一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記⑧

2006-07-31 22:04:20 | 伊豆高原日記
北沢方邦の伊豆高原日記⑧     
Kitazawa, Masakuni


 いつもなら真夏のまばゆい空と緑に映えるヤマユリの季節が、くぐもった梅雨の色彩を背景に終わりを告げてしまった。豪奢な白い花と悩ましいほどの馥郁とした香りで、一輪を部屋に挿しただけでも、陶酔的な気分となる。「野の百合を見よ、栄華を極めたソロモンの衣装も、このひと花に及ばず」という有名なイエス・キリストのことば(『ルカ伝』)から、外来種と思われるかもしれないが、『古事記』以来のわが国の野生種である。古語でサヰといい、犀川(千曲川と合流して信濃川となる)、狭井川(奈良盆地)などさまざまな当て字があるが、すべて河原にヤマユリが咲き乱れていた川であったにちがいない。事実、信州大学にいたころ、犀川に沿う国道を走りながら、河原に群生するヤマユリの白い花々が風に吹き乱れる豪華な光景を目にしたことがある。

「ならずもの国家」のさらなる暴虐

 「野の百合を見よ」とイエス・キリストが弟子たちに語っていた中東の地に、戦乱の黒煙が上がり、子供を含む多くの市民たちが死亡し、あるいは瓦礫の下敷になっている。パレスティナ自治区のガザだけでは満足せず、ヒズボラ(正確にはヒズバッラーフ〔アッラーフの党〕)の挑発に乗って、イスラエル軍はレバノンにも侵攻し、ヒズボラ支配地区の南部だけではなく、首都ベイルートをはじめ一般市民の居住区に執拗な空爆を加えている。死者は400から600に昇るだろう(七月末現在)といわれる。

 そのうえ地図にも掲載され、白色に塗られて空からも識別できる国連監視団の建物をも爆撃し、中国、カナダ、フィンランド、オーストリア国籍の4名の監視兵をも死亡させた。アナン事務総長の非難も、即座の停戦を要求する国際世論も無視して、ブッシュ政権のアメリカとブレア政権のイギリスは、一方的に「テロ組織」と名指しするヒズボラ(とハマス)が壊滅状態に陥るまでイスラエルを支持しつづけようとしている。

 イギリスにも「ならずもの国家」a rogue nationの名を献上することにしよう。それにしてもわが国の政府だけではなく、諸政党(もちろん野党を含む)もなぜ声を上げないのだろう。声を上げないことは共犯者である、あるいは少なくとも一味(gang)であることを意味する。

ディスユートピアとしての究極の資本主義的管理社会

 NHKのBS1で、ドキュメンタリー「衝撃インターネット広告」の再放送(7月30日)を見た。

 巨大な検索エンジンの運営で知られるグーグルやヤフーといったソフト産業が、インターネット利用者個人の検索データやメールのキーワードすべてを記憶し、その消費性向から趣味にいたるまでを掌握し、広告産業と提携してそれに応じた広告を即座に配信するというものである。

 たとえばあるひとが新車を購入しようとネット検索を試みると、ただちにその画面に提携した自動車メーカーやディーラーの広告がふんだんに挿入される。あるいはだれかが、恋人に婚約指輪を贈りたいとメールすると、「婚約指輪」というキーワードに連動して、宝飾品の広告がどっと押し寄せる、というものである。

 また彼らは、たとえばサンフランシスコ一帯に無線LANの基地百数十を設置し、市内のどこでも無料で利用できる計画を市当局と提携して進めようとしている。たしかに利便性はこのうえもない。

 だがそれは、ネットの検索やメール送信をするすべてのものが、電子情報網を媒介として個人情報を完全に掌握されるということを意味する。もちろんこれらのソフト産業は、プライヴァシー保護に万全を期するとしているが、合衆国には現在、テロリストとの戦いとの名目で「愛国者法The Patriot Act」など、裁判所の令状を必要としない通信や通話の合法的盗聴が可能となっている。ソフト産業も政府による情報提供の命令を拒むことはできない。サンフランシスコの計画も、それを恐れる市民団体や人権団体の猛反対で頓挫している。

