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春分・秋分の日にはどうしてお墓参りをするの?(子供のための年中行事解説)

2021-09-18 08:38:26 | 年中行事・節気・暦
春分・秋分の日にはどうしてお墓参りをするの?
 春分・秋分の「分」は「等しい」という意味で、昼と夜の長さが同じことを意味しています。またこの日には太陽は真東から上り、真西に沈みます。しかしなぜそのような日に墓参りをする風習があるのでしょう。
 春分・秋分の日は「彼岸」(ひがん)とも呼ばれます。もう少し正確には、彼岸とは春分・秋分を中日として、その前後各3日、合計7日間を指しています。本来は梵語(古代インドの言葉)で「完全な」という意味を表す、paramita(漢字では「波羅蜜多」と音訳)を漢語に意訳した「至彼岸」(彼岸に至る)を省略した言葉です。「彼岸」という言葉そのものは「彼の岸」(かのきし)、つまの「向こう岸」という意味で、仏教の世界では悟りの世界、あるいは阿弥陀如来のいる極楽浄土という意味で使われています。つまり現世を「こちらの岸」と理解して「此岸」(しがん、このきし)と表し、水(川や池)に隔てられた仏の世界を「向こう岸」、つまり彼岸と表しているわけです。その仏の世界に到達すること、極楽浄土に往生することこそが、「完全な」救いであるというわけです。
 それならなぜ彼岸に墓参りなどの仏事が行われるのでしょうか。それは浄土信仰と密接な関係があります。「浄土」にはいくつかの種類があるのですが、一般に「浄土」といえば、阿弥陀如来のいる西方極楽浄土と理解されています。極楽は真西の彼方にあると信じられていたわけです。現世で煩悩に苦しむ衆生(しゅじょう、人々)は、ひたすら阿弥陀如来の本願にすがり、極楽に往生することを願いました。そしてそのために人々は阿弥陀如来像を刻んで礼拝してきました。そして礼拝するときにはあたかも西方極楽浄土にいるかのように、阿弥陀如来像を真東に向けて安置し、拝む人が真西を向くように配置されました。このように極楽往生を願う信仰にとっては、西という方角が決定的に重要な意味を持ってきます。平等院鳳凰堂などの阿弥陀堂を拝観することがあれば、方角に注意してみましょう。
 西が重視されることは、現在では墓地の値段にも反映されることがあります。霊園では、拝む時に西を向く墓地が、そうでない墓地より価格が高い場合があります。それは拝む時に極楽浄土のある西を向くことになるからです。彼岸の夕方、拝む彼方に夕日が沈み極楽浄土の方角を指し示してくれると、神秘的な印象を強くすることでしょう。もっとも公営の霊園ではそのような差がないこともあります。
 しかし西の方角を正確に指し示すことなど、普段はできません。手の平に乗る小さな方向磁石では、およその方角を知ることができるだけで、正確な真西を知ることはできません。しかし彼岸の日だけは、何の苦労もなくそれがわかる。つまり真西に沈む太陽の真中が真西になるわけです。ですから極楽浄土に往生を願う人達は、特別な思いで彼岸の夕日を見たことでしょう。また太陽を神聖視する日本の伝統的太陽観も大きく影響したことでしょう。日本人にとっては、太陽は単なる天体ではなく、「お日様」なのです。
 ただ平安時代から彼岸に墓参りをするという習慣があったわけではありません。あくまでも極楽浄土を身近に感じる日であり、「彼岸会」(ひがんえ)と呼ばれる法会を行うにはふさわしい日という程度の理解でした。彼岸会の起源は聖徳太子(厩戸皇子、うまやどのみこ)であると解説されることがありますが、史料的根拠は何一つありません。文献上最初の彼岸会は、『日本後紀』という歴史書の大同元年(806年)三月辛巳の日に記されています。文言としてはどこにも「彼岸」の文字はないのですが、その期日からして彼岸会の初見と考えてよいでしょう。ただしこの日の彼岸会は怨霊の慰霊が目的でした。平安時代には、彼岸はせいぜい仏事を行うにふさわしいよい日である、という程度の認識でした。中世になると次第に写経をしたり祖先の供養が行われるようになりますが、一斉に墓参りをするような風習はまだありませんでした。祖先の供養は、専ら盂蘭盆会(うらぼんえ、いわゆるお盆)に行うべきものだったのです。
 江戸時代になると、彼岸に寺に参詣し、夕日を眺めることは盛んに行われましたが、一斉に墓参りをするような風習はまだ始まっていません。江戸時代最大の歳時記である『俳諧歳時記栞草』(はいかいさいじきしおりぐさ、1851年)の「墓参」の項にも、盂蘭盆の墓参は記されていても、彼岸のことは全く触れられていません。ただし彼岸に牡丹餅を贈答する風習が、江戸時代の末期には始まっていたことは確認できます。
 彼岸に国民こぞって墓参をするようになるのは、明治になってから、この日に春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)・秋季皇霊祭が行われるようになったことによっています。皇霊祭とは宮中祭祀の一つで、歴代の天皇・皇后・皇族の命日を春分・秋分の日にまとめ、一括して祭ること、つまり皇室の祖霊をまつるものでした。太陽暦が採用された明治6年の暦を見ると、個々の命日に祭祀を行なっていたことが記されています。たとえば、1月1日は天智天皇、2日は清和天皇、3日は崇神天皇、4日は安寧天皇、5日は元明天皇、6日は武烈天皇という具合に、一年中続いていたわけですから、これではいくら何でも忙しすぎます。そこで一括して半年ごとに祭祀を行うようにしたわけです。宮中でこのように春秋の彼岸に祖先の供養をし、その日が祭日になりますので、次第に民間でも皇霊祭にならって祖先を供養するという風習が広まるようになったのです。ただし彼岸に祖先の霊をまつるという風習は日本独自のもので、同じ仏教の伝わった中国や韓国にはありません。
 ですから歴史的に長く中国文化の影響を受けていた沖縄では、墓参りをするのは春秋の彼岸ではなく、中国で墓参りをする風習のある清明節(せいめいせつ、4月4日か5日)を、沖縄風に「清明」(しーみー)とか「御清明」(うーしーみー)と呼び、この日一族こぞって墓参りをする風習があります。この日はお墓の前の広場に御馳走を持ち寄り、半日を楽しく過ごしながら一族のつながりを確認し合い、陰気な雰囲気は全くありません。
 春分と秋分の日には、ある特定の場所に立って夕日の沈む位置を確認してみましょう。それが真西の方角なのですから。ただし立つ位置が変わってしまうと、翌年の目安にはなりません。その日以外におよその西の方角を知るには、次のような方法もあります。デジタルではない長針・短針のある時計を使います。まず短針を太陽の方角に向けます。そして文字盤の12と短針の作る角度の二等分線の方向が、常に南北を示します。その線に直行する方角が必ず東西になるわけです。阿弥陀如来像をまつる寺に参拝することがあれば、この方法を試してみましょう。きっと拝む人が西を向くように、阿弥陀如来像は東を向いているはずです。


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