杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

土中出現した国宝級の河津平安仏像群

2014-08-02 23:15:00 | 旅行記

 7月31日~8月1日と久しぶりに伊豆を縦走。河津では以前から関心のあった【伊豆ならんだの里・河津平安の仏像展示館】を訪ねました。Img110_2

 

 

 開館は2013年2月。場所は河津川の左岸から伊豆急行の線路に沿うように下田方面に進んだ山間の里・谷津(やつ)の南禅寺境内にあります。南禅寺と書いて『なぜんじ』と読むそうです。

 

 寺は山の中腹にあり、駐車場からはかなり急な登り坂を250メートルほど登ります。

 

 Imgp0596_2 この時期の日中炎天下、素足にサンダル履きだった私は、1分も経たないうちに足の裏が痛くなり、ヒイヒイゼイゼイ・・・。途中の案内板の「平安時代の仏像が待っている」のひと言に励まされながら汗だくでたどりついたお寺は、(当然ながら)京都の南禅寺とは違って素朴な村の御堂といった趣き。寺の由来が書かれた看板によると、もともと谷津の地には奈良時代に建てられた『那蘭陀寺(ならんだじ)』という七堂伽藍の大寺院があったそうです。

 

 

 

 

 

 『掛川誌稿』(天保年間1833~44)によれば、「……中古南禅寺と云は誤也といへり、今は薬師堂一宇、奥谷にあり、村人は専ら南禅寺と呼、……南禅寺は自ら別にて、那蘭陀寺と共に荒廃せしに因て、再興の時二寺を併せて、那蘭陀寺の旧号を冠せしにや、総て詳なることを得ず、…」とあり、2つのお寺がひとつになったようですが、これ以上のことは不明。谷津の周辺には「弥勒」「大門」「仏ヶ谷」という地名があることから、かなりの規模だったことがうかがえます。

 

 室町時代の永享4年(1432)、大規模な山津波に襲われ、那蘭陀寺の御堂や26体あったという仏像は土の中に。ところが埋もれていたのが赤土(粘土質)だったようで、幸運にも土がクッション役になり、24体が掘り起こされました。このうち本尊薬師如来像はじめ何体かは土の上にお顔が出ていたのですぐに発見され、ほぼ無傷で掘り出されたそうです。スンごい仏像パワーですね!

 

 

 山津波で廃寺になってから100年余経った天文10年(1541)の秋、温泉治療にきた鎌倉正光院の南禅和尚がここに坊を営み、和尚を慕った里人たちが「南禅坊」と呼んだことから南禅寺の寺号で復興。江戸時代には天台宗聖護院系の山岳修験の寺となり、明治5年の修験道廃止まで続いたそうです。詳しい系図は史料が火災で紛失してしまって不明だとか。

 

 

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 現在の南禅寺本堂は、里人の浄財で文化11年(1814)に再建した簡素な御堂です。それからちょうど200年。平成の世に新設された展示館は一見、ごく普通の資料館といった雰囲気ですが、中に入ったら、仏堂さながらのレイアウトで、造られて1200年は経つ平安木像24体が、ガラスケースに囲われることもなく、すくっと安置されていました。一瞬、「ここは京都か奈良か?」と疑ってしまうほど。いや、京都奈良でも平安木像をこのように空間展示しているところは少ないでしょう。

 

 

 

 まず真正面中央にドーンと安置された本尊薬師如来像。カヤの木の一木彫りで平安時代前期~中期頃の作とされています。

 

 この薬師如来像、1200年前の木像とは思えない状態の良さです。薬師如来は手の指の第二関節あたりから水かきのようなものが付いていて、病む人々を余さず救い出すと如来パワーを示すのですが、調査した専門家によると、この像は水かきが指の第一関節から付いており、まさに古い時代の証拠だとか。もちろん静岡県内では最古の仏像で、全国でも指折りの国宝級の平安木像です。

 実際、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)で調査のために一定期間保管され、南禅寺に昭和31年に戻されたとき、国宝指定されるべきところ、国宝を保存管理する諸条件が金銭的に困難だったため、条件の緩やかな県指定になったそうです。・・・過去、日本酒の世界で、酒質は特級クラスでも高い酒税を上乗せして売ることのできない地方の地酒は、あえて二級酒で売っていたことを思い出しちゃいました(苦笑)。

