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奥田英朗『向田理髪店』その7

2017-10-18 07:01:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
「小さなスナック」
 町役場の裏手の旧映画館横の空き地に、新しくスナックがオープンした。苫沢町という過疎地で新規開店というのは極めて珍しいことであった。店を開いたのは三橋早苗という四十二歳の女で、康彦はその名を聞いたとき、ああ三橋さんのところの早苗ちゃんか、とすぐに素性がわかった。確か自分より一回りほど下で、高校を卒業すると町を出て札幌で就職した女の子だった。情報を持ってきたのはガソリンスタンドの瀬川だった。「なんでも札幌で結婚したが、すぐに離婚して、それ以降は一人で暮らしていたらしい。兄貴もいるけど、兄貴は仙台に出て行って、そこで家を構えてるし、奥さんは苫沢を離れたくないって言うから、それで娘の方が帰って来たって話だ」
 その夜の夕食後、「さなえ」という名の店に瀬川と二人で行くと、十人ほど座れるカウンターはすでに客で埋まっていた。「いらっしゃいませ」ママが愛想よく挨拶する。康彦の知る早苗とはほとんど別人に見えた。そして一見して水商売の女だとわかった。あらためて見ると、早苗はとくに美人というほどではなかった。顔の造作が昔風で目も細い。ただ、どこか妖艶で男好きする感じはあった。「ところで早苗ちゃん、札幌では何してたさ」瀬川が聞いた。「初めはOLやってたけど、結婚して一旦仕事を辞めて、それで離婚して、まだ若かったから思い切って東京に行って……」「うそ、東京に行ってたべか」瀬川が大袈裟に驚いた。「うん、十年くらい行ってましたよ。赤坂のクラブでホステスを始めて、そこで知り合った先輩ホステスが札幌出身で、『今度故郷に帰ってすすきのに店を置くの。あなたも来ない?』ってスカウトされたから、わたしもついて帰って来て、そこでチーママやってたんですよ」康彦は赤坂と聞いて、早苗がますます垢抜けて見えた。店にはその後も次々と客が訪れた。「早苗ちゃんはいいママさんだべえ」瀬川がすっかり鼻の下を伸ばしていた。
 帰宅して妻の恭子に「しかし親孝行の娘だ。母親の面倒を見るために、こんな過疎の町に帰って来るんだからな」と感心していうと、恭子は「事情があるんじゃないの。わけありってこと。でなきゃ帰ってこないでしょ。こんな過疎地に。親の面倒を見るくらいで」と答えた。
 早苗の店は連日賑わっている様子だった。どうやら役場の職員の行きつけの店になっている様子だ。瀬川もすっかり入れ込んでいるらしい。
 ある日谷口がやって来て瀬川の入れあげている様子を語った。なんでも店で一番高い酒をボトルキープしているらしい。どうやら苫沢では、何人もの男が早苗にのぼせているらしい。それも全員が同じ中学の出身で妻子持ちである。
 谷口が帰ると、入れ替わるように瀬川がやって来た。康彦が早苗の話題を振ると、瀬川はむきになって反論した。恐らく苫沢の男衆の何人かは、早苗ママが気になって仕方なく、浮足立っているのだろう。そして免疫がないから、対処法がわからない。中学生の恋と変わることがないのだ。これも過疎地ならではの人間模様である。康彦としては、黙って見ているしかない。休みの日、康彦は隣町のホームセンターに一人で出かけた。通路の向こうに早苗がいた。夜とは違って薄化粧だった。その横顔を眺めていたら、康彦まで胸がキュンとした。異性を意識するなんて、いったいいつ以来のことか。声をかけようか迷っていたら、陰から三橋の奥さんが現れた。一人ではなく、母親を連れて買い物に来たらしい。その親孝行振りも、なんだか健気に映った。
 日曜日の午後、町民ホールで民謡ショーがあった。町役場と旅館組合の主催で、プロの民謡歌手が何組かやって来てステージで唄う毎年恒例の行事だ。康彦の母・富子も毎年楽しみにしているので、康彦は午後を臨時休業にして連れて行くことにした。いつもは送迎だけだったが、今年は自分も当日券を買い、会場に入ることにした。心の隅に、早苗も母親を連れて来るのではないかという思いがあったからだ。瀬川と谷口も来ていた。二人とも落ち着かない様子で、周囲を見回している。誰しも考えることは同じようである。こうなると、彼らとは一緒にされたくないという気持ちが湧いてきた。自分は早苗を見られたらいいなと、その程度の気持ちで来ただけなのである。五分ほどして、早苗が母親と一緒に現われた。早苗はとくに着飾っておらず、普段着姿だった。ただそれでも町民の中では目立った。佇まいに華がある。ほどなくして早苗は康彦の視線に気づき、笑顔で会釈した。康彦も笑顔で返す。心が温かくなった。これだけで今日の目的は果たしたようなものである。(また明日へ続きます……)

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