映画館に行くのは数年ぶりでしたが、川崎アートシアターで、エドワード・ヤン監督・脚本、ホウ・シャオシェン&チュウ・ティエンウェン脚本協力、ホウ・シャオシェン製作の’85年作品『台北ストーリー』を見ました。
パンフレットから暉梭(←山ヘンでこの作りの字)創三さんの「『台北ストーリー』が生まれた瞬間」を全文引用させていただくと、
「台湾のニューシネマには、源流が二つある。一つはエドワード・ヤン、クー・イーチェン(柯一正)ら4監督によって作られた『光陰的故事』、もう一つがホウ・シャオシェン(侯孝賢)、ワン・レン(萬仁)ら3監督によって作られた『坊やの人形』だ。共に若手監督ばかりが起用されたオムニバス映画という特徴を持つ、これら82~83年にかけて製作された作品が大きな話題を巻き起こしたことによって、台湾映画の新時代は始まった。(中略)
台湾ニューシネマの台頭を人々に印象付けたこれら2作品だが、それに関わった7監督の内、ひとり大きく毛色が変わっていたのが、ホウ・シャオシェンだ。そもそも台湾ニューシネマは、親密な関係にあった香港映画界に78年前後から発生した香港ニューウェイブを多分に意識して誕生した。そこに見られた特徴、即ち、既成映画業界の外にいた才能に助監督経験抜きでメガホンを託す、海外で映画を学んできた才能を監督に起用する、といったことを、そのまま台湾の風土上で実践したのが、これら2本のオムニバスだった。エドワード・ヤンも海外留学組であり、かつ地元商業映画界での助監督経験はないなど、台湾ニューシネマの最も典型的な監督と言える。
一方、ホウ・シャオシェンは、『坊やの人形』を撮った当時、厳密な意味ではもう新人監督ではなかった。既に80年から、『ステキな彼女』『川の流れに草は青々』などの作品で商業長編映画監督として実績を積んでいたからだ。(中略)しかも映画業界に対して外から新しい血を注入するという意義の強かった上述の2オムニバスの中で、彼だけは伝統的な商業映画界で助監督経験、脚本家経験などを積んで監督デビューした、内部叩きあげ組でもあった。
このように2種類の源流から始まり、経歴を異にする才能に率いられてきた台湾ニューシネマが、ついに合流して一本の太くて力強い本流へと姿を変えたのが、『台北ストーリー』だということになる。ホウ・シャオシェン、ホウ組の脚本家であるチュウ・ティエンウェン(朱天文)、さらにウー・ニェンチェン(呉念眞)やクー・イーチェンら台湾ニューシネマを率いる最強の才能たちが一堂に会し、エドワード・ヤン監督の第二作を実現した。90年代に入るとヤンとホウは再びそれぞれ別の道を歩み始めた(実際に二人は手を携えなかっただけでなく、作風にも対照性を見せた)ことを考えると、この『台北ストーリー』が生まれた瞬間こそが、台湾ニューシネマの最も美しく、最も団結していて、最も勢いのあった時代なのだと解釈できなくもない。
ホウ・シャオシェンが製作、脚本、主演と突出して重要な役回りを兼任し、チュウ・ティエンウェンが共同脚本に入った本作は、それでもなお、全編がエドワード・ヤン色で何よりも強く支配された映画になっている。本作に続く『恐怖分子』『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』から遺作『ヤンヤン 夏の思い出』に至るまで、中期以降の彼の作品構造を特徴づけるのは、多人数で多種多様な登場人物の姿を通して、まるごとその時代と社会を映しだそうとしていることだ。(中略)
中国語原題は登場人物同士の同質性を印象付ける「幼馴染み」という意味を持ちながら、英語題には「台北の物語」という意味が与えられた『台北ストーリー』は、今から見ると、まさにこうしたエドワード・ヤン映画ならではの構造が、最初に強烈に打ち出された作品だ。ホウ・シャオシェンとツァイ・チン(蔡琴)によって演じられる主人公二人は、幼馴染みという設定でありながら、社会的属性にも、志向にも、むしろ異質性の方が際立つ。さらに彼らの周りに登場する、世代も、境遇も異なる数多くの人物たちをも合わせて、最終的にヤンが描き出すのは、幼馴染み二人だけの恋愛物語という以上に、いよいよ急速な経済成長期を謳歌しようとしていた時代の台北の物語なのだ。そして監督は、その時代の台北を生きた誰が正しくて、誰が間違っていたのだという断定をしようとはしていない。この態度もまた、その後彼が遺作に至るまで堅持した、エドワード・ヤン映画の基本哲学とでも呼ぶべきものだ」
とても“静かな”映画でしたが(車とバイクの音を除けば)、それだけに2つ出て来る突然の暴力シーンが突出して描かれていたと思いました。若き日のホウ・シャオシェンの男っぷりのよさにも魅了されました。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
