杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

しずおか地酒研究会20周年アニバーサリー「藤田千恵子さんと行く奈良京都酒造聖地巡礼」その1

2016-08-05 14:28:57 | しずおか地酒研究会

 7月31日~8月1日、しずおか地酒研究会の設立20周年特別企画として、日本酒ライターの大先輩で敬愛する酒食エッセイスト藤田千恵子さんと、奈良京都に点在する日本酒ゆかりの聖地を巡礼するツアーを催行しました。

 地酒研に藤田さんをお招きしたのは、2003年に東伊豆稲取での宿泊サロン以来。このときは観光地のホスピタリティや地酒の扱われ方について、静岡県の蔵元4人と藤田さんでトークバトルしていただきました(こちらこちらに記録してあります)。今年のお正月、20周年アニバーサリー企画として過去20年間に開催した好評企画にリトライしようと考えていたとき、藤田さんに真っ先に連絡をし、快くご協力いただき、実現できたのです。


 今回廻った聖地は、酒林(酒蔵の軒に吊るす杉玉)発祥の大神神社(奈良県桜井市三輪)、日本清酒(菩提もと)発祥の正暦寺(奈良市)、酒の神様松尾大社(京都市)の3か所。昨年上梓した『杯が満ちるまで』で酒造の起源について執筆したのがきっかけで、大神神社の分社である岡部の神神社を信仰する「初亀」の橋本謹嗣社長、菩提もと再現に取り組む「杉錦」の杉井均乃介社長に同行をお願いしたところ、お2人も快く参加してくださいました。

 行先はこれに加えて、藤田さんが懇意にされる久保本家酒造(奈良県宇陀市)、精進料理をいただいた酬恩庵一休寺(京都府田辺市)、イオンモールKYOTOに新規オープンしたオール純米酒の酒販店「浅野日本酒店」、最後は私が懇意にしている京町家「亀甲屋」でフィニッシュと、1泊2日のドライブ旅行にしてはかなりタイトなスケジュール。もともと20周年アニバーサリー企画を陰日向でサポートしてくれた会員と、車に乗れるだけの人数でこじんまり行くつもりでしたが、藤田さんの酒友を含めた計13名でのにぎやかな珍道中となりました。


 7月31日(日)は車2台で静岡を朝8時に出発。昼過ぎに奈良大宇陀の久保本家酒造に到着しました。旧伊勢街道一帯に広がる城下町として戦国時代から発展し、今も歴史的街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている宇陀松山。その一角にある同蔵も、街並みを象徴するように、切妻造りの桟瓦葺(さんかわらぶき)、白漆喰の外壁に囲まれた堂々たる伝統家屋です。

 敷地内には昨年7月に「酒蔵カフェ」がオープン。水曜日から日曜日(午前11時〜午後4時)の営業で、3種の利き酒セット、酒粕を使ったスイーツ、糀(こうじ)ドリンク、仕込水コーヒーなどが楽しめます。3月に下見にうかがったときは平日午後の訪問で、利き酒セットを頼みましたが、土日にはランチ営業もしているということで、今回は到着後さっそくランチをいただきました。

 ランチは酒蔵らしい発酵食メニューがいっぱい。これで1200円はコスパ高!と全員大喜びでした。

 

 

 食事後は蔵元久保順平さんの案内で仕込み蔵の見学です。久保本家酒造といえば「初霞」「生もとのどぶ」で知られ、南部杜氏の加藤克則さんは生もと造りの名手として注目の人ですが、この時期は当然ながら蔵にはいらっしゃいません。久保さんは「僕なんかの説明ですみません」と恐縮しながら1階の釜場や仕込みタンク、2階の麹室や酒母室を丁寧にご案内くださいました。ちなみに久保さんは加藤さんを杜氏に雇用する前の数年間、ご自身で杜氏を務めた経験もおありです。

 酒蔵の環境や宇陀松山の土地柄についての解説では、さりげなく「万葉集の●●に詠われた」とか「大化の改新のころ」なんてフレーズが出てくる。日本広しといえども大化の改新を語る酒蔵なんて奈良の蔵しかないだろう~とみんなで唸ってしまいました(笑)。

