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奥田英朗『向田理髪店』その1

2017-10-12 05:41:00 | ノンジャンル
 奥田英朗さんの’16年作品『向田理髪店』を読みました。6編の短編からなる本です。
「向田理髪店」
 「向田(むこうだ)理髪店」は北海道の中央部、苫沢町(とまざわちょう)において戦後間もない昭和25年から続く昔ながらの床屋だった。店主の康彦は53歳の平凡な理髪師で、28歳のときに父親から引き継ぎ、四半世紀にわたって夫婦で理髪店を営んできた。向田泰彦が家業を継いだのは、父親がヘルニアを患い、店に立てなくなったからだ。苫沢は、かつて炭鉱で栄えた町だった。しかし40年代に入るとエネルギー政策は石油へと転換され、海外の石炭との競争にも勝てなくなり、衰退が始まった。泰彦の少年時代は、丸々その衰退期だった。打開策として町は映画祭を誘致し、レジャー施設を造るなど観光に力を注いだものの、すべて振るわず、放漫なハコモノ行政のツケは膨らむばかりだった。泰彦が札幌で社会人になった年、苫沢町は財政破綻した。将来性がないから、泰彦は自分の代で終わらせるつもりでいた。25歳の長女・美奈は、東京の服飾専門学校に進み、そのまま東京のアパレル会社で働いている。23歳の長男・和昌(かずまさ)は札幌の私立大学を卒業し、同地で中堅の商事会社に就職した。そんな中、息子の和昌が苫沢に帰って来ると言い出した。
 「おれは地元をなんとかしたいわけさ」今年の正月に帰省したとき、和昌は家族を前にして唐突に言ったのである。和昌が熱く語るのを聞きながら、泰彦は少なからず違和感を覚えていた。はて息子は中学生の頃から床屋は継がないと言っていたはずではないか。和昌の宣言を手放しで歓迎したのは母だった。妻の恭子は、「何もこんな田舎の散髪屋を継がなくてもいいのに」と、将来を案じつつも、内心は喜んでいるようだ。「要するに、従来通りの散髪屋でやって行こうとするから、先が見えねえわけだべさ。おれの計画はね、店を建て増しして同じ空間にカフェを造るわけ。町民の憩いの場にしてもらって、新しい客を取り込むわけさ」。泰彦は反論したいことがたくさんあったが、「とにかくもう少し待て」と諫め、そのときは言わないでおいた。そもそも資金はどうするのか、向田家にそれを捻出する余裕はない。すると一月も経たないうちに、和昌は親に相談もなく会社を辞め、実家に戻ってきた。苫沢で1年間アルバイトをして学費をため、それで再び札幌に行って理容学校で2年間学び、26歳で理容師になると言う。泰彦は息子の決断に困惑するばかりだった。本音を言うなら、我が息子にはもう少し大志を抱いて欲しかったのである。
 和昌は町の木工所でアルバイトを始めた。幼馴染の谷口は康彦に「後継ぎができたのに、何を贅沢言ってる」と言うのだった。
 和昌は木工所での仕事を終えると、家に帰ってきて夕食を食べ、毎晩のように出かけていった。行きつけのスナックに青年団の仲間で集まっているらしい。そしてその輪には市の助役の佐々木が加わり、勉強会の様相を呈してくるときもあると言う。佐々木は霞が関から派遣されてきていた若者だった。
 泰彦の家での収入は家族が充分に食べていけるだけはあるが、贅沢をする余裕はない。ある日、客として佐々木がやって来た。和昌の計画に関して、「資金に関しては、助成金制度を使えば負担軽減できますよ。過疎地で暮らす町民の新事業に無担保無利子で三百万円まで融資する特別制度があって、苫沢町は対象自治体です。とにかくバックアップだけはちゃんとしたいというのが町の方針です。ですから我々が願うのは、町民のやる気なんです」と言う。「ほらあ、お父さん」「うるさい、おまえは黙ってろ」。泰彦は、これなら青年団が佐々木に心酔しているのも納得がいった。
 泰彦は幼馴染の瀬川を訪ねた。瀬川はガソリンスタンドを経営していた。「この前、佐々木さんがうちへ散髪に来たとき聞いたけど、陽一郎君、店舗を改装して書店を併設するのかい?」「漫画に特化すれば客は来るって言うが、オメ、年寄りばっかの町で、どうして漫画で客を呼べる?」「じゃあ、許さねえわけだね」「うん、まあ……」。けれどここでトーンダウンした。「跡を継いでくれるって言うから、そこはなんと言うか、あんまり抑えつけるのもマズイかなって、女房とは話してるんだけど……」。(明日へ続きます……)

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