杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

沼津と飯山の白隠熱

2017-09-16 17:34:38 | 白隠禅師

 今年は白隠禅師がお亡くなりになって250年の遠忌にあたるということで、全国各地で白隠さんの顕彰事業が開催されています。地元の沼津市立図書館では『白隠展2017inぬまづ』が9月21日(木)まで開催中。私も昨日(15日)、受付のお手伝いに行ってきました。

 図書館のパブリックスペースで誰でも無料で鑑賞できるとあって、図書館利用者や買い物帰りの市民の方がフラッと立ち寄ってこられました。「沼津市民として白隠さんのことを知らなきゃ恥ずかしいと思って」という方も多く、高齢の男性から「意味がわからんから解説してくりょ」と言われて四苦八苦しながら、芳澤先生の本や講座で聞きかじった乏しい知識をフル稼働。賛は読めてもどういう意図で描かれたのか素人には皆目わからず(すらすらわかったらお坊さんか学者先生になれますよね)、そのおじいちゃんと一緒に「どんな深い意味があるんでしょうねえ…」と頭をウニウニさせちゃいました(笑)。

 事情通と思われる白隠ファンの男性からは、展示品が誰の所蔵かと鋭く突っ込まれ、「個人が所蔵している白隠画はごまんとある。自分の家にも5枚ある。でもそれを(相続の関係で)公にしにくい事情がある。地元沼津で、個人蔵の白隠画が気軽に展示できる場所や機会がないものか」と真摯な意見をいただきました。

「自分もそうだが、沼津では寺も市民も“わたしの白隠さん”という思いが強い。思いが強すぎて軋轢を生むこともある」と男性。研究者がロジカルに解析・分析する世界とは違う、白隠さんを身近に感じて暮らしてきた地域の人々のマインド(こころ)の世界の話、ですね。現代人にもそれほどまでに影響力を残す白隠さんってやっぱりすごい存在感です。

 私のように外から入り、まずロジカルに理解しようとしている人間も、“わたしの白隠さん”に誇りを持つ地元の人々と、同化はできなくてもマインドを尊重し、誠実に寄り添わねば、当然、軋轢は生まれるでしょう。白隠さんに限らず、私が関わる酒の世界でも、愛好者同士で「マインド」と「ロジカル」がぶつかることは多々あり、知識があってもひけらかさず、どんな相手とも心地よく酔っぱらうことができるバランス感覚って大事だなあとつくづく思います。

 沼津には白隠さんと直接接点を持たない市民、ロジカルな理解を必要とする市民も大勢います。「マインド」と「ロジカル」それぞれ得意な人たちが相互に補完し合えるようになれば理想的でしょう。取材を生業にしている自分に出来ることといえば、地元の人々が知らない国内外の白隠さんの偉大な足跡を丁寧に紹介することくらいかな。その上で沼津の人々と「だから白隠さんって素晴らしいんですね」と共に顕彰しあえる環境を作れたら、と願います。

 

 そんなこんなで、沼津展が始まる直前の9月10日、長野県飯山市の飯山市美術館で開催された『この人なくして白隠なしー正受老人と白隠禅師』の最終日にギリギリ間に合い、念願の正受庵を訪問しました。

 

 

  正受老人(1642~1721)は、白隠さんが24歳のときに師事した信州の高僧です。父は、真田幸村の兄にして松代初代藩主真田信之。大河ドラマ『真田丸』では大泉洋さんが演じ、正妻稲姫(吉田羊さん)に頭の上がらない恐妻家として描かれましたね。稲姫が亡くなった後、側室を迎えてもうけた子で、飯山城内で生まれ、城中で真田家の血を引く武士として厳しく育てられましたが、13歳のときに出合った禅僧に「貴方の身体には観世音菩薩がいる」と言われ、仏門を志すことに。藩主の参勤交代に同行して江戸入りし、江戸の至道庵で出家して25歳のときに飯山へ戻りました。

 かの徳川光圀公から「水戸へ来てくれ」とスカウトされたこともあったそうですが、初代飯山藩主松平忠俱が正受庵を建てて実母・李雪と暮らせるようにし、80歳で亡くなるまでこの地でひたすら禅道に生きました。ちなみに松平忠俱は遠州掛川藩主から飯山藩主に移封された人物です。

