杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

150年前のクールジャパン・立石斧次郎

2011-07-12 11:56:07 | 歴史

 先日のなでしこJAPANのW杯準々決勝ドイツ戦は、たまたま寝苦しさから早朝に目が覚めてテレビをながら観していたので、まさかの展開に一気に覚醒しました。・・・テレビを観て興奮&歓喜するなんて久しぶり。やっぱり日の丸を背負った若者が、世界と堂々と渡り合う姿を観るのは気持ちイイですね!

 

 

 私自身、いつも自分に足りなくて、欲しいなあ~と思うのは、異文化の中でも物怖じせず、意固地にならず、新しい環境に順応し、自分自身を素直に開放できる資質。海外で活躍する日本人には必須かもしれません。・・・こういう資質って、子どもの頃からいろんな異文化経験を積み重ね、養われるものなんでしょう。自分の年齢ではどうにもならないのかな(苦笑)。

 

 

 8日(金)夜、浮月楼で開かれたシズオカ文化クラブでは、幕末・万延元年(1860)の遣米使節団に参加した立石斧次郎のことを、直系子孫の長野和郎さんからうかがいました。今までよく知らなかったのですが、彼は10代で異文化コミュニケーションを体現したクールジャパンの先駆者で、シズオカ文化クラブ代表の石川たか子さん曰く「イチローよりモテたホントの侍」だったようです。

 石川さんはこの日のために、長野さんと共同で副読本を作ってくれましたので、これを参考に斧次郎の生涯を振り返ってみます。

 

 

 

 斧次郎は、使節団一行77人中、唯一の10代、わずか16歳で通訳の任を果たし、米国海軍士官から「トミー」というニックネームで可愛がられ、ワシントン~ニューヨークの市民にも大人気。「トミーポルカ」というテーマ曲まで創られたそうです(在米領事館のこちらのサイトで聴けます♪)。ちなみにトミーというのは、彼の幼名が「為八」で、使節団に同行した叔父の立石得十朗が彼を“タメ・タメ”と呼んでいたから。

 

 

 斧次郎は1843年、直参旗本の小花和度正(おばなわ・なりまさ)の次男として江戸小石川で生まれ、母の実家米田家に養子に入り、米田家で叔父にあたる立石得十朗が幕府の蘭語通詞だったことから語学に目覚めました。

 得十朗はペリー来航時に2等通詞として活躍した人物。ペリー横浜上陸時(1854)に当時の様子をスケッチしたウィリアム・ハイネの石版画に、斧次郎らしい少年が3等通詞の名村五郎八と一緒に描かれています。本人だとしたら、10~11歳で日米和親条約の現場に立ち会っていたわけですから、日本の歴史の中でも極めてスペシャルな異文化経験をした子ども、といえるのかな。

 

 彼は下田奉行に勤めることになった叔父に同行して下田に住み、ハリスやヒュースケンから直接、英語を学びます。14歳のとき、幕府が長崎に英語伝習所を開設したときは、長崎奉行所に勤める義兄を頼って伝習所に入学するも、すでにかなりの語学力だったため、生徒ではなく教授の助手を務めました。

 16歳のときには、幕府が横浜、長崎、箱館の3港の開港を決め、彼は神奈川運上所(横浜税関)の通詞見習に採用されます。福沢諭吉がのちに自伝で「長崎から来た子どもが英語を知っているというので、その子を呼んで習った・・・云々」と斧次郎のことを書いています。

 

 そんなこんなで、少年時代から語学に親しみ、外交や貿易の最前線で要人たちとも身近に接していた彼だけに、自然に“物怖じしない”“異なる環境に順応する”資質を身に着けたんでしょう。

 万延元年の遣米使節団には立石得十朗の養子として、無給通詞見習ながら随行を許されました。無給の見習いという軽い身分が幸いし、彼は持ち前の好奇心やら社交性を存分に発揮して、自由闊達に行動したようです。

 

 

 異文化コミュニケーションを研究する静岡県立大学の前坂俊之教授は「使節団は行く先々で熱狂的な歓迎を受ける。中でもトミーはアイドルだった。今風にいえばイケメンで、女性に優しく、数千通のラブレターが殺到。彼を讃える“トミーポルカ”という歌までできた」

「彼は米国人とすぐにうちとけ、英語で一つひとつ、なんというか聞いては書き付け、発音して習得した。他の日本人がしりごみする中、ただ一人、蒸気機関車で機関士の仕事をやってみたり、消防士に交じってホースで放水したりした。米国人女性とキスした最初の日本人もトミーである」と、日経新聞(2004年8月2日)で紹介しています。

 

 当時の現地トリビューン紙も「気立てが優しくアメリカ的なはしゃぎ屋の魂を持っている。新しい状況に適応する方法を知った若者で、大変な人気」と書いています。彼は、現地の一般紙に写真付きで載った初めての日本人になりました。

 

 

