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田中眞澄『「あいつはあれでいいんだ、儲かるシャシンは俺が作る」小津安二郎と清水宏の蒲田時代』その6

2019-03-21 05:05:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 暴君清水に奴隷の如く扱われ、〈自分の糞を「いいうんこだ」と言って、嗅がせられたことが忘れられない〉という助監督の言。清水は才能のない人間には殊更つらく当たった。清水に人気があったのは、取りも直さず、蒲田撮影所で権勢をふるう彼に追従する人々が少なくなかったということだろう。
 1934年の正月、日活京都で時代劇の若き天才を謳われた山中貞雄が上京する。小津は晩年の秋に京都で会っていたが、清水とは初対面。彼らは直ちに親しい友情で結ばれる。旧知の松竹下加茂の井上金太郎と山中の京都勢と蒲田の清水、小津の交友は、映画人の交流拡大の重要な契機となる。

「 そして清水宏は風景の中に子供を発見した。清水がしばしば素材にした学生はモダンでイノセントな存在だった。清水にとって子供はイノセントであることの究極、最も自然に近い人間だったのだろうか。それとも大人の社会の中で周辺的存在として意識されたのだろうか。娼婦や朝鮮半島の人々のように。清水作品において子供の存在感が特徴的に認められたのは、1935年の学生と娼婦と子供の映画『彼と彼女と少年達』からであった。
 『有りがたうさん』は、1936年1月の蒲田撮影所閉所、大船移転に先立って、1935年秋に撮影され、1936年2月27日、2・26事件勃発の翌日に封切られた。オール・ロケーションによる清水宏の異色の実験作。演技を主とした映画では小津、五所、島津にはかなわない。そうした劇映画より、映画の出発点である実写に戻って、ストーリィや俳優に捉われず、自然と人間の交錯を実景として捉えようとの意図であった。この清水の「実写的精神」はリアリズムとはいえず、また当時の批評が指摘したように、この映画でも成功しているとはいい難いが、それをステップとして、彼はやがて大船時代に、『花形選手』(1937年)、『按摩と女』(1938年)そして『ともだち』(1940年)などで、映画を拘束する物語性を楽々と超えた世にもユニークな「清水宏映画」を作ることになる。
 小津安二郎は、大船移転後、旧蒲田撮影所で盟友のキャメラマン茂原英雄(彼は小津が蒲田に入社して最初に親しくなった友人の一人だった)の開発したSMSトーキー・システムを用いて、彼らの最初のトーキー長篇劇映画『一人息子』(1936年)を、半年がかりで撮る。その翌年、彼は(山中貞雄とともに)宣戦布告なき戦争に召集されて、中国大陸の戦野へ送り込まれる。
 やはり1936年3月1日、東京、京都の有力監督たちによって、日本映画監督協会が結成された。小津安二郎、清水宏は、そこで同じ現代劇の分野で競い合いながら従来接点がなかった日活系の溝口健二、内田吐夢、田坂具隆といった、自分たちとは異質なすぐれた監督たちに出会うことになる。大船時代、彼らとの交流は、小津や清水を松竹という狭いフィールドから解放し、日本映画全体の次元に置いたといえるだろう。日本の映画監督としての小津安二郎、清水宏については、溝口健二や内田吐夢や田坂具隆たちの存在をふまえることによって、日本映画全体の文脈の中で、再び語り直されなければならない。言い換えれば、小津の映画、清水の映画を見ることは、そこにとどまらず、それらを含めた、より広い視野を持つための出発点に他ならない。」

 今まで知り得なかった蒲田時代の小津監督や清水監督の様子がよくうかがえる文章でした。