 正受庵(長野県史跡)は、江戸の至道庵、犬山の輝東庵とともに“日本三大庵”に数えられる素朴で美しい草庵。映画「阿弥陀堂だより」のロケにも使われたそうです。真田家の六文銭マークがさい銭箱にしっかり刻印されていました。

 

 白隠さんは24歳のとき、正受庵を訪ねます。訪問前、越後高田の英厳寺で早朝、坐禅中に遠くの寺の鐘の音を聞いて突然大悟を得て、「雲霧を開いて旭日を見るがごとし」の心境となり、正受庵を訪ねるときには「300年来、俺ほど痛快に悟った者はいないだろう」と自信満々だったそう。その天狗面に“大喝”を食らわせたのが正受老人で、「ど盲坊主め」とか「あぶないあぶない、子どもが井戸をのぞいているようだ」とかコテンコテンに罵倒します。

 ある時、真剣問答に挑もうと近づいた白隠さんの気配を察した正受老人は、白隠さんがひと言発する前に三十棒を打ち食らわせ、石段から突き落としたそうな。泥まみれで起き上がることもできない白隠さんの天狗の鼻っ柱は見事にくじかれ、8か月間、正受庵でみっちり修行しました。正受老人のスパルタ教育によって性根を入れ替えた白隠さんは坐禅にますます没頭し、とうとう禅病(うつ病)を患い、京都の仙人白幽子に内観の秘法(道教の教えをベースにした瞑想・イメージトレーニング)を授かって気力を取り戻し、真の悟りを得た。白隠さんにとってまさに「この人なくして・・・」という存在だったのですね。

 

 飯山市美術館の展覧会は、出品点数40点あまりと、さほど多くはありませんが、長野県内の寺院が所蔵する白隠書画の傑作がズラリ並びました。持ち帰り自由の正受老人の解説資料も充実。売店コーナーでは正受庵所蔵の白隠さんの『おふじさんの初夢』が紙本となって売られていました。1部1000円。額に入れて飾れば、立派な“わたしの白隠さん”です。

 

 正受老人は山奥の草庵で、実母と二人、ひっそりと仏法に生きた人。白隠さんのように鼻っ柱の強い修行僧や剣豪がたびたび訪れては挑戦しかけるも、あるときは団扇1本で竹刀をはらうなどさすが真田家の血を引いた御仁、ただならぬ雰囲気をお持ちだったのでしょう。一方、白隠さんは東海道の宿場町の問屋で生まれ、ガヤガヤと人が行き交う街道の寺にあって多くの衆生に伝道し続けた。膨大な書画や書物が残っているのも、「動中工夫勝静中」をまさに地で生きたからですね。

 お二人を比べると、生まれ育った環境というものが禅僧としての生き方に少なからず影響を与えていることが、なんとなくわかります。

 白隠さんの顕彰の仕方も、沼津と飯山ではやはり違う。当然だろうと思います。私がこれまで訪ねた京都、宮城、広島福山、美濃とも違う。自分のこれからの視座は、白隠さんを通してそれぞれの地域がどういう地域社会だったのか、白隠さんが生きた時代の日本がどうだったのか、そこから現代の我々が読み取れるものがあれば探っていきたい・・・そんなふうに思います。

 

 間際のご案内で恐縮ですが、白隠展2017 in ぬまづ開催中の9月18日(月・祝)には、13時30分から芳澤勝弘先生の記念セミナーがあります。沼津市立図書館4階視聴覚ホールにて。事前申し込み不要・入場無料です。

 10月1日には、駿河茶禅の会を通して親しくさせていただいているSPAC(静岡県舞台芸術センター)俳優の奥野晃士さんが、清水の但沼・東壽院で「白隠演談とトークの夕べ」を開催されます。郷土の歴史を題材にした動読(演技や音楽を付けた朗読)パフォーマンスで活躍中の奥野さんから、いよいよ白隠さんを取り上げるとうかがい、出来る限りのアドバイスもさせていただきました。白隠さんのことをよく知らない人にとってはこの上ない学びの機会になりますし、奥野さんは今後も白隠さんとご縁のある寺院で動読活動を広げていきたいとおっしゃっていますので、ぜひ協力していただければと思います。

 10月1日白隠演談はこちらへメールでお問い合わせを。街援隊アートムーブ gaientai.am@gmail.com

 奥野さんの活動はブログ(こちら)をご参照ください。


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