 使節団はニューヨークのブロードウエイを、ヤンキースの優勝パレードみたいに堂々と行進し、沿道に50万人が詰めかけました。熱狂的な歓迎の背景は、「当時のアメリカは歴史の浅い新興国で、ニューヨークもロンドンやパリから比べると地方の一都市にすぎず、東洋の小さな島国からとはいえ、外国政府の使節団を迎えたというのは一流国へのステップとして大きなインパクトがあった」との分析も。

・・・なにやら、約260年前、徳川家康が幕府を開いた直後に「外国の正式な使節団を迎えることで、徳川家が日本の領主であることを内外に知らしめる」意図もあって、朝鮮通信使を迎えたことを想起させます。

 

 

 トミーこと斧次郎のその後の半生は、まさに幕末維新の動乱の中で翻弄されます。彼は暗殺されたヒュースケンの代わりにハリスの御雇通詞となり、幕府の開成書(洋書調所)の教授となって福沢諭吉等と一緒に働きます。

 

 1865年、将軍家茂の第二次長州征伐に同行して大阪城に入り、この頃、兄重太郎とともに、アメリカ製ビールを酌み交わす湿版肖像写真を撮っています。

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 横浜の地ビールのラベルにもなったこの写真、当時の肖像写真といえば、クソ真面目な顔で微動だにせずにカメラに向かう武士たちがほとんどだと思いますが、こんな自然な表情で撮られているなんて、ビックリですね。キリンビールのサイトに関連記事がありましたのでご参照ください。

 

 

 

 1867年、23歳のとき、15代将軍慶喜と米国公使ファルケンバーグの内謁見で通訳を務め、ファルケンバーグは本国の国務長官宛てに「あの、トミーという人気者の青年が通訳を務めた。あれだけアメリカびいきをむき出しにした青年がこの重要な機会に出席したことは、日本の友好のあらわれではないかと受けとめた」と報告しています。・・・しかしこのときが徳川幕府最後の外交となってしまいました。

 

 

 戊辰戦争が勃発し、彼は大鳥圭介率いる旧幕軍に加わって土方歳三らとともにゲリラ戦を繰り返し、大桑の戦いで負傷し、武器商人ヘンリー・シュネルの手配で塩釜港から横浜経由で上海に渡ります。大鳥圭介のために新たに武器弾薬を調達し、旧幕軍の再起を図ろうとしたのですが、偶然にも、現地で幕府関係者に遭遇します。パリ万博に出席していた徳川昭武一行が大政奉還の報にあわてて帰国する途中だったのです。そこで渋沢栄一から「もはや時代は変わる」と諭され、再起を断念、明治元年末~2年初め頃に帰国し、(おたずね者になっていたため)先祖の姓にちなんだ「長野桂次郎」に改名します。

 

 

 その後、斧次郎は、他の欧米留学組が明治政府で要職に就いたのとは対照的に、工部省、北海道開拓使、ハワイ移民監督官、大阪控訴院の通訳官など、今のノンキャリアの地方公務員のような扱いで、出世もせず、西伊豆の戸田村で隠居生活を送って1917年に亡くなりました。結局、彼の極めて高い異文化コミュニケーション能力が時代に活かされることはなかったようです。

 

 万延元年遣米使節団は、渡米中に「桜田門外の変」が起きて、使節団の最高責任者だった小栗忠順の功績やトミーの人気ぶりを物語る資料が一切公開されませんでした。また明治4年の岩倉使節団に英語力を買われて随行したときは、西洋マナーに無知な官軍出身の政府要人たちから、気軽に女性に声をかけるトミーの行動が煙たがれたようです。“出る杭は打たれる”状態だったんですね・・・。

 

 

 それでも、トミー=立石斧次郎という一介の若者が、幕末明治の動乱期に自分の語学力と社交性を発揮し、志士たちとは異なる立ち位置で時代を駆け抜けた物語は、日本人の底力をまた一つ発見できたようで、爽快な気分で聴かせてもらいました。

 歴史教科書に出てくる人物やエピソードと深くつながっているし、映画かドラマになりそうな人物なのになぁ。・・・自分に歴史小説が書けるスキルがあれば、と切実に思います(苦笑)。

 


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
長野和郎さんからの情報で拝見し、トミーの記事を... (黙魚)
2011-11-13 19:27:32
次のページにもトミーのことが少し書かれています。
http://tozenzi.cside.com/tommy-beer

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黙魚さん、貴重な情報をありがとうございます。 (鈴木真弓)
2011-11-13 20:37:44
小栗家ゆかりのお寺さんなんですね。
それにしても、侍ビールがもう造られないなんて淋しいっすね。
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いま静岡放送で、トミーの番組を企画して、取材に... (黙魚)
2011-11-14 07:11:14
トミーの先祖は、あの「東下り」で知られた在原業平で、それが上州箕輪城主長野業政につながり、業政が武田氏に滅ぼされたあとその一族のトミーの先祖は高崎市郊外の小塙(こばなわ・現在はこばな)に住み、小花和氏を名乗り江戸時代に入って旗本に取り立てられています。小塙近くに現在も長野という土地があります。
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