8月6日、8月9日、3月1日、3月11日―この日付にピンと来る人もいらっしゃると思います。そう、日本人が「被爆」「被曝」した日ですね。(被爆=原子力爆弾を受けた、被曝=放射線を浴びた、の意)。このうち、3月1日は最初、「何の日だっけ?」と首をかしげたのですが、静岡県民が忘れてはいけない日でした!
私の古いライター仲間で、今は焼津市議会議員として活躍中の秋山博子(こちらを参照)さんから、『焼津流・平和の作り方2015~市民のビキニデー』というイベント情報をいただき、3月7日(土)に開かれた博子さんの講演会「平和都市焼津とビキニ事件」&映画『ホピの予言』鑑賞会に行ってきました。
秋山博子さんは焼津市北浜通りの生まれ。お父様は漁師、弟さんは以前、両替町で「たべものや」という刺身の美味しい居酒屋を経営し、私もずいぶんお世話になりました(弟さん、今は船乗りになっているそうです)。ビキニ事件に関わるようになったのは、2001年静岡新聞社発行の『ぐるぐるマップ焼津版』の制作。この年に開催された全国豊かな海づくり大会の連動企画で、焼津の町の魅力や歴史をたっぷり紹介した特集号です(私も『界隈探検~永遠のふるさとのかたち』というコーナーを執筆させていただきました)。焼津漁業の取材を担当した博子さん、文中でビキニ事件にふれることはなかったものの、この事件の本質を追究するきっかけになったそうです。
1954年3月1日、焼津港所属の第五福竜丸が太平洋ビキニ環礁(現地時間2月28日)で行なわれたアメリカの水爆実験『キャッスル作戦』に巻き込まれ、“死の灰”を浴びました。広島・長崎の悲劇からわずか10年後のこと。ちなみに1945年の広島・長崎の原爆投下も『キャッスル作戦』といい、1946年には『クロスロード作戦』といってビキニ環礁と、ビキニの西305キロのエニウェトク環礁で核実験が、1948年には『サンドストーン作戦』がエニウェトクで、51年には『グリーンハウス作戦』がエニウェトクで、52年も同地で『アイビー作戦』、そして54年ビキニでの『キャッスル作戦』。広島・長崎から第五福竜丸まで10年間、膨大な数の核実験が行なわれていたのです。
第五福竜丸は1954年3月1日に被曝した後、2週間かけて3月14日に焼津に帰港したわけですが、もし帰還途中にこの船に何かが起きて帰港できなかったら、被曝の悲劇は闇に葬られたかもしれません。実際、第五福竜丸は米軍の撃墜を怖れてSOSを発せず、他の遠洋漁業船と同じように帰港したとか。乗組員23名は急性放射能症と診断、積荷のマグロからは強い放射線量が検出されました。“汚染マグロ”の風評被害は3・11福島と同様、漁業界に深刻な打撃を与えました。
焼津市議会では1954年年3月17日に「第五福竜丸被害対策特別委員会」を設置し、3月27日に国連に「原子力を兵器として使用することの禁止」を提出。多くの乗組員の出身地・吉永村で署名運動が始まり、8月、「原水爆禁止署名運動全国協議会」が設立されました。9月、無線長の久保山愛吉さんが亡くなると、反核運動が一層強まり、反核=反米につながることを怖れた日米政府は補償金200万ドルで“手打ち”。アメリカ政府は、久保山さんの死因は放射線障害ではなく肝機能障害だとして「賠償金ではなく見舞金」と言い張り、日本政府は戦後復興時期でアメリカからの経済支援や、原子力技術の平和的利用(=原発技術開発)をもくろんでいたため、と言われています。そうだとしたら、この事件は福島の悲劇に確かにつながっている。過去の延長に今があり、今の延長に未来がある〈エターナル・ナウ〉の哲学そのものですね・・・。
乗組員には一人200万円という当時としては破格の見舞金が送られたため、第五福竜丸と同時期に太平洋上でマグロ漁に従事し、“汚染マグロ”の風評被害に苦しむ他の漁業者からやっかみを受けます。他県では、事件を一切報道しない、という港町もあったそうです。
一方で、第五福竜丸事件を風化させてはならないという運動も始まりました。映画『ゴジラ』と『第五福竜丸』の製作がその代表格でしょうか。
