国立映画アーカイブが2003年に行った「小津安二郎生誕100年記念 小津安二郎の藝術」に寄せられた、田中眞澄さんの「『あいつはあれでいいんだ、儲かるシャシンは俺が作る』小津安二郎と清水宏の蒲田時代」の全文を転載させていただきたいと思います。
「小津安二郎の第1回作品・時代劇『懺悔の刃』は、当時松竹映画の封切館だった東京浅草の電器館で、1927(昭和2)年10月14日に、全国にさきがけて公開された。併映作品は清水宏監督の現代劇『炎の空』で、こちらがプログラムのメインであり、『懺悔の刃』は添えものだった。両者の関係は、そのときの新聞広告を見れば、直ちに了解できるだろう。そこで『炎の空』は、『懺悔の刃』の2倍のスペースを占めているのである。
『炎の空』は東京日日新聞・大阪毎日新聞連載の三上於莵吉の小説の映画化である。新聞や大衆雑誌の連載小説は、当時は興行価値が絶大で、映画会社は映画化権の獲得を競い合っていた。『炎の空』は典型的な商品映画に属する。しかし、栗島すみ子も鈴木伝明も出ていないこの映画は、必ずしもこの時期の松竹蒲田を代表する商業大作というわけではない。むしろ、原作のメディア的浸透を利用して、八雲恵美子、佐々木清野、柏美枝といった新進女優たちを売り込もうとする戦略を想像させる。この広告では、彼女たちスター人よりも原作者三上於莵吉と監督清水宏の方が、文字が大きい(『懺悔の刃』では監督小津安二郎と主演者吾妻三郎に大文字を使っている)。だが、この日、ライヴァル会社の日活は浅草観音劇場、神田日活館で、伊藤大輔監督・河部五郎主演『下郎』と、阿部豊監督・夏川静江、岡田時彦主演『人形の家』という強力番組を封切っている。この対戦はどう見ても松竹の旗色悪く、翌週の栗島すみ子主演・池田義信監督の『珠を抛つ』(原作加藤武雄)に期待を繋ぐ布陣であった。
それはさておき、この広告から見て取れるのは、その時点での清水と小津の立場の落差である。同じ1903(明治36)年生まれの二人だが、新人監督の小津に対して、清水は3年前に監督になって、すでにこれ以前に30本の作品を世に出しており、とにもかくにも(数か月前に作った『彼と未亡人』はオクラになってしまったが)商品映画をまかされるだけの立場を固めていた。しかしながら、私的には、小津と清水が、それ以前もそれ以後も、彼らが大成してからも、終生親しい友人であることに変わりはなかった。
のちに巨匠と呼ばれるようになる二人の交友の発端は、いまでは広く知られた伝説的なエピソードだが、その話を清水から直接聞いた佐田啓二が小津追悼の座談会(「小津先生という人」、「シナリオ」1964年2月号)で語っているので引用しておこう。こういう場面には、やはりライヴののりがなければならない。
(略)当時野村芳亭という人が所長をしていた。俺もだいたい行儀が悪いし、人がいてもあまり挨拶をしない方だが、どうも野村芳亭所長とすれ違ったらしいが、お辞儀をしなかった。そうするとさっそく所長室から呼出しが来て、「お前はなんだ」「清水宏です」「僕はなんだか知っているかね」「監督です」「それからなんだね」「はあ、所長です」「わかっているんだったら、なんでお辞儀をしないのか」と怒られた。「ああそうですか」というわけで、それからあとさようならと言って出てきたら、紺絣かなんか着て袴をはいて、ヒョコヒョコ来るやつがいる。見たら小津だ。「お前、なんだ」「俺、所長室に呼び出されている」「ああそうか、行ってこい」というので、小津が入っていって、しばらくしたら出て来た。「お前はなんで呼ばれたのだ」「いや、俺はお辞儀をしなかったらしいのだ」と小津がいう(笑)「じゃこういうことを言われたろう」「うん言われた」「同じことを言ってやがる」と、日向ぼっこしながらね、あいつはあのころチェリーを吸ってやがった。俺はタバコを吸わなかったが、小津はたもとから煙草を出して、吸いながら話をしたのが、俺と小津との出会いだった。