 近代社会は、ひたすら便利さを追い求める社会であるとされる。だが利用者や消費者が望む以上に、それによって巨大な利益を手にする巨大産業がこうした利便性を追い求めているのだ。むしろ消費者や利用者は踊らされているだけかもしれない。利便性の蔭にオーウェル流の情報管理社会が刻々と忍び寄っている。

 1960年代の終わりに、私は「冬の時代」の到来(当時はまだ新保守主義も新自由主義も明白な勢力とはなっていなかったが)と、こうした情報による管理社会の出現を予告したが、それは私が予期していた以上に利便性と消費文化の華麗な衣をまとっていたのだ。

 詳しくは拙著 『情報社会と人間の解放』1970年、筑摩書房。絶版)を、図書館などでお読みいただければ幸いである。

北沢方邦の伊豆高原日記⑦

2006-07-09 21:07:33 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記⑦    
Kitazawa, Masakuni


 雨に濡れた緑の樹々が霧にかすみ、かぐろい影となり、深山幽谷のような情緒をかもしている。この季節に七夕を祝うのも奇妙だ。昔の太陽太陰暦では、7月7日は早くても八月中旬、遅ければ九月であり、季語としては秋であった。『万葉集』では当然「秋の歌」となっている。ひとびとは、タナバタの祭りの深みを増した輝くばかりの星空に、秋の到来を感じたものである。革命後の中国でも、伝統行事はすべて旧暦で行われている。明治の暦「改革」で、すべてをグレゴリオ暦(いわゆる西暦)に変えたのは、暴挙としかいいようがない。

七夕コンサート 

 七夕コンサートと題して、ヴァイオリンの戸田弥生、ピアノのヨンヒ・パークによるデュオ・リサイタルが行われた。賢明にもというか、この季節とコンサートの題名にふさわしく、ブラームスの「ヴァイオリンとピアノのソナタ第1番“雨の歌”」が、モーツァルトの「キラキラ星変奏曲」と並べられていた。

 もっともこのブラームスでは、横浜みなとみらい小ホールはあまりにも残響が大きく、ブラームス特有のあの分厚いピアノの音がひびき過ぎ、少々聴きにくかったが、表現内容には問題はなかった。

 二人とも、すぐれた技倆とみごとな表現力をもった演奏者で、各曲を堪能させてくれたが、とりわけヨンヒ・パークさんのピアノに深い感銘を受けた。 ピアニストにとってはあたりまえの要求なのだが、各時代や各作曲家によって異なる音色や様式を、明晰に弾きわけることを実現できている演奏者はごく稀である。ところが彼女は、ごく自然にそれを実現している。驚きといってよい。

 たとえばモーツァルトである。いわゆるピリオド(時代)楽器による演奏は、ほとんど歴史的再現の意味しかもたないような演奏が多く、私は好きではないが、もしモーツァルトが理想的なフォルテピアノの音を念頭において「キラキラ星」を書いたとすればこの音ではなかったか、という音色を、彼女は現代ピアノから引き出していた。

 また二人によるラヴェルの「ヴァイオリンとピアノのためのツィガーヌ」は迫力のある演奏であったが、パークさんのピアノは、まさにわれわれの期待している(ドビュッシーとはまったく異なる)明晰なラヴェルの音そのものであった。

 だがわが国では、こうした真に実力のある演奏家がひろく世に知られていないのはなぜだろう。演奏会やFMラディオなどでも、幅を利かせているのは、それほどすぐれているとも思えない外国人(とりわけ白人)演奏家である。もっとも音楽界に限らず芸術全体や知の世界でも、皮相な流行やいわゆる名声のみを追うマスメディアが、わが国の文化を荒廃させているのが現状なのだ。

