海に落として跳ね上がらせ命中させる方法で、ちょうど、水面に向かって石を横投げすると、幾度にも跳ねて飛ぶのと同じメカニズムだ。
1943年3月、ニューギニア方面の『ビスマルク海海戦』でアメリカ軍が採用、日本軍の輸送船団8隻が全滅するという結果を生んだ。」
・「(前略)飛行機は身軽にするために軽金属を使って作られる。だが、空母の甲板は鋼鉄だ。岩本大尉と同じく、鉾田飛行師団の研究部所属の福島大尉は、それを『卵をコンクリートにたたきつけるようなものさ。卵はこわれるが、コンクリートは汚れるだけだ』と言った。」
・「陸軍参謀本部は、なにがなんでも一回目の体当たり攻撃を成功させる必要があった。
そのために、技術優秀なパイロットを『万朶隊』に選んだ。(中略)
技術を磨くことが、自分を支え、国のために尽くすことだと信じてきた。だが、『体当たり攻撃』は、そのすべての努力と技術の否定だった。」
・「なおかつ、与えられた飛行機は、爆弾が機体に縛りつけられていた。参謀本部は、もし、操縦者が卑怯未練な気持ちになっても、爆弾を落とせず、体当たりするしかないように改装したのだ。
岩本大尉は陸軍参謀本部の作成課員のその考えが許せなかった。操縦者に対する侮辱であり、操縦者を人間とは思わない冷酷無比であり、作戦にもなっていない作戦を立案する大愚だと感じた。」
・「『岩本、話がある』試験飛行を見守る岩本大尉を竹下少佐が連れ出した。(中略)
『あの飛行機には、爆弾を落とす方法があるんだ』
竹下少佐は、体当たり機の構造の秘密を知っていた。」
(また明日へ続きます……)
さて、昨日の続きです。
では、具体的な内容について、特記しておきたいことを次に記します。
・「2009年に出版された一冊の書物を読んだことがすべての始まりでした。
『特攻隊振武(しんぶ)寮 証言・帰還兵は地獄を見た』(講談社)。(中略)アジア・太平洋戦争中に、福岡県福岡市に『振武寮』と呼ばれる、生還した特攻隊員だけを集めた寮が存在したこと、そこで行われていたさまざまなこと、が主要なテーマのひとつでした。
著者は、元陸軍少尉であり元特攻隊員の大貫健一郎氏と、大貫氏の体験を元に番組を創ったNHKディレクターの渡辺考氏。
大貫氏は、ミュージシャンの大貫妙子さんの父親であり、彼女と何度かテレビなどで仕事をしていた僕は、余計に大貫氏の体験が切実に迫りました。」
・「『なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ』と怒鳴りました。
『そんなに命が惜しいのか。いかなる理由があろうと、突入の意思がなかったのは明白である。死んだ仲間に恥ずかしくないのか』
炎天下の中庭で、大貫さん達、喜界島からようやく戻ってきた28名の特攻隊員は30分近く罵られ続けました。」
・「そして、次の日、大貫さん達は(中略)『振武寮』と書かれた寮に軟禁されます。(中略)周囲には鉄条網が張り巡らされ、銃を持った衛兵が入り口に立っていました。外出はもちろん、手紙も電話も禁止され、外部との接触は一切断たれました。また、先に入寮している隊員との会話も厳禁でした。」
・「大貫さん達喜界島から戻った28名は毎日、(中略)『軍人勅諭』を書き写すことを命令されました。『なぜ生きて戻ってきたのか』という反省文も書かされたこともありました。『般若心経』を筆写しろという命令もありました。」
・「大貫さんは、すでに自分の戦死公報が親元に届けられていたことが、『振武寮』に送られた大きな理由だったのではないかと考えています。特攻隊員が生きて帰ってきたことを他の兵隊達が知ってしまうと戦意が鈍る、だから隔離しなければいけないという一番の理由に加えて、死んだと発表した以上、極力、人目にさらしたくなかったのではないか、ということです。」
・「出撃した佐々木友次伍長は、『戦艦』一隻を撃沈したという輝かしい戦火を報道されます。天皇にまで報告され、佐々木伍長は軍神として褒めたたえられました。
が、佐々木伍長は生きていました。体当たりではなく、急降下爆撃を試みた後、不時着したのです。戻ってきた佐々木伍長に、司令部は何度も出撃の命令を出し、参謀は『必ず体当たりしろ』と強く求めました。
が、佐々木伍長は、命令を拒否して爆弾を落としました。
・「ここで、佐々木に大きな影響を与えた、陸軍第一回の特攻隊『万朶隊』の岩本益臣(ますみ)隊長のことを書く。
岩本隊長は(中略)『跳飛(ちょうひ)爆撃』の第一人者だった。『跳飛爆撃とは、爆弾を直接、艦船に投下しないで、一度、海に落として跳ね上がらせ命中させる方法で、ちょうど、水面に向かって石を横投げすると、幾度にも跳ねて飛ぶのと同じメカニズムだ。
1943年3月、ニューギニア方面の『ビスマルク海海戦』でアメリカ軍が採用、日本軍の輸送船団8隻が全滅するという結果を生んだ。」
・「(前略)飛行機は身軽にするために軽金属を使って作られる。だが、空母の甲板は鋼鉄だ。岩本大尉と同じく、鉾田飛行師団の研究部所属の福島大尉は、それを『卵をコンクリートにたたきつけるようなものさ。卵はこわれるが、コンクリートは汚れるだけだ』と言った。」
・「陸軍参謀本部は、なにがなんでも一回目の体当たり攻撃を成功させる必要があった。
そのために、技術優秀なパイロットを『万朶隊』に選んだ。(中略)
技術を磨くことが、自分を支え、国のために尽くすことだと信じてきた。だが、『体当たり攻撃』は、そのすべての努力と技術の否定だった。」
・「なおかつ、与えられた飛行機は、爆弾が機体に縛りつけられていた。参謀本部は、もし、操縦者が卑怯未練な気持ちになっても、爆弾を落とせず、体当たりするしかないように改装したのだ。
岩本大尉は陸軍参謀本部の作成課員のその考えが許せなかった。操縦者に対する侮辱であり、操縦者を人間とは思わない冷酷無比であり、作戦にもなっていない作戦を立案する大愚だと感じた。」
・「『岩本、話がある』試験飛行を見守る岩本大尉を竹下少佐が連れ出した。(中略)
『あの飛行機には、爆弾を落とす方法があるんだ』
竹下少佐は、体当たり機の構造の秘密を知っていた。」
(また明日へ続きます……)