 夏場、杜氏や蔵人不在で、“物置状態”になった蔵をいくつか見たことがありますが、不在中とは思えないほどピカピカで整理整頓が行き届いていました。酒母室の広さと清潔さは、この蔵が酒母造りをいかに重視しているかを体現しているよう。同じく生もとや菩提もと造りを手掛ける杉錦の杉井均乃介社長が、かなり突っ込んだ質問をされていましたが、同業他社の人にも過度なガードを張らず、技術をディスクローズするのが酒造業者のいいところ。逆に言えば、同じ道具・同じ手法で造っても同じ酒にならない酒造業の奥深さを、同業者同士の対話からもどことなく感じました。

 

 

 

 いただいた資料によると、久保本家酒造は元禄15年(1702)の創業。吉野から転居した初代久保官兵衛が「新屋(あたらしや)」という屋号で造り酒屋を始め、この地が交通の要所ということもあって手堅い商売をされていたようです。幕末期、6代目伊兵衛氏の2人の弟は吉田松陰、緒方洪庵、林豹吉郎、福沢諭吉等と親交があり、明治以降は洪庵から譲り受けた天然痘ワクチンを使って地域医療に従事したそうです。

 酒造業は8代目伊一郎氏の時代に大いに発展し、灘(兵庫県)に進出したり、県内初の乗り合いバスの松山自動車商会(現・奈良交通)や銀行(現・南都銀行)を創業。伊一郎氏は衆議院議員を4期務めた実力者で久保家も隆盛を極めたそうです。氏が急逝したとき後継の9代目順一氏はまだ19歳。バス、銀行事業は親戚に譲り、灘の酒蔵も手放し、本家での酒造業に専念するも戦争の時代に入って厳しい経営を余儀なくされます。戦後はいち早く製造復活をはたし、地域に初めて信号機を寄付したり万葉集の歌碑を建立するなど地域貢献に尽力。禅宗を信条にされていた順一氏は、大徳寺長老の立花大亀老師を自宅に招き、知人を集めて毎月禅講義を開催されたそうです。

 

 我々を迎えてくださった久保順平さんは1961年生まれの11代目。10代の頃は祖父の順一氏、父・伊一氏に反発し、大学卒業後は大和銀行(現・りそな銀行)に入行し、ロンドン勤務も経験されたそうです。しかし海外に出て初めて、家業や地域の得難い価値に気づき、1994年に退職してUターン。家業は曾祖父の8代目伊一郎氏の時代をピークに曲がり角に差し掛かり、灘に桶売りをしていた状況でしたが、静岡県の酒蔵が吟醸酒で“自立”の道を切り開いたように、久保さんも地酒蔵の強みを模索し、酒造りの同志を求めて全国を回って、生もと造りの技術を持つ南部杜氏の加藤克則さんと出合います。

  加藤杜氏と二人三脚で新たに確立した「初霞」「睡龍」「生もとのどぶ」は大きな評判を集め、今では生もと造りの銘醸として知られるようになりました。
 



 こちらは2008年、ウォールストリートジャーナルに掲載されたSAKEの特集記事。私が撮影した青島酒造の写真が掲載されたことは、こちらのブログでも紹介済みですが、偶然にも同じ紙面に久保本家酒造が掲載されていたことに気が付いてビックリ。「喜久醉」青島酒造の蔵元杜氏・青島孝さんも久保さん同様、家業継承を嫌って金融の世界に進み、海外で仕事をし、そこで改めて日本の地に足の着いたモノづくりの価値や自身のアイデンティティを見つめ直した人。不思議なご縁を感じます。


 蔵見学の後は、宇陀松山の歴史的街並みを散策し、16時に出発。約30分で宿泊地の桜井市三輪・大神神社門前旅館「大正楼」へ到着しました。夕食時には持ち込ませていただいた静岡の酒をたっぷり味わい、夜は大正楼の前から宿の浴衣のまんま、大神神社おんぱら祭り花火大会を見物しました。私にとってはこの夏初めての花火。なおかつ大好きな酒友たちと旅先で、ほろ酔い気分で見上げる夜空の大輪と打ち上げの音は、いっそう心に沁み渡りました。(つづく)




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