戦後リベラリズムおよび戦後民主主義の終焉 

 ニューヨークタイムズに、チョムスキーの新著『挫折した国家(ステーツ);権力の乱用と民主主義への襲撃』の書評が掲載された。

 いうまでもなくチョムスキーは、個々の母語習得以前に言語能力は脳に構造化されていて、語ったり書いたりする文は、その構造の無限の変換(数学的意味で)であるという画期的な言語理論を提唱した言語学者である。私もその理論の恩恵を受けたひとりとして学恩を感じている。

 1971年5月にボストンで彼に会う約束を取りつけていたが、急に起こった「ペンタゴン・ペーパー事件」(国防総省のヴェトナム戦争にかかわる秘密文書の漏洩事件)で彼はワシントンに飛び、代わりの学者を紹介してくれたという思い出がある。

 それはともかく、60年代の終わりから、彼は「知識人の責任」から、アメリカの世界政策を批判する鋭い論考や提言を書きつづけてきた。今回の新著もその延長上にあるが、「ならずもの国家」アメリカに対して依然としてきびしい批判を投げつけているようである。

 彼の論点は60年代から変わらず、自由と民主主義によって世界の未来を照明するアメリカというイメージに相反して、合衆国は各国の内戦に暴力的に介入し、民衆の真の自由や民主主義への欲求を破壊してきた、というものである。だが書評者のいうとおり、あいかわらず批判は鋭く告発的であり、またそれは正当であるが、では世界の未来のためにアメリカはどのような方向に進路を転換すべきか、また世界の未来像はどうあるべきか、という代替案やヴィジョンは示していないようだ。

 つまり彼は、60年代以来の左翼的リベラリズムあるいはラディカル・リベラリズムの立場を護っていて、アメリカが真の自由と民主主義の原理に回帰し、政策や政治行動をそれと一致させることが問題の解決になると考えている。

 この書評に掲載されていた彼の近影が、奇妙なほど丸山真男に似ているのが気にかかった。つまり、アメリカの戦後リベラリズムを代表する知識人と、日本の戦後民主主義を代表する知識人との容貌の類似は、この二つの思想またはイデオロギーの共通性とともに、その共通の限界を物語っているように思われたからである。

 60年代の全共闘は戦後民主主義を「虚妄」と批判し、丸山はそれに応えて「戦後民主主義の虚妄に賭ける」と有名な言説を吐いたが、私はそれを「虚妄」とは考えていない。わが国でもアメリカでも、それらは歴史的役割をはたしてきたのであり、その意味で虚妄どころか政治的・思想的実体であった。だが全共闘による戦後民主主義批判の意味は失われてはいない。

 なぜなら、すでに18世紀のルソーの批判があったが、概念および制度としての近代の自由と民主主義そのものが問題だからである。むしろいまグローバリズムとして支配権をふるっている新保守主義と新自由主義こそが、ある意味でこれらの概念やイデオロギーのラディカルな徹底だからである。

 近代そのものを批判的に克服し、脱近代の立場に立たない限り、グローバリズムやそれを推進するネオコンズあるいはネオリベラルズを根本から批判することはできない。 詳細については、拙著『脱近代へ;知、社会、文明』(2003年 藤原書店)をお読みいただければ幸いである。


北沢方邦の伊豆高原日記⑥

2006-07-01 18:13:29 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記⑥ 
Kitazawa, Masakuni


 知と文明のフォーラム第二回セミナー『性差とジェンダー1』(講師青木やよひ)についての感想文で、石井ゆたかさんが触れたからかもしれないが、カタツムリがあらわれ、雨に濡れたヴィラ・マーヤの敷石のうえに寝そべっていた。踏まれるといけないと、そっとつまみ、繁った草叢に放してやった。

