goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

田中眞澄『「あいつはあれでいいんだ、儲かるシャシンは俺が作る」小津安二郎と清水宏の蒲田時代』その3

2019-03-18 06:48:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 前年、関東大震災のため、撮影所の機能が京都に緊急避難したとき、城戸は東京に残った島津保治郎と話し合って『お父さん』(1923年)を製作する。〈あのころとしては非常に明朗な、写実的なもの〉で、〈筋が簡単で、日常茶飯事を取入れ〉た映画だった。のちに「小市民映画」と称されるジャンルは、おそらくそこから出発したとされる。キャメラマンは蒼川道夫、助監督に斎藤寅次郎、そして入社したばかりの小津安二郎が撮影助手についていたことは興味深い偶然といわなければならない。なぜならば、おそらく小津と斎藤はこの機会に親しくなったと思われるが、もともと監督志望だったのに欠員がないために撮影部に配置された小津がのちに助監督に転ずるに際して、大久保忠素監督の助監督だった斎藤の仲立ちで大久保に引受けてもらうことができたからである。しかも監督になった小津は、やがて蒲田小市民映画を代表する存在と目されるようになったからである。
 それはさておき、城戸と島津は『お父さん』に続いてサラリーマンを主人公にした『日曜日』を作る。それらの映画はその時代に進行した近代化、都市化の状況の中で生まれ、増え続けていった新しい都市住民、「大衆」の生活意識を映画に反映させる同時代的対応であった。その状況は震災による電灯の持続の崩壊間隔によって、さらに加速して、新しい世代の映画作家を誘惑することになる。
 とにかくそのようなインテリ近代人らしい認識をもって撮影所に乗り込んだ城戸の仕事は、作品内容の改革にとどまるものではなかった。もう一つの大きな仕事は、民衆娯楽としての映画の急速なマス・メディアへの成長に伴って偶像的な人気を獲得するに至ったスターの増長を抑えることであった。そのためにも、彼は映画製作の過程での監督の役割を最も重要視した。即ち、松竹蒲田では城戸の方針によってスター・システムではなくディレクター・システムをモットーにしたのである。もちろん、映画が商品である以上、スターの存在は必要不可欠の条件には違いないが、彼は映画が商品であるとともに作品でもなければならないことを理解していた。このディレクター・システムへの転機となったのは、城戸が撮影所長に就任する直前の牛原虚彦監督作品『詩人と運動家』(1924年)の撮影中に起きたスターと監督の対立だったが、この作品でも小津安二郎は撮影助手をつとめていたのである。その一撮影助手が後年、松竹ディレクター・システムの頂点をきわめることになるのも、また興味深い偶然であったというべきだろうか。
 しかし、それは未来の話であって、とりあえず、1927年に小津が監督になった頃の蒲田の監督の陣容、席次は次の如くであった。
 野村芳亭、池田義信、牛原虚彦、島津保治郎、大久保忠素、清水宏、鳶見丈夫、重宗務、五所平之助、斎藤寅次郎、佐々木恒次郎、小津安二郎。五所以下が城戸が撮影所長になってから監督に昇進した。清水はその直前の昇進だったが、蒲田帰参後、次第に城戸の大きな信頼を得るようになる。ディレクター・システムといっても、実際には監督たちの上にワンマン・プロデューサー城戸四郎が君臨していた。その城戸が上記の監督たちの中で特に才能を評価したのは、島津保治郎を除けば、やはり清水宏と小津安二郎だったのではないか。〈一体蒲田を語るに、城戸四郎を除外する事は全く出来ない〉(久米正雄)であれば、蒲田時代の清水、小津を語る上でも、城戸の存在は無視できないはずである。城戸は一方で脚本部の充実を図ったが、清水と小津は、他の監督たちとより、むしろ脚本部員と日常的に親しくつき合っており、彼らは城戸の子飼いの幕僚グループ的存在だったと考えられる。
 清水宏はさまざまなタイプの映画を短期間で作り上げる融通無碍な便利な監督として、撮影所内での地歩を固めた観があるが、芝居臭を排して映画的に処理する彼のセンスを、城戸は高く買っていた。1930年のお正月映画『恋愛第一課』のシナリオを提供した北村小松も〈清水宏は太っちょなのに非常にデリケートな神経をもっているので、実をいうと、自分の脚本でいて、これが俺のかいな!と思うほど、何か喜劇的な微笑ましいエスプリを清水は作り出していた〉(「銀幕」)という感想を持った。
 清水宏のサイレント期の初期作品は、ほとんど現存しないから確かめようもないが、多作、というより濫作だった彼の映画に出来不出来があったことは想像がつく。一本の映画でも場面によってムラがあった。批評は必ずしも常に彼に好意的だったわけではない。その中で1930年のお正月映画『恋愛第一課』は“蒲田モダニズム”の先頭ランナーだった北村小松のシナリオに触発される形で、〈松竹近来の佳作〉(安田清夫)と評価された。(また明日へ続きます……)