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奥田英朗『向田理髪店』その2

2017-10-13 02:22:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 その夜は吹雪になったので、和昌も出かけることが出来ず、夕食後は自室にこもり、何やら机に向かっていた。「和昌は部屋で何やってるべ」泰彦が聞くと、恭子から「佐々木さんに見せるカフェの計画書だって」という答えが返ってきた。「ずいぶん気の早い話だな。まだこれからバイトで金を溜めて、それから札幌の理容学校に2年通って、その先のことだべや」。康彦は、この機会にふと聞いてみたくなった。「なあ、今さらなんだが、和昌がなんで会社辞めたか、おまえ、聞いてねえか」「朝から晩まで上司の命令通りに働くことに虚しくなったんじゃないの? お父さんにも言ってたでしょう」現状に不満はない。理容師という仕事に誇りを持ってるし、自分の技術も自負している。けれど別の人生があったのではないかという思いが、心の奥底にあり、ときどき泰彦を苦しめる。
 3月に入ってすぐに、中学時代の恩師が他界した。85歳だったというから天寿を全うしたと言っていいだろう。生徒から好かれていたので、葬儀には大勢の元教え子が集まった。泰彦も参列した。葬儀は町のホールを借りて、盛大に執り行われた。札幌や仙台、中には東京から駆けつけた者もいて、会場はさながら同窓会のようだった。同級生では一番の出世頭である篠田は「苫沢はやっぱりいいな。うちは親も兄弟も札幌の近くに移ったから、ここに来るのは二十年ぶりくらいかな。昔のまんまだね。うれしくなった。実を言うと、葬儀に出たのは、苫沢を見たかったというのもある」と言った。「勝手なこというな。三十年前から人口は減る一方だべ。オメが家族連れて帰って来い」泰彦が冗談でつつくと、篠田は目を伏せて苦笑した。「それもいいかな」とぽつりと言う。「子育ても終わったし、カミさんと二人、のんびり暮らすのもいいかもしれん」「おい篠田。帰って来る気もねえくせに、そういうこと言うな」泰彦と篠田の間で口論になった。結果、篠田は憤慨して帰っていった。もう苫沢には来ないだろうと思った。
 苫沢にもそろそろ春の気配が訪れた頃、助役の佐々木が東京からイベントプランナーを呼び、町おこし講演会が開催された。和昌たちは、自分たちのプランを専門家にぶつけて意見を聞きたいと、大張り切りで半月前から企画書を練っていた。しかし康彦は皆の前で言った。「こったらこと言うと、町民みんなから叱られると思うけど、苫沢は沈みかけの船だべ。沈む船なら、親としては子供を逃がしてやりたい」「沈む船かどうか、やってみねえとわからねえべ」そのとき、和昌が低い声で唸るように言った。「おれたちだって現実が厳しいことぐらいわかってるべや。でも何かやりたいのさ、おじさんたちに迷惑はかけねえから、好きにやらせてくれてもいいんでないかい」若者たちが反論すると、しばしの沈黙の後、谷口が拍手をした。「いいぞ、いいぞ、その調子だ。年寄りに負けるな」野次を飛ばす。恭子も隣で拍手した。やがてそれは会場中に広がり、康彦は黙らざるを得なかった。康彦は座席に腰を下ろし、大きくため息をついた。一方で、どこか安堵する気持ちもあった。これでよかったのかもしれない。自分が恥をかき、和昌たちの株が上がった。見ない振りをして保たれる平和が世の中にはたくさんある。康彦はあと二十年、この生活を続けるつもりだ。その後店がどうなるかは知らない。和昌が跡を継ぐと言っているが、今でもあてにはしていない。
「祭りのあと」
 苫沢町に夏祭りの季節がやって来た。過疎化が進む元炭鉱町なので、盛大というわけにはいかないが、それでも屋台が立ち並び、盆帰りの宴が三晩繰り広げられ、札幌や本州から里帰りする若者や家族連れもいて、苫沢は一時の活気を得る。常連客の馬場喜八は散髪を終えても、すぐには帰らず、康彦の母・富子とおしゃべりを始めた。そうこうしているうちに、今度は喜八の妻・房江もやって来て、「お父さん、帰って来ねえから心配して見に来たべさ」と言いながら、自分もおしゃべりに加わった。午後になると瀬川が現れた。「ああ、そうだ。今日、馬場さんが散髪に来て言ってたけど、武司君、今夜帰って来るそうだから、明日の晩、一丁麻雀でもやらねえか」康彦が言った。瀬川は三十分ほどおしゃべりをして帰っていった。
 夜、房江がやって来た。「うちのお父さんが風呂場で倒れた」「馬場さんが?」。康彦たちは馬場宅に急行し、康彦と武司と和昌、男三人で喜八を担いだ。家を出て車の後部座席に載せようとすると、突如として喜八がイビキをかき始めた。康彦はすぐに脳溢血だとわかった。自分の父親がそれで死んだからだ。「武司君、やっぱり救急車呼ぼう。うちらでは手に負えね」救急車が着くと、救急隊員は「山縣中央病院に搬送します。奥さんは救急車に同乗願います。息子さんは車でついて来てください」と言った。(また明日へ続きます……)

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