『ゴジラ』は今さら説明する必要もないビッグムービーですね。プロデューサーの田中友幸氏は、もともと1954年4月からインドネシアとの合作映画の製作に入る予定だったのが、ピザが下りずに急遽断念。忸怩たる思いで帰りの飛行機に乗っていたとき、第五福竜丸事件をニュースで知って「ビキニ環礁に眠る怪獣が水爆実験で眼を覚まし、日本を襲う」というプロットを着想したそうです。また1959年に製作された『第五福竜丸』は新藤兼人氏がメガホンをとり、久保山愛吉役を宇野重吉さんが演じました。下の写真はイベント会場に展示された歴代ゴジラのフィギュアです。
第五福竜丸は67年廃船処分となって東京の夢の島に捨てられましたが、1969年にテレビや新聞で取り上げるなどメディア報道が奏功し、市民団体の間で保存運動が起き、1976年6月、都立第五福竜丸展示館が完成、保存されています。
秋山博子さんのお話で心を衝かれたのは、焼津市の“変容”でした。事件以来、反核運動を積極的に牽引していた市では、1985年に「核兵器の廃絶を願う焼津宣言」、1995年に「平和都市焼津宣言」を議決。2009年には焼津平和賞を創設し、第1回受賞者に都立第五福竜丸展示館を運営する公益財団第五福竜丸平和協会(こちら)、第2回は第五福竜丸事件の調査を通して平和を考える高知県の幡多高校生ゼミナール(こちら)、第3回は被曝者の追跡調査を行なった聞間元医師を中心とするビキニ水爆被災事件静岡県調査研究会(こちら)を選出しました。
2010年4月には市に平和都市推進室を設置し、5月、焼津市長がニューヨークで開催されたNPT(核拡散防止条約)の会合に出席。2011年には市長・議長・市民代表がビキニ環礁を有するマーシャル諸島を訪問し、広島長崎に中学生の平和大使を派遣する事業もスタートしました。8月6日・9日、3月11日と並んで、第五福竜丸が被曝した3月1日が、核問題を考える日本にとっての重要なメモリアルデーになる機運が、着実に醸成されたと思いましたが、市長が交代した2013年、平和都市推進室は廃止され、一介の「担当」に格下げに。焼津平和賞の制度もなくなり、今年2015年から新たに「焼津平和文化賞」が創設、対象は焼津市民に限った文化活動(音楽・演劇・絵画等)になるそうです。
なぜ焼津市の取り組みが後退したように見えるのか、市長の施政方針ひとつで変わってしまうものなのか、そういう市長を選んだのが焼津市民の総意なのか、これはかなり幅の広い、根の深い問題がありそうだ・・・ということだけは察せられます。
3月1日が重要なメモリアルデーであることすら知らなかった静岡市民の私が、勝手な憶測で書いてはいけないのかもしれませんが、福島いわきの取材経験から「被曝者を襲う風評被害の酷さ」を、政治家の広報に関わる経験から「大多数の有権者は、立候補者の表面的な情報でしか判断できない」ことを実感しているだけに、焼津でビキニ事件を真正面から大々的に語ることの難しさも、それとなく理解できるのです。3・11以降、東北から取り寄せた魚類燻製用木材から基準値以上の放射線が検出され、“汚染マグロ”の痛みを知っている関係者から「これ以上、核の問題には触れないでほしい」という声があったそう。その立場は十分に理解できるし、市民有志の「ビキニデーを風化させてはならない」という思いも尊い。それだけに、同じコピーライター出身ながら、口ばっかりの自分と違い、実際に行動に移し、矢面に立ちながらも真摯に活動する秋山博子さんの行動力には心から拍手を贈りたいと思います。
何も出来ない自分だけれど、間違いなく断言できるのは、被曝者が差別を受けるような社会であっては絶対にならない、ということです。この原則にのっとって、潔い言動のとれるリーダーを育て、選び、支援していくのが市民の務めではないかと思います。行政組織のみならず、経済団体、市民団体、教育団体等、地域を構成するあらゆる団体組織が、差別という負の意識を孕む歴史に真摯に向き合っていく。大変難しいことですが、それこそ被曝の歴史を共有する広島、長崎、福島の人々と学び合って得るものがあるような気もします。たぶんチェルノブイリの人々とも共有できるだろうし、地球上にはニュースとして取り上げられない核実験や原発事故の犠牲者がまだまだいるかもしれない。心あるリーダーが本腰を入れれば、必ず同志は見つかるはずです。ビキニ事件は、それほどまでに、焼津の未来を変える力があるのでは、と感じました。
私がこのイベントに参加した最大の目的、映画『ホピの予言』については、改めてじっくり報告します。なおイベントは3月15日まで開催中。こちらを参照してください。