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牡丹餅とお萩は違うものなの?(子供のための年中行事解説)

2021-09-08 16:42:44 | 年中行事・節気・暦
牡丹餅とお萩は違うものなの?
 春と秋の彼岸には、牡丹餅(ぼたもち)やお萩を食べるという風習があります。江戸時代の初期には、彼岸には「茶の子」と称して茶菓でもてなす風習があったことを確認できますから、その風習が変化したものかもしれません。最近ではお盆に食べることもあるようです。同じようなものにも見えるのですが、名前が異なることには何かわけでもあるのでしょうか。食物事典や伝統的年中行事の解説書などにはほぼ例外なく、「春の彼岸の頃に咲く牡丹の花に似ているから牡丹餅、秋の彼岸の頃に咲く萩の花に似ているからお萩と呼ぶ」と説明されています。中にはさらに詳しく、春は牡丹餅、夏は夜船、秋はお萩、冬は北窓と、四季それぞれに呼び名が異なっていたという解説もあります。また秋は粒餡(つぶあん)のお萩、春は漉餡(こしあん)の牡丹餅という説、大きいのが牡丹餅、小さいのがお萩という説もあります。その他にも地方によって様々な呼称とその理由があり、何が本当なのかすっかりわからなくなっています。いったい本当はどうなっていたのでしょうか。
 まず萩は秋の彼岸の頃に咲くからよいとしても、牡丹は新暦では4月の末から5月にかけて咲く花で、春の彼岸の頃の3月下旬には絶対に咲きません。江戸時代の歳時記には、牡丹は一つの例外もなしに夏の花として記されていますから、江戸時代に牡丹の開花期によって「牡丹餅」と呼ばれたという説明は成り立ちません。また現在は春秋の彼岸に食べるものと理解されていますが、そもそも江戸時代には、彼岸に牡丹餅やお萩を食べるようになるのは江戸時代も終わりの頃で、それ以前には彼岸に食べる風習はありませんでした。
 牡丹餅とお萩について記された文献史料は数え切れない程あるのですが、それらを片端から読んでみると、九分九厘の文献史料で季節による名前の使い分けはなく、春も秋も牡丹餅ばかりです。江戸時代の庶民文芸である川柳には、数え切れない程多くの牡丹餅が詠まれているのですが、秋でも冬でも全て「牡丹餅」となっていて、「お萩」は見当たりません。まして「夜舟」「北窓」などは存在すらしません。また大皿にたくさん盛り付けた様子が、大きな花びらが重なって咲いている牡丹の花に似ているので牡丹餅というという記述もあります。
 それなら「お萩」という名前はあったのでしょうか。もともとは「お萩」は「萩の餅」と呼ばれていました。江戸時代の初期にイエズス会のポルトガル人宣教師が編纂した『日葡辞書』(日本語・ポルトガル語辞書)には「Faguino Fana」(萩の花)として載せられています。また小豆の粒の残る餡をまぶした様子が、萩の花に似ているからであると、はっきり記述されている史料がいくつもあります。つまり「萩の餅」という名前は、本来は季節には関係なく、見た目による名前だったのです。これは公家などの上流階級で、プライドの高い人達が使う言葉とされていました。公家は「牡丹餅」という名前は下品であるとして絶対に食べることはなく、実際には同じものであるのに「萩の餅」という名前なら食べていたのです。一般庶民の間でも、「牡丹餅」は下品であるので、客人には恥ずかしくて御馳走することができないという記述もあります。また『女大学』という女性のための教育書には、「お萩」という名前は「萩の餅」の女言葉であると記されているのですが、これは欠き餅を女性が「おかき」と呼んだのと同じことです。また餡については、秋は粒餡、春は漉し餡と使い分けているとか、大きさによって名前が異なるとする文献史料の存在は確認できていません。
