楽しい映画と美しいオペラ――その45
二人の指揮者の「音楽の自由」
――ミンコフスキと鈴木雅明
ミンコフスキの音楽はどうしてこんなに面白いのだろう。モーツァルトやシューベルトなどのはるか昔の音楽が、いまそこに生まれ出たばかりのように新鮮に聴こえる。正統性を突き抜けた、自在の面白さとでもいおうか。いまを生きている私たちの心を惑乱させずにはおかない。
こういう感覚は他にただひとり、アーノンクールの紡ぎ出す音楽以外には経験したことがない。身体の芯まで訴えてくる音楽である。「音楽の楽しさ」あるいは「音楽の自由さ」――言葉にするとえらく平凡だが、とにかく生命力に満ちた音が奔流のように溢れ出、踊り、心に響き渡る。瞬間瞬間の驚きと喜び。瞬時に過ぎ去っていく人生も、このように送りたいと思わせる。
《未完成》はまるで後期ロマンの趣き。フレーズを思い切り引き伸ばし、シューベルトのロマンティシズムが溢れかえる。この曲は作曲家の心の深淵を垣間見せてくれる音楽なのだが、ミンコフスキはそれを踏まえたうえで、シューベルトの暗い情念を世界に向けて解放する。演奏会前半のアンコールが、同じ作曲家の《交響曲第3番》の終楽章。《未完成》とは打って変わった、喜びに溢れる音楽。心憎い演出である。シューベルトもなかなか一筋縄ではいかない。
モーツァルトの《ミサ曲ハ短調》はまた、何と官能美に満ちた音楽であることか。これはミサ曲というよりもオペラである。あるいは声とオーケストラのグラン・コンチェルト。ミンコフスキの棒は更に冴えわたる。〈クレド〉では合唱とオーケストラの大協奏で聴衆を興奮させたかと思うと、〈エト・インカルナートゥス・エスト〉では一転、ソプラノの透明感極まりない歌を、たっぷりと聴かせる。そのテンポはあまりに遅く、音楽が失速しそう。しかしこのマリア受胎の歌は、宗教性と官能性とが一体となり、心に深く沁みわたる。ミンコフスキは、霊感溢れるモーツァルトの音楽を、針の先から宇宙の果てまでも拡大したのだった。
一日置いて、鈴木雅明指揮するバッハのカンタータを聴いた。これは、ミンコフスキの音楽とは対照的に、じつに正統的な演奏である。しかし鈴木は、バッハの音楽と精神をとことん追究して、「音楽の自由」を獲得した。鈴木の音楽の大きさ・自由さは、バッハの音楽の大きさと自由さそのものであろう。
この日は教会カンタータ・シリーズの最終回。17年を要し、丁度100回目の定期演奏会である。その期間私は、そのほとんどを鑑賞してきたことになる。聖書からの言葉を核とした声部と、オーケストラ、あるいはヴァイオリン、フラウト・トラベルソ、オーボエなど多様な楽器が協奏する――この200曲のカンタータには、バッハの音楽のすべてがある。アンコールは《ミサ曲ロ短調》の最後のコーラス〈Dona nobis pacem〉。平和を祈念する壮大なこの曲は、鈴木たちの偉業を締めくくるにふさわしい。
●マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーブル-グルノーブル演奏会
2013年2月22日
東京オペラシティコンサートホール
グルック:歌劇《アウリスのイフィゲニア》序曲(ワーグナー編曲)
シューベルト:交響曲第7ロ短調D759《未完成》
モーツァルト:ミサ曲ハ短調K427
●バッハ・コレギウム・ジャパン第100回定期演奏会
2013年2月24日
東京オペラシティコンサートホール
カンタータ第69番《主を讃えよ、わが魂よ》BWV69
カンタータ第30番《喜べ、贖われた者たちの群れよ》
カンタータ第191番《いと高きところには神に栄光あれ》
指揮:鈴木雅明
合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン
ソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ
カウンターテナー:ロビン・ブレイズ
テノール:ゲルト・チュルク
バス:ペーター・コーイ
2013年2月26日 j-mosa