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鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』その4

2019-03-13 04:19:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

・「(アメリカ軍は)何百機という艦上戦闘機で迎え撃つ態勢が整った。通常、それは三波態勢が取られていた。一波が約100機。それが、時間差で3回、特攻機を迎え撃つ。
 その攻撃を、重い爆弾を抱え、迎え撃つ銃器もないまま、かいくぐった特攻機だけが、アメリカ艦船に近づけたのだ。」

・「『万朶隊は5人の将校さんが、攻撃に出る前に戦死したんです。佐々木は将校5.名分の船を沈めるまでは、死なないつもりです。最後の6番目は自分のものですから、このときは、どうするか、まだ分かりません』佐々木の表情は真剣だった。」

・「26日。出丸中尉の靖国隊に感状が出され、上聞に達したという発表が陸軍省からあった。出丸中尉も、佐々木と同じように、生きていながら死んだと発表されたのだ。天皇に報告された内容は、訂正できない。それは軍隊の絶対のルールだった。」

・「冨永司令が、エチャーゲ南飛行場から台湾に逃亡した。(中略)冨永司令の飛行機を整備した下士官は吐き捨てた。
『こんなやつが軍司令だなんて、盗人みたいなもんだ。軍司令官が逃げるんなら、俺達も台湾へ行きゃいいんだ。今度、台湾で見つけたら、冨永のやつ、たたっ斬ってやる』」

・「軍部は最後まで降伏に反対した。神風特別攻撃隊を始めたことで『特攻の産みの親』と言われた大西瀧治郎中将は『今後二千万の日本人を殺す覚悟で、これを特攻として用うれば、決して負けはせぬ』と最後まで主張した。」

・「第四航空軍は佐々木と津田少尉の銃殺命令を出していたと鈴木記者は続けた。大本営発表で死んだ者が生きていては困るから、そんな命令を出したのだと。」

・「行進を続けてると、ひとかたまりの男女が叫び始めた。(中略)やがて、彼ら彼女らは、復員軍人の列に向かって石を投げ始めた。(中略)
『日本が負けたのは、貴様らのせいだぞ!』
『いくさに負けて、よくも帰ってきたな。恥知らず!』
『捕虜になるなら、なぜ死なないのか!』」

・「春になり、ようやく体力も回復した頃、村役場から男がきて、佐々木に、特攻隊員としてもらった勲章と賜金を返納するようにと要求した。」

。「何度も何度も、友次さんの強さの秘密を聞きました。同じような質問を何回もしました。先祖も仏様も、じつは、僕はあまり信じられませんでした。(中略)
 けれど、『寿命』という言葉は強く響きました。(中略)人間は、自分の想像を超えたことに直面すると、運命とか偶然とか寿命とかと考えるようになる。
 けれど、その運命や偶然や寿命を呼び込んだのは、友次さんの『空を飛ぶことが大好き』という強烈な思いと行動なんじゃないかと思いました。」

・「子供部屋には岩本大尉の写真が飾られていました。」

。「日露戦争の開戦前、『断固帝政ロシアを撃つべし』という新聞と『戦争を避けて、外交交渉を続けるべきだ』という新聞に分かれていたそうです。
 そして『戦争反対の新聞は部数がどんどん落ちる』『その一方で、賛成派の新聞は伸び始め』たのです。」

・「結果『戦争前の明治36年と戦争が終わって2年目の明治40年で比較すると、「大阪朝日新聞」は11万部から30万部、「東京朝日新聞」は7万3千部から20万部、「大阪毎日新聞」は9万2千部から27万部、「報知新聞」は8万3千部から30万部』に伸びたのです。(中略)
『この数字が示しているのは、戦争がいかに新聞の部数を伸ばすかということです。要するに、戦争がいかに儲かるかなんです』
 一方、最後まで日露戦争に反対していた『平民新聞』は発禁が続いて、最後には廃刊になりました。
 日露戦争後、新聞社は戦争が商売になることを知って、軍部に協力していきます。それが、佐々木友次さんの特攻を書いた勇壮な作文になるのです。」

・「満州事変の時、ほとんどの新聞が、『援軍』『擁軍』になった時、『大阪朝日新聞』だけは、『この戦争はおかしいのではないのか。謀略的な匂い、侵略的な匂いがする』と書きました。ですが、在京軍人会を中心とする不買運動にやられて部数が急落(中略)、最終的には負けて編集方針を変えました。

・「東條首相は、『負けたと思った時が負けなのだ。負けだと思わなければ負けない』という意味の発言もよくしました。『負けた』と絶対に思わないまま、勝たないとしたら、待っているのは『死』だけです。負けないと思うなら、何十万という将兵が殺されても、負けていないことになるのです。」

・「本当に優れたリーダーは、リアリズムを語ります。現状分析、今必要な技術、敵の状態、対応策など、です。今なにをすべきか、何が必要かを、具体的に語れるのです。」

 (また明日へ続きます…)