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花見の起原(出鱈目なサ神信仰説)

2017-07-22 09:59:50 | 年中行事・節気・暦

 愛ずべき花は桜に限ったわけではないのに、日本で「花見」と言えば、桜の花見と決まっている。それだけ桜には思い入れが深く、日本の国花となるのも納得できよう。個人的な趣味による花見ではなく、風習・文化としての花見の起原について調べてみると、ネット情報では必ずと言ってよい程、「サ神信仰」という壁に突き当たる。日本では原始時代以来「サ」と呼ばれる神が信仰されていて、桜はそのサ神が宿る神聖な樹木であるというのである。この桜が神と密接な関係を持っているという説は柳田国男に始まり、その弟子の早川孝太郎・和歌森太郎・折口信夫、またその弟子の桜井満らによって整えられ、西岡秀雄著『なぜ日本人は桜の下で酒を飲みたくなるのか』という本によって一気に拡散された。
 柳田国男は、「私の一つの仮定は、神霊が樹に依ること、大空を行くものが地上に降り来らんとするには、特に枝の垂れたる樹を選ぶであろうと想像するのが、もとは普通であったかといふことである」と述べているが、正直に「仮定・想像」であることを認めている。(『柳田国男全集』二十二、「信濃桜の話」)。折口信夫は、「桜は・・・・一年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、桜の花でも早く散つてくれるのを迷惑とした。桜を植えるのは観賞ではなく実用的な占いのためであり、花が早く散ると前兆が悪いものとして、花が散るのを惜しんだ」と述べ、(『折口信夫全集』二「花の話」)、桜を「物の前触れ」と理解した。遠くから花の咲き方を見て稲の稔りを占うからであるという。
 桜井満はその著書『花の民俗学』で次のように言う。「サクラという名は穀神の宿る木をあらわしている。稲を植える月をサツキ(五月)といい、田植えに必要な雨はサミダレ、田に植える苗はサナエ、植える女性はサオトメという。そうして田植えの終わりをサノボリといって田の神の祭りをする。こうしたことばが明らかなように、サというのは稲の霊の名である。クラは神座(かみくら)のことである。その花は稲の霊の現われとみられたのだ。冬ごもりの生活から春を迎えて、山のサクラの咲きぐあいを見て秋の稔(みの)りを占い、その花に稲の霊を迎えてきてまつり、田植えをするのであった。サクラの花の咲きぐあいは一大関心事だったから『花見』の民俗が伝わるのである」、と。まことに見事な仮説である。
 和歌森太郎は、その著書『花と日本人』で次のように言う。「民俗学では、サツキ(五月)のサ、サナエ(早苗)のサ、サオトメ(早乙女)のサはすべて稲田の神霊を指すと解されている。田植えじまいに行う行事が、サアガリ、サノボリ、訛ってサナブリといわれるのも、田の神が田から山にあがり昇天する祭りとしての行事だからと考えられる。田植えは、農事である以上に、サの神の祭りを中心にした神事なのであった。そうした、田植え月である五月にきわだってあらわれるサという言葉がサクラのサと通じるのではないかとも思う。・・・・桜は、農民にとって、いや古代の日本人のすべてにとって、もともとは稲穀の神霊の依る花とされたのかもしれない。」、と。確かに五月の農事に関係して「サ」という接頭語がたくさんあることは事実であり、また不思議なことでもある。しかしそれがなぜ一気に季節が大幅にずれるサクラに飛躍するのか、何一つ根拠が示されていない。和歌森太郎は「サという言葉がサクラのサと通じるのではないかとも思う。・・・・稲穀の神霊の依る花とされたのかもしれない。」というだけであって、閃きに過ぎないことを自ら認めているではないか。
 これらの民俗学者は、誰一人として具体的でかつ批判に耐えうる古代の文献史料を提示していない。古代の花見といえども立派に歴史の一部なのであるから、確実な根拠の裏付けが必用なのであるが、まるでその必要性を認めないかのように自説を展開しているのである。これでは後学の者は再検証をすることもできず、師説としてありがたく頂戴するほかはなくなってしまう。そしてこれらの論説を読んだ人は、本人が仮定や想像であると認めているにもかかわらず、伝言ゲームのように、最後の「思う」は無視して断定的な説として受け取り、拡散してゆくのである。  