パンフレットから暉梭(←山ヘンでこの作りの字)創三さんの「『台北ストーリー』が生まれた瞬間」を全文引用させていただくと、
「台湾のニューシネマには、源流が二つある。一つはエドワード・ヤン、クー・イーチェン(柯一正)ら4監督によって作られた『光陰的故事』、もう一つがホウ・シャオシェン(侯孝賢)、ワン・レン(萬仁)ら3監督によって作られた『坊やの人形』だ。共に若手監督ばかりが起用されたオムニバス映画という特徴を持つ、これら82~83年にかけて製作された作品が大きな話題を巻き起こしたことによって、台湾映画の新時代は始まった。(中略)
台湾ニューシネマの台頭を人々に印象付けたこれら2作品だが、それに関わった7監督の内、ひとり大きく毛色が変わっていたのが、ホウ・シャオシェンだ。そもそも台湾ニューシネマは、親密な関係にあった香港映画界に78年前後から発生した香港ニューウェイブを多分に意識して誕生した。そこに見られた特徴、即ち、既成映画業界の外にいた才能に助監督経験抜きでメガホンを託す、海外で映画を学んできた才能を監督に起用する、といったことを、そのまま台湾の風土上で実践したのが、これら2本のオムニバスだった。エドワード・ヤンも海外留学組であり、かつ地元商業映画界での助監督経験はないなど、台湾ニューシネマの最も典型的な監督と言える。
一方、ホウ・シャオシェンは、『坊やの人形』を撮った当時、厳密な意味ではもう新人監督ではなかった。既に80年から、『ステキな彼女』『川の流れに草は青々』などの作品で商業長編映画監督として実績を積んでいたからだ。(中略)しかも映画業界に対して外から新しい血を注入するという意義の強かった上述の2オムニバスの中で、彼だけは伝統的な商業映画界で助監督経験、脚本家経験などを積んで監督デビューした、内部叩きあげ組でもあった。
このように2種類の源流から始まり、経歴を異にする才能に率いられてきた台湾ニューシネマが、ついに合流して一本の太くて力強い本流へと姿を変えたのが、『台北ストーリー』だということになる。ホウ・シャオシェン、ホウ組の脚本家であるチュウ・ティエンウェン(朱天文)、さらにウー・ニェンチェン(呉念眞)やクー・イーチェンら台湾ニューシネマを率いる最強の才能たちが一堂に会し、エドワード・ヤン監督の第二作を実現した。90年代に入るとヤンとホウは再びそれぞれ別の道を歩み始めた(実際に二人は手を携えなかっただけでなく、作風にも対照性を見せた)ことを考えると、この『台北ストーリー』が生まれた瞬間こそが、台湾ニューシネマの最も美しく、最も団結していて、最も勢いのあった時代なのだと解釈できなくもない。
ホウ・シャオシェンが製作、脚本、主演と突出して重要な役回りを兼任し、チュウ・ティエンウェンが共同脚本に入った本作は、それでもなお、全編がエドワード・ヤン色で何よりも強く支配された映画になっている。本作に続く『恐怖分子』『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』から遺作『ヤンヤン 夏の思い出』に至るまで、中期以降の彼の作品構造を特徴づけるのは、多人数で多種多様な登場人物の姿を通して、まるごとその時代と社会を映しだそうとしていることだ。(中略)
中国語原題は登場人物同士の同質性を印象付ける「幼馴染み」という意味を持ちながら、英語題には「台北の物語」という意味が与えられた『台北ストーリー』は、今から見ると、まさにこうしたエドワード・ヤン映画ならではの構造が、最初に強烈に打ち出された作品だ。ホウ・シャオシェンとツァイ・チン(蔡琴)によって演じられる主人公二人は、幼馴染みという設定でありながら、社会的属性にも、志向にも、むしろ異質性の方が際立つ。さらに彼らの周りに登場する、世代も、境遇も異なる数多くの人物たちをも合わせて、最終的にヤンが描き出すのは、幼馴染み二人だけの恋愛物語という以上に、いよいよ急速な経済成長期を謳歌しようとしていた時代の台北の物語なのだ。そして監督は、その時代の台北を生きた誰が正しくて、誰が間違っていたのだという断定をしようとはしていない。この態度もまた、その後彼が遺作に至るまで堅持した、エドワード・ヤン映画の基本哲学とでも呼ぶべきものだ」
とても“静かな”映画でしたが(車とバイクの音を除けば)、それだけに2つ出て来る突然の暴力シーンが突出して描かれていたと思いました。若き日のホウ・シャオシェンの男っぷりのよさにも魅了されました。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)