 

 

 

 Imgp0588_2 館内の写真撮影は本来NGですが、案内してくださった管理人さんにこちらの職業を伝え、「展示館PRの一助になりたい」とお話したところ、仏像写真を無断転用されるような撮り方でなければ、との条件でお許しをいただき、出入り口から遠目に撮らせていただきました。ご尊顔は展示館HP(こちら)を参照してください。

 

 展示館完成前、南禅寺本堂内に安置されていた頃は、ガラス越しながら写真撮影自由だったみたいで、数々のブログに写真がアップされています。「ガラスもない頃は、我々ごくごく普通にほとけさんを触って拝んでましたよ」と管理人さん。南禅寺は特定の宗派に属さず、住職もいない無人寺で、地区の住民たちの浄財で護られてきた“里の寺”。ガラスケースで覆ったり撮影不可にするのは、住民の方々の本意ではないような気がします。

 

 

 24体のうち、僧形坐像(おびんづる様)一体だけ、お触りOKになっています。専門家や研究者からは「平安木像を自由に触るなんてあり得ない!」と猛反対されたそうですが、「おびんづる様は触って拝むほとけさまとして長く護られてきたのだから」というのが地区の人々の総意。

 

 

 

 ほか、東海地方最古の地蔵像となる『地蔵菩薩立像』、本堂にあった頃は「拝めばいつまでも若々しく美しくいられる」と女性に信仰されていたという『十一面観音像』、甲冑をまといヨーロッパ巡回展では古代ローマの勇士のようだと絶賛された『天部立像』など国宝級の木像がズラリ。埋まっていたのが赤土(粘土質)ではなく黒土だったため、一部が朽ちてしまった像もありますが、管理人さん曰く「直径1・4センチの螺髪が8つ発見されたが像本体が見つかっていない。まだまだ土の中に埋もれたほとけさまがいらっしゃる」とのこと。仏像ファンとしてはワクワクさせられますね!

 

 

 それにしても、なぜ中央の都から遠く離れた伊豆・河津の地に国宝級の仏像が続々と出土したのでしょう。

 

 この地は「河津」の「谷津」。「津」のつく地は港を意味します。我々はつい、東海道を中心とした陸路を頭に置いて、街道沿いは発達し、街道から遠く離れた半島の先端のような土地は文明後進地と決め付けてしまいますが、陸上用の大型輸送車輌が登場するまで、物流の中心は船。船が立ち寄る沿岸沿いの地は、ヒト・モノ・情報の交流拠点だったわけです。

 

 この地にも、仏教が伝来して間もない奈良時代に早くも伝道師が足を踏み入れ、布教活動を行い、信仰の拠点を築いた。・・・日本が島国で、主な交通手段は船だという至極当然のモノサシで見れば、何の不思議もありません。またひとつ、歴史のとらえ方を教えられた気がしました。

 

 Imgp0591_2 展示館は10時から16時まで。水曜休館。入館料は大人300円です。キツイ登り坂NGの人には、事前に電話(0558-34-0115)すれば地区の人々が送迎してくれるそうです。

 そこまで地元がリスクを背負うくらいなら、もっと便のよい平地に建てればよかったのに・・・とも思いますが、「1200年もの間、みほとけたちが守られてきたのは、南禅寺が建つこの地の土質、湿度、風力等の自然条件があってこそ。環境を変えるべきではない」との判断があったとか。

 

 このみほとけたちが、立派な宗教法人や財団法人が運営する寺院、博物館の所蔵であれば、すんなり国宝指定を受け、ニュースバリューも高まって、一大観光地になったかもしれません。しかし1200年生きながらえるパワーを持つみほとけたちは、地域で浄財を負担し、必死に守り続ける里の人々のもとに還ってきました。このお話のほうがよっぽどニュースバリューがあるのではないでしょうか。

 そして一過性のニュースで終わらせることなく、語り継がれる価値ある物語として効果的に発信していかなければなりません。

 

 

 物語のチカラを活かしたい、活かすべきだと強く思う一方、こうして個人ブログでしか発信の場をもてない自分の非力が情けなくなります。いずれにせよ、もう少しこの地の仏教伝来の歴史について調べなければ、と考えています。情報をお持ちの方はぜひご教授ください。

 


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