 「サ神説」を提唱したのは民俗学者の早川孝太郎で、昭和十七年の頃という。その「サ神説」をさらに発展させた西岡秀雄著『なぜ日本人は桜の下で酒を飲みたくなるのか』やそれに賛同するネット情報には、サ神信仰についてさらに尾鰭が付けられ、およそ次のようなことが語られている。『古事記』『日本書紀』に記されている神々とは別に、それより古くから「サ神信仰」というものがあった。国名のサガミ・サヌキ・サド・サツマ・トサ・カズサ・シモフサ・ワカサなどはその名残である。「サカキ」・「サケ」・「サクラ」・「サツキ」・「サナエ」・「サオトメ」の「サ」は全て稲の神霊を指すものである。「シャガム」という言葉は、サオガム(サ拝む)からシャオガム、さらにシャガムと変化し、サ神を礼拝する姿勢から生まれた言葉である。福島・新潟・山形県あたりで林業で生活する人々が、今でも山の神を「サガミ様」と呼んでいる。サ神は田の神・稲の神・穀霊であり、田植えの頃里に山から降りて来て、サクラの木に宿り、耕作が終わると山へ帰る。サクラは稲の神を迎える依代(よりしろ)、つまり穀霊の籠もる花として、農耕生活において重要な花と理解されていた。田植とほぼ同じ時期に咲くサクラのサはそのサ神のことであり、クラは神座の意味で、サクラとはサ神のよるサクラ(サ座)という意味である。桜の花が早く散ると、神の力が衰えて凶作になるので、農民はサクラの花の下で酒宴を催し、歌や舞でサ神をもてなして桜が散らないよう神に祈る。これが花見の起源である。花見はそのような神事であった。このような信仰が受け継がれ、日本人は「花」と言えば無条件で桜を連想し、いまだに花見を楽しんでいる、というのである。
 しかし近世から現代の民俗的伝承や事象を奈良時代以前に無批判にそのまま当てはめて、『古事記』『日本書紀』以前の時代に「サ神信仰」が存在したことの根拠とすることは、研究の方法としてはあまりに乱暴である。中には縄文時代まで遡らせている記述もあり、こうなるともう信仰の世界である。民俗学的伝承の決定的欠点は、どこまで遡れるのか検証の方法がないということである。林業従事者の中には、山の神を「サガミ様」と呼んでいる人がいるというが、それが古代にまで遡り、また稲の神霊であるということを証明するなど不可能である。そもそも昔の田植えは旧暦の五月、つまり現在の六月であって、桜の咲く時期より一~二カ月も遅い。常識で考えてもわかりそうなものだ。現代の民俗学者でさえ、サ神信仰や折口・和歌森達が提唱したことは証左となることに乏しく、検証のしようがないことを率直に認めている。それにもかかわらずネット情報の筆者達は、まことしやかにまるで見てきたかのように、サ神信仰と桜の関係を得々として語るのである。百歩譲って、原始時代にサ神信仰があったとしよう。しかしそれなら千数百年間、どこかに何かの形でその片鱗が文字史料として残っていてもよいではないか。それが何一つ残っていないのである。「サ神信者」の反論を聞いてみたいものである。
 『万葉集』には約四十首の桜を詠み込んだ歌がある。作者は桜のつもりでただ単に「花」と詠んでいるものも含めば、もっと多くなるであろう。それらを含めて桜や花を詠んだ歌を全て丁寧に読んでみたが、サ神信仰や稲の稔りを占うような歌は一首もない。それどころか桜を霞に見立てたり、花の一枝を髪に挿して喜んだり、恋しい女性に見立てたり、散ることを惜しんだり、現代人が桜に対して懐いていることと同じ気持ちで花を楽しんでる。花見の起原を探るというなら、まずは素直に『万葉集』の桜の歌を読むべきである。もうそろそろ「サ神」の呪縛から覚醒してもよい頃であろう。
 平安貴族の花見の宴について、和歌森太郎はその著『花と日本人』において、「(貴族達は)地方民間で農事的宗教儀礼として行われていたものを、自分たちなりに洗練させ、優雅なうちにも、相互の睦みを深める機会として、華の宴を催すように受けとめた・・・・」と述べている。(第三章 農事から貴族の宴へ)。しかし貴族の花の宴は農民の宗教儀礼に倣ったわけではない。むしろその逆方向である。奈良時代に梅の花を愛でる宴が唐から大宰府に伝えられたことは、『万葉集』に大宰府の官人達の観梅の歌が集中していることからも証明できる。それが後に日本人の花の好みが梅から桜に替わっただけのことである。また庶民の歌も多く含まれる『万葉集』に、庶民が宗教的儀礼として花見をしていたことを示す歌もない。


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