野村芳亭が所長の座を去ったのは1924年の7月。出会いは当然それ以前、その年の前半。日向ぼっこというからには、季節は早春だろうか。小津も清水も二十歳の血気盛んな若者たちだった。(明日へ続きます……)
「小津安二郎の第1回作品・時代劇『懺悔の刃』は、当時松竹映画の封切館だった東京浅草の電器館で、1927(昭和2)年10月14日に、全国にさきがけて公開された。併映作品は清水宏監督の現代劇『炎の空』で、こちらがプログラムのメインであり、『懺悔の刃』は添えものだった。両者の関係は、そのときの新聞広告を見れば、直ちに了解できるだろう。そこで『炎の空』は、『懺悔の刃』の2倍のスペースを占めているのである。
『炎の空』は東京日日新聞・大阪毎日新聞連載の三上於莵吉の小説の映画化である。新聞や大衆雑誌の連載小説は、当時は興行価値が絶大で、映画会社は映画化権の獲得を競い合っていた。『炎の空』は典型的な商品映画に属する。しかし、栗島すみ子も鈴木伝明も出ていないこの映画は、必ずしもこの時期の松竹蒲田を代表する商業大作というわけではない。むしろ、原作のメディア的浸透を利用して、八雲恵美子、佐々木清野、柏美枝といった新進女優たちを売り込もうとする戦略を想像させる。この広告では、彼女たちスター人よりも原作者三上於莵吉と監督清水宏の方が、文字が大きい(『懺悔の刃』では監督小津安二郎と主演者吾妻三郎に大文字を使っている)。だが、この日、ライヴァル会社の日活は浅草観音劇場、神田日活館で、伊藤大輔監督・河部五郎主演『下郎』と、阿部豊監督・夏川静江、岡田時彦主演『人形の家』という強力番組を封切っている。この対戦はどう見ても松竹の旗色悪く、翌週の栗島すみ子主演・池田義信監督の『珠を抛つ』(原作加藤武雄)に期待を繋ぐ布陣であった。
それはさておき、この広告から見て取れるのは、その時点での清水と小津の立場の落差である。同じ1903(明治36)年生まれの二人だが、新人監督の小津に対して、清水は3年前に監督になって、すでにこれ以前に30本の作品を世に出しており、とにもかくにも(数か月前に作った『彼と未亡人』はオクラになってしまったが)商品映画をまかされるだけの立場を固めていた。しかしながら、私的には、小津と清水が、それ以前もそれ以後も、彼らが大成してからも、終生親しい友人であることに変わりはなかった。
のちに巨匠と呼ばれるようになる二人の交友の発端は、いまでは広く知られた伝説的なエピソードだが、その話を清水から直接聞いた佐田啓二が小津追悼の座談会(「小津先生という人」、「シナリオ」1964年2月号)で語っているので引用しておこう。こういう場面には、やはりライヴののりがなければならない。
(略)当時野村芳亭という人が所長をしていた。俺もだいたい行儀が悪いし、人がいてもあまり挨拶をしない方だが、どうも野村芳亭所長とすれ違ったらしいが、お辞儀をしなかった。そうするとさっそく所長室から呼出しが来て、「お前はなんだ」「清水宏です」「僕はなんだか知っているかね」「監督です」「それからなんだね」「はあ、所長です」「わかっているんだったら、なんでお辞儀をしないのか」と怒られた。「ああそうですか」というわけで、それからあとさようならと言って出てきたら、紺絣かなんか着て袴をはいて、ヒョコヒョコ来るやつがいる。見たら小津だ。「お前、なんだ」「俺、所長室に呼び出されている」「ああそうか、行ってこい」というので、小津が入っていって、しばらくしたら出て来た。「お前はなんで呼ばれたのだ」「いや、俺はお辞儀をしなかったらしいのだ」と小津がいう(笑)「じゃこういうことを言われたろう」「うん言われた」「同じことを言ってやがる」と、日向ぼっこしながらね、あいつはあのころチェリーを吸ってやがった。俺はタバコを吸わなかったが、小津はたもとから煙草を出して、吸いながら話をしたのが、俺と小津との出会いだった。
野村芳亭が所長の座を去ったのは1924年の7月。出会いは当然それ以前、その年の前半。日向ぼっこというからには、季節は早春だろうか。小津も清水も二十歳の血気盛んな若者たちだった。(明日へ続きます……)