 一方、「春は牡丹餅、秋はお萩」と説いている書物が全くないわけではありません。しかし極めて少なく、それが人々に共通して受け容れられていたとはとても言うことができないほど、例外的なものです。『和訓栞(わくんのしおり)』(1777~1877年)という江戸時代後期から明治時代にかけて出版された国語辞典には、次のように記されています。それによれば、ある公家が戯れに、「牡丹餅は春の名、夜船は夏の名、萩の餅は秋の名、北窓は冬の名という。夜船と言うのは、着くのがわからないから。北窓と言うのは、月の光が差し込まないからである。貧しい者は隣知らずと言った」と記されています。夜舟と言うのは、乗客は眠っていて目的地に着いたのがわからないので、舟が「着く」と餅米を「搗く」(つく)を、北窓は月の光が差し込まないので、「月入らず」と「搗き要らず」(つきいらず)を掛けているわけです。牡丹餅(お萩)は蒸した餅米を少し搗くだけで、米粒の形が残っています。それであまり搗かないことを「着く」や「月」に掛けて、「着いたことがわからない夜舟」、「月の光が入らない北の窓」と洒落ているわけです。知識人が戯れに言葉遊びとして紹介したという設定なのですが、これは逆に四季による使い分けが普及していなかったことを逆に証明しているようなものです。誰もが知らないことだからこそ、蘊蓄(うんちく)を傾け得意顔で解説するからです。誰もが知っていたら、わざわざそのような話をするわけがないではありませんか。
 おなじような話は、『軽口機嫌嚢(かるくちきげんぶくろ)』(1728年)という笑話集にものせられているのですが、物知りの客が牡丹餅を振る舞われた際に、「皆さんはご存知ないようなので、教えてさしあげよう」とばかりに、自慢げに語ったという設定となっています。つまりこれも言葉遊びに過ぎないのであって、広くそのように呼ばれてはいなかったことを示しています。
 明治時代の文献史料では、『東京風俗志』(1901年)には、春の彼岸には「萩の餅」、『東京年中行事』(1911年)には、春の彼岸には「牡丹餅」、秋の彼岸には「萩の餅」を食べるという記述があります。また同書には「餅の名や秋の彼岸は萩にこそ」という俳句が収録されていますから、明治時代に季節による使い分けが始まった可能性があります。
 それならなぜ牡丹餅は賤しい食べ物とされていたのでしょう。実は江戸時代の「ぼた」という言葉は、女性の容姿をあざける差別用語だったのです。これは江戸時代の国語事典にはっきりと記され、そのような意味で「ぼた餅」が詠まれている川柳がたくさんあります。「ぼたもちとぬかしたと下女憤り」「ぼたもちのくせに黄粉をたんとつけ」という川柳の意味は、説明しなくても理解できるでしょう。ところがたまたまなのですが、「ぼた」という言葉は「萩」のことも意味する同音異義語でもあるのです。そこで花の名前による「萩の餅」になぞらえて、「ぼた餅」の「ぼた」に「牡丹」の字を当てはめ、露骨な差別用語であることを隠しているわけです。しかし隠したところでもともとは女性に対する差別用語であることは誰でも知っていますから、「牡丹餅」という名前では上品な客人には恥ずかしくて御馳走できなかったり、上流階級であるというプライドのある人は、「萩の餅」という名前にこだわっていたわけです。このことは『俚言集覧(りげんしゆうらん)』という江戸時代の口語辞典にもはっきりと記されています。
 餡の違いについては、秋の小豆は乾燥しきっていないため、粒餡(つぶあん)でも皮が気にならないのですが、年を越した春の小豆では漉餡(こしあん)の方が舌触りがよいため、秋は粒餡で、春は漉し餡で作ると説明されることがあります。しかしこれは現代の菓子職人がより美味しいものを追求した結果なのであって、江戸時代にはその様な使い分けに言及した文献史料はありません。むしろ萩の花に似ているというのですから、粒餡が普通であったと考えられます。
 長くなりましたが、要するに「春は牡丹餅、秋はお萩」という呼び方は、せいぜい明治時代末期以後のものであり、本来は季節による使い分けはなく、主に上流階級が「萩の餅」、庶民は「牡丹餅」、女性は「お萩」と呼んでいました。ですから春は牡丹餅、秋はお萩と名前を使い分けていたとか、大きさや餡の種類により名前が異なっていたという解説は、歴史的には全て誤りなのです。
 それなら現在は何と呼べばよいのでしょう。「ぼた」が差別用語であると理解する人はいませんから、個人の自由でよいと思います。私は江戸時代以前から「萩の餅」という名前が使われていましたから、その様に呼んでいます。もし「春は牡丹餅、秋はお萩が正しい」と言われたら、「実は歴史的にはね・・・・」と説明してみるのも面白いと思います。ここでお話したことには、確かな文献史料の裏付けがありますから、安心して信じて下さい。


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