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オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』その2

2017-10-06 06:15:00 | ノンジャンル
 今朝の朝日新聞にアンヌ・ビアゼムスキーさんの訃報が掲載されていました。ロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』で留学中にデビュー。その後、ゴダール監督の『中国女』『東風』などに出演。ゴダールとは'67年に結婚しましたが、その後離婚。近年は小説を書いていたそうです。死因はガン。享年70歳。早すぎる死でした。改めてお悔み申し上げます。

 さて、昨日の続きです。
・「本当の人生は享楽にある、オマルはそれを『酒』という言葉で表現した。予言者や聖人の残した言葉は、まことに風のごとく空しいものである。

  復活の日に調査(しらべ)ありと言う
  よき友も心猛るべし
  されど完全なる善からは善のみぞ出づる
  よろこぶべし最後はすべて善し

 『よき友』とわれわれが教えられている神の使徒たちも、復活の日には意地悪くわれわれを裁き、毛を吹いてその悪を調べようとするだろう。しかし、安心せよ、われわれを造ったのは『完全なる善』である神であったから、それから悪などは生れる道理がない。
 これはいわゆる聖人たちに対する鋭い皮肉である。(中略)そして彼らがおごそかに定めた宗教上の繁雑な儀式や礼拝はオマルが唾棄したところのものであった。

  酒肆(しゅし)にてわれ若(も)し汝(なれ)に秘密を語らば
  ミフラーブに見えざる汝を祈るよりもよからん
  汝は自ら造りしものの最初にして最後のもの
  われを焼き われをあわれめ

 ミフラーブとは、イスラム教寺院で聖地メッカの方向、すなわちキブラ(天方)を示すために設けられた凹所であり、信者はそれによってメッカの方向を知り、それに向って礼拝するのである。しかし、なんぞ必ずしもミフラーブに向って見えざる神を祈る必要があろうか。酒屋で酒を飲みながら、神------もし神というものがあるなら------に自分の秘密を打ち明けたほうがよいではないか。

  われ寺へつつしみ通う
  されど神かけて祈りのためならず
  われかつてそこより 毛氈(サッジャーダ)を偸(ぬす)めり
  いま一度(ひとたび)の好(よ)き機会(おり)と期すればこそ通うなり」

・「  一マンの酒を杯もて干さん
   二杯の酒われを豊かにせん
   われ先ず知識と信仰とを離縁し
   かの葡萄の娘を妻となさん

 オマルは、はっきり知識と信仰とに訣別を告げているのであって、『葡萄の娘』をいかにスーフィーの語彙に照らして『神の慈愛』と訳してみても、そこには釈然としないものが残るであろう」

・「オマルの詩には、この信仰の歓喜がない。一貫して無常の世に対する悲哀のみが色濃くあらわれている。(中略)

  知識と思考の虜(とりこ)となれる者
  存在と非存在とに心なやませどむなし
  つつしみ深き人行きて葡萄の汁を汲め
  おろかなるものに熟(う)れざる葡萄はにがからん」

・「  酒飲まば汝(なれ)の固執は消ゆるべし
   七十二の宗派にお悩みもすまじ
   かかる錬金術をとがむるな
   一杯の酒よく千の議論を消すなれば

 科学探究の道を歩んだオマルにとっては、他愛なく無益に見えた宗教的議論も酒によって消される。酒はこの点、一種の錬金術と言ってもよかった」

・「すべての快楽主義者の辿る道として、オマルも刹那主義の道へ踏み込んだ」

・「不可知論者オマル・ハイヤームはこのように、この世の真理は求めて得ざるものと断定した。しかし、それでも人間は生きてゆかねばならない。それでは、生活の基盤をどこに求めるか、精神的に生活を支持する原理を発見し得なかった彼が、一個の生活方式として快楽主義を謳歌したのは異とするに足りない」

・「少なくとも、この孤独の詩人は、歌うことに深い憂愁のはけ口を見出していたのであろう」

・「彼が『酒』という言葉を口にするとき、しばしば『死』というものがその影のようにつき添っている。(中略)『飲もう、明日知れぬ身だから』というのがオマルの哲学なのである」

・「『運命の水』は言うまでもなく『死』のことである。オマルはこの『運命の水』がわれわれの前に差し出され、それを干さねばならぬときが来るまで、甘い『葡萄の汁』を存分に楽しめと言うのである。その底にペシミスティックな思想が流れているのは疑いを容れる余地がない」

・「いままで説明してきたように、私の考えは、オマルが汎神論的神秘主義者スーフィーであったという意見には否定的である。彼はむしろ宿命論的享楽主義者であったと考えられるべきであろう」

・「  年幼く師につきし時
   かつて学びに心足りたり
   されど終りに臨みて聞ける言葉は
   われら土より来(きた)り風の如く去ると

 この時にあらわれている無常観がオマルの詩全体を蔽っており、一部の人が主張するような宗教的情緒の影を薄くしている。問題は、オマルがこの無常観を宗教的に発展せしめたか否かである。しかし、彼は宗教的な敬虔さに到達するよりは、反対に刹那主義的享楽主義の方向をとったのである」

・「ラウナウ本の最後に載せている四行詩は彼の辞世の作とみられている。

  ああわれに憩いの場所あれ
  長き旅路のはての辿りつくべき所
  百千年の後にその土の心より
  緑の草と萌え出でんと希(ねが)う

 げにも百千年の後に、彼の魂は緑の草と萌えて、われわれの精神のオアシスに茂っているのである」


 訳が文語調だったので、本文を読むのはあきらめ、解説だけを読みました。現代語訳が出れば、改めて読み直してみたいと思いました。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto