杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

スマイル静岡茶特集2013 その1~販売店編

2013-06-09 10:39:05 | 農業

 JA静岡経済連の情報誌『スマイル』49号が完成しました。今回は静岡茶の特集です。

 

 お茶の特集はスマイルでも2年おきぐらいの定番特集で、毎回、手を変え品を変え、さまざまな切り口で取材しています。今回も実に多様な生産者、製茶業者と出会い、それぞれにこだわりを持ってリーフ茶低迷打開に努力されていることを知りました。試飲したお茶も、同じ茶葉なのにこうも違うのかと驚かされます。酒と同様、何年経っても知れば知るほど奥が深くなる、底知れなImg027い魅力を再認識しました。

 

 

 『スマイル』は県内の主だったJA支店やファーマーズマーケット、首都圏での頒布会等、配布先が限られているので、ご覧になれない方も多いと思います。

 とりあえずここでは、今回の静岡茶特集で取り上げたお茶をピックアップしますので、機会があったらぜひお味見くださいませ!

 

 

 

 

 

 佐々木製茶(掛川市上内田)は大正10年創業の老舗製茶販売店。掛川深蒸し茶ブームにのって店頭に並ぶ商品も多種多様です。

 今回取り上げたのは、2009年と2012年に世界味覚Dsc01906コンクール(iTQi)リーフ茶部門で、日本茶としては唯一、三ツ星を獲得した『かごよせ』というオリジナル商品。値段を聞いたらエッと驚いたんですが、高級茶ではなく、ふだん飲み茶価格なんですね。

 これが、世界の料理人やソムリエなど味覚のトッププロが、純粋に、味覚だけで審査をする国際コンクールで三ツ星を獲ったというのは、日本酒でも特別純米や純米吟醸など中級クラスの味がしっかりした酒が国際コンペで評価される流れと同じなのかなあと実感しました。

 

Photo_2
 佐々木製茶のもう一つのウリは、深蒸し茶をスポンジに練りこみ、茶農家が冬場に育てたいちご・紅ほっぺのフリーズドライを生クリームにプラスしたロールケーキ『掛川ロール』。静岡のお茶屋さんのスイーツとしては、これ以上ないという組み合わせですね。

 

 

 

 

 

 

 

 同じく掛川の製茶販売店『茶果きみくら』は、丸山製茶がプロデュースする掛川茶のランドマークショップ。創業者の旧宅敷地にオープンしたモダン和風の小売&カフェ&ギャラリーです。

Dsc01749
 嬉しかったのは、以前、取材した掛川城南茶業組合のお茶が買えること。昨年夏に取材し(こちらを)、その直後に全国茶品評会で農林水産大臣賞を受賞されたことで、掛川城南茶業組合の良茶づくりにかける思いが一層胸に残っていただけに、ここでいつでも買えると分かって本当によかったです。

 

 

 

 Photo_3

 この店、静岡酒ファンにとっては、掛川駅から『開運』の土井酒造場に向かう県道38号線沿いにあるので、看板を見かけた~!という人も多いと思います。県外の酒徒をご案内した折には、ぜひお帰りに一服なさってくださいな!

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回は掛川茶の販売店を3軒取り上げました。3軒目は掛川市生涯学習センター裏にある『お茶の実の雪うさぎ工房』。ららぽーと磐田にもテナントショップがあります。

 

 五十右園という製茶問屋がプロデュースするスイーツショップで、お茶屋さんが経営する店では珍しく、商品はすべて自家製。10人の専従パティシエを要して、焼き菓子類は別工房で、生ケーキ類は店Dsc01705内厨房で作り立てを提供しています。今回は店長でチーフパティシエの岡崎久留美さんに、看板商品の抹茶のベイクドチーズケーキのレシピを紹介してもらいました。

 

 

 

 Dsc01699
 

 

 取材時には五十右社長に抹茶ベイクドチーズをはじめ、いろいろな商品を味見させてもらい、「お茶屋さんが片手間で売ってるスイーツのレベルをはるかに超えている…!」と実感。とくに焼き菓子の美味しさにはビックリ。

 それらが手ごろな商店街価格で、ばら売りやセット売りなどさまざまなパッケージでアレンジできます。店にはつごう3回通いましたが、さほど便のいい場所にあるとは思えないのに、毎回、お客さんがひっきりなしにやってきて、学校行事の記念品に大量注文する人もいました。

 

Dsc01731
 「食材に妥協しない」「ホンモノの職人の手作り」の姿勢を、こういう場所でも貫きとおせるのは、長年のお茶作りで培ったものなんだろうし、ショップの運営はパティシエや女性販売スタッフに一任し、パッケージデザインや売り方なども彼女たちの自由な発想に任せることで、お客さんのハートをしっかり掴んでいるようです。

 

 

 

 

 

 取材の後、私用で買い物に行ったときも、黒服の女性販売スタッフが、若いのにマナーがとてもよくて、久しぶりに気持ちのいい買い物が出来たって感じがしました。

 長くなりましたので、続き(生産者編)はその2で。


酒粕の新たな機能性

2013-06-04 09:23:32 | 地酒

 

 平成24酒造年度全国新酒鑑評会が5月22日、東広島市で開かれました。私は521日の酒類総合研究所講演会、22日の全国新酒鑑評会製造技術研究会(業界関係者対象の全出品酒の公開試飲会)に行ってきました。22日の製造技術研究会については、日刊いーしず隔週連載の地酒コラム『杯は眠らない』(こちら)に報告しましたので、こちらをご参照ください。

 

 

5月21日の酒類総合研究所講演会、日本酒造組合中央会とともに全国新酒鑑評会を主催する独立行政法人酒類総合研究所が、鑑評会の開催に合わせ、日ごろの研究成果や鑑評会審査のポイントなどを解説するシンポジウムで、今年で49回を数えます(昨年の講演会については、こちらの過去記事を)。

 

<o:p></o:p>

 

同研究所は昨年1月、時の民主党政権下で廃止が閣議決定され、100年続く全国新酒鑑評会の開催も危ぶまれましたが、自民党の新政権になってその決定が凍結となり、独立行政法人の見直しが継続審議となりました。地酒ファンとしても、まずは一安心、ってところでしょうか。そういう背景があってか、今年の講演会では研究成果の社会的貢献度を強調する発表もみられました。<o:p></o:p>

 

<o:p> </o:p>

 

 【清酒粕の成分調査と機能性成分の安定性について】という研究発表では、酒粕の新たな機能性成分について興味深い解説を聞くことができました。NHKのためしてガッテンで酒粕の効能がクローズアップされ、ブームに火がついたことで、ここ酒類総合研究所でも新たな視点で酒粕の成分分析が始まったようです。

 

Imgp1341

 

 

 今回、発表された注目される高機能性成分とは、S-アデノシルメチオニン(SAM)と葉酸SAMは清酒酵母が高含有する成分で、肝障害、ウツ、関節炎を防ぐ効果があり、欧米ではサプリメントとして広く知られています。国内産のサプリメントは2社から発売されており、いずれも清酒酵母から取得されているそうです。<o:p></o:p> 

 

 

 

葉酸は欧米では子ども向けのシリアルにも使われる高機能性成分で、妊婦の滋養に効果あり。先進国では日本だけ摂取量が低いといわれるものです。<o:p></o:p>

 

 

酒粕に含まれるSAMは豚レバーの約27倍(最大で116倍)、葉酸はホウレンソウの約0.8倍(最大で2.5倍)。最大値との数値に開きがあるのは、サンプルに使われた酒粕の違いによるものです。

 

たとえば酒の主要成分であるタンパク質は、普通酒では14.4%、大吟醸では5.5%、液化仕込は25.3%というように仕込み方法の違いによって酒粕にまで成分の差がハッキリ出るんですね。とくに酒粕をあまり出さない液化仕込と、酒粕をもろみの5割以上出す大吟醸では、極端な差があります。<o:p></o:p>

 

 

 

 

そんなこんなで酒粕の成分検査は複雑かつ判断が難しいようですが、酒粕の有効成分が話題になる中、あらたにSAMと葉酸の高含有が科学的に解明され、ますます頼もしく感じました。<o:p></o:p>

 

SAMや葉酸は、酒粕を冷凍保存(マイナス30℃)することで長期保存でも含量が損なわないようです。とくに酒粕を凍結乾燥させると安定性が劇的に向上する。凍結乾燥の酒粕が機能性食品として開発される日も必ず来るでしょう。

 

 

 

 

なお、酒粕の有効成分については、【杯は眠らない】のこちらの記事でまとめてありますので、併せてご覧ください。<o:p></o:p>

 


朝鮮通信使時代の外交安保

2013-06-02 16:51:31 | 朝鮮通信使

 今回も少し時間が経ってしまったネタで恐縮です。

 

 5月17日(金)、静岡県朝鮮通信使研究会の今年度第1回目の例会がありました。座長の北村欽哉先生による講話『興津宿朝鮮船漂着一件』です。今の対韓外交を考える上で大いに示唆に富んだ内容で、政治家の先生方や、政治家を志す若い人も必聴の内容。いつもながら、北村先生の綿密な調査・分析能力には本当に唸りっ放しでした。

 

 

 

 『興津宿朝鮮船漂着一件』とは、江戸中期の明和7年(1770)5月5日、清水の興津宿の海岸に、13人の朝鮮人が乗っていた朝鮮船が漂着した事件のことです。船は済州島の商船で、1月28日に出航し、朝鮮半島南部の所安島というところへ向かったのですが、嵐に遭遇して数ヶ月も漂流していたそう。日本海で遭難した船が、太平洋側の駿河湾に漂着したというのはビックリですが、興津宿の医師と交わした筆談した記録がちゃんと残っています。要訳すると―

 

 

 

 

(医師)みなさんはどこの国の、どちらにお住まいの方々ですか?

 

 

 (船員)朝鮮国全羅郡都領厳県(=済州島)拝振村の者です。

 

 

 (医師)どこに行こうとして遭難したのですか?

 

 

 (船員)我が国の所安島に行こうとしたら、嵐に遭い、航路を見失ってしまいました。船の道具や帆や様々なものを失ってしまい、何ヶ月も海上を漂流し、5月にここに到着しました。

 

 

 (医師)国を離れるときは何人乗船していたのですか?

 

 

 (船員)34人乗っていましたが、21人が溺死してしまいました。海上がひどく荒れていました。

 

 

 (医師)数ヶ月、船中で何を食べて生き延びていたのですか?水はなかったと思われますが、どうされていたんですか?

 

 

(船員)はじめは天から降る雨を集めて使い、一日3回ご飯を炊きましたが、その後は久しく雨が降らず、生米を食べてしのぎました。

 

 

 (医師)13人のお名前と年齢を教えてください。

 

 

 (船員)金取成、34歳。船頭を務めています・・・

 

 

 (医師)朝鮮国の人は何を食べているのですか?

 

 

 (船員)我が国では猪、鹿、鶏、牛、魚、豹などの肉を食べています。

 

 

*『落穂雑談』『一言集』より

 

 

 

 

 

 彼らの救出から1ヶ月後の明和7年6月、13人に対して一人1頭ずつ馬があてがわれ、長崎を経て帰国の途に。難破船も、港から港へと継送しながら大坂まで運ばれ、長崎→対馬経由で送還されました。

 馬に乗せるというのは、当時では国賓待遇。難破船も扱いも大変丁寧です。幕府はわずか1ヶ月の間に、彼らを厚遇しながら帰国せよと各藩に通達したわけです。これは、朝鮮通信使の招聘によって、日朝両国の間に相互協定が出来上がり、諸藩にもその認識が共有されていたことを裏付けます。

 

 当時、このようにして漂流民を送還した例は、記録にあるだけで197例。朝鮮船の場合は上記のように、当時の外交窓口であった長崎奉行所を経て、対馬→釜山の倭館へと送還されたそうです。

 

 

 話は逸れますが、釜山の倭館というのは朝鮮王朝と幕府の仲介役を担う対馬藩士や対馬商人が常駐するいわば在外公館のようなもので、敷地は約10万坪。当時、長崎にあった出島は4千坪、長崎唐人屋敷は1万坪程度だったことを考えると、破格の規模ですね。

 

 対馬藩は現地から絹、生糸、高麗人参などを仕入れ、長崎経由で入ってくるものと同等品質のものを格安で販売し、京都で人気を集めました。これに目をつけた越後屋がダミー会社をつくって独占販売し、江戸で大儲けしたそうです。時代劇によく出てくる悪徳商人・越後屋の異名はこんなことから生まれたのかな(笑)。

 

 

 

 

 今回の北村先生の講話のテーマは、この朝鮮船送還の手際のよさに象徴されるように、朝鮮通信使の往来によって保障されていた日朝外交から学ぶこと。政治状況の異なる今とは単純に比較できないのは承知のうえですが、こういう歴史を知っておくことはとても大事だと思いました。

 

 

 朝鮮通信使外交は、秀吉が引き起こした文禄慶長の役(1592~98)という理不尽な侵略戦争からわずか9年後の1607年にスタートしました。最初の使節団が来日したとき、彼らは日本の担当者に鉄砲が欲しいとオファーしたそうです。高性能の鉄砲がなかったため、朝鮮軍は日本との戦いで苦戦したんですね。いくらなんでも、ちょっと前まで対戦国だった相手に大胆な注文です・・・。

 

 でもこのとき、家康は、「もし仮にふたたび戦争をする羽目になってしまったら、戦わなければならないが、そのとき、兵器を持たない相手と戦う気はさらさらない。いわんや、大切な隣国が欲しいというのになぜ止められようか」と答えたのです。このエピソード、今回、初めて教えていただき、背筋がゾクゾクしました。

 

 

 家康が、秀吉の侵略戦争の後始末で、交渉相手だった松雲大師に「自分はこの戦争に参加していない。朝鮮に恨みは一切ない」と言い訳?をして相手の機嫌を取ったことは承知していましたが、こんな具体的な言葉で反省の意思を表明していたとは・・・。「武器が欲しいならどうぞどうぞ」と聞けば、日本側が本当に再び戦争を起こしやしないか“探り”を入れていた第1回目の通信使にも、それなりの説得力があるというものです。

 

 通信使はこのとき、堺から大量の銃を持ち帰りました。銃器を欲していた主な理由は、朝鮮半島北部から女真族の侵攻が危ぶまれ、その防衛対策のためだったのです。家康側はそういう背景をリサーチした上での対応だった、としたら、大変優れた外交インテリジェンス、といえるんじゃないでしょうか。このエピソード、知っていたら、映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』に入れたのになあ・・・残念!

 

 

 

 

 

 ところで朝鮮通信使外交が順調に推移していた元禄時代、江尻の高札場に『竹島渡航禁止の御触書』なるものが掲げられました。もちろん江尻だけじゃなく、全国の港町に挙がったでしょう。

 

 内容は、「日本人は竹島に絶対に渡ってはいけない」というもの。ここで言う【竹島】とは、今、問題になっている竹島ではなく、韓国領海内の鬱陵(ウルルン)島のこと。この島は倭寇の拠点で、海賊行為を働く日本人のみならず、朝鮮人、中国人など周辺国出身のヤバイ連中の根城だったんですね。朝鮮王朝はこの島に対し、空島(無人)政策をとっていたのですが、アワビの宝庫でもあったため、日本の漁民がひそかに渡ってアワビの密漁をしていたそう。

 

 そのことが朝鮮国内で発覚し、「日本人が勝手に漁をしているのに、なんで朝鮮人はダメなのか!」と騒ぎになります。対馬藩は「鬱陵島はうちらの領土だ」と開き直るし、幕府内でも賛否両論。元禄バブル絶頂期のこと、「いっそのこと戦って奪い取れ!」と強硬論も出てきます。「ちょっとちょっと、ここで朝鮮と戦争なんかおっぱじまったら、せっかく交易で儲かっているのが台無しになる!」と対馬藩内でも論争となり、徳川将軍の「日本人は渡航不可!」の最終結論で一件落着したわけです。

 

 この穏便な解決が、その後の漂流事件のスムーズな解決にもつながったと言われています。

 

 

 

 もちろん何度も言うように今とは政治状況が異なり、一概に比較はできません。外交とは、武器を持たない戦争とも言われますが、自己を正当化し、主張を押し通すだけが外交ではないんだろう、ということを歴史は教えてくれます。

 

 

 家康の判断、竹島渡航不可の高札とも、当然、不満を持った人はいたと思います。議会制民主主義の今とは違い、将軍様の一声ですべてが決まり、反対勢力を一蹴できた時代です。それだけに、治世者の判断力が誤ったら大変なことになる。正しい判断ができるためのシステムづくりの重要性、これは、江戸時代も今も変わらないんじゃないでしょうか。

 

 

 こういう“温故知新”の場を、政治を志す若い人、韓国のみなさんたちと一緒に出来ればいいなあと心から思える会でした。北村先生、ありがとうございました。