ヴェトナム(越南)の現代音楽 (6月30日)
  打楽器奏者の上野信一のリサイタルで、ヴェトナムの現代音楽家ダオ(N.T.Dao)の『打楽器独奏のためのタイ・ソン(地域の名)』(1984)を聴き、心洗われる思いがした。

 華麗なテクニークと身体に似合わぬ(失礼!)繊細な感受性を兼ね備えた氏のリサイタルやアンサンブルをいつも楽しませていただいているが、この夜の悼尾を飾るこの曲は、竹や銅鑼(ゴング)などヴェトナム風の楽器をふんだんに使って、民族色あるいは民俗色ゆたかでさわやかな風を背景に吹かせながら、あくまで現代曲としての表現と構成を追及したもので、出色であった。

 映画や音楽あるいは絵画で、イラン、ヴェトナム、中国など第三世界のすぐれた芸術家が輩出し、21世紀の世界に希望をあたえているが、これもそのひとつだろう。

ならずもの国家
 ジョージ・W.ブッシュはかつて、当時もっとも民主化のすすんでいたハタミ政権下のイランを名指しして「ならずもの国家a rogue nation」と呼んだが、いまそのことばは、そのままイスラエルとアメリカに返上すべきだろう。たった二人のイスラエル兵の殺害と一人の兵士と一人の植民者の拘束を理由に、パレスティナ自治区のガザに武力侵攻し、橋や発電所を破壊し、空襲や艦砲射撃で子供を含む多くの市民を殺害する。いままで数々の国連決議を無視し、パレスティナ人の人権を無視しつづけてきたこの国家を「ならずもの」といわずしてなんと呼ぶべきなのだろう。

 アメリカ連邦最高裁は多数意見によって、グアンタナモ基地収容所のいわゆるテロリスト拘束と尋問は、軍事法廷法にも抵触し、憲法違反であると認定した。開設早々から法治国家に存在すべきでない人権無視の施設と批判されてきたが、大量破壊兵器(WMD)やテロリストとの戦いを名目にしたイラク戦争といい、ブッシュ政権下のアメリカも「ならずもの国家」にほかならない。それに加担しつづけてきた小泉政権下のわが国も、「ならずもの国家」の仲間(英語の意味でのギャング)であるだろう。

不思議の国のアリス:リサ・ランドール
 6月29日のNHKBS1「未来への提言」で、宇宙飛行士の若田氏が、物理学者のリサ・ランドール博士(DR. Lisa Randall)へのインタヴューを行っていた。内容が表面的であったのは、TVの啓蒙的な番組としての限界なのだろうが、彼女のきわめて人間的な魅力に触れただけでもよかったのかもしれない。 

 彼女はサンドラム(Dr. R. Sundrum)と共同で執筆した論文「小余剰次元から見る大質量階層」と「コンパクト化への代替案」(ともに1999)で注目を集めたひとである。近年、物質の最小単位は粒子ではなく弦(ストリング)であり、それはコンパクト化によって10乃至は11次元の時空を占め、われわれの見ている4次元時空の宇宙は、他の宇宙から膜(ブレーン)によって隔てられている、とする弦理論(ストリング・セオリー)がきわめて有力な仮説となっている。
 
 この説を唱える研究者の多くは、10または11次元も無限次元の置き換えにすぎないと考えているが、それはともかくこれが真実であれば、宇宙論や世界観の大変革であり、われわれの基本的なものの見方にも深甚な影響をおよぼす「思想」となるはずである。   

 この説のひとつの弱点は、ペンローズの指摘するように(Penrose. The Road to Reality,2004.p.897)、多重宇宙を直接多次元空間(ハイパースペース)で扱うと、あまりにも膨大な関数的自由度が発生することである。ランドールの提唱するように、われわれの時空を5次元とし、膜で隔てられた他の宇宙それぞれを余剰の1次元がつないでいるとすれば、少なくともこの問題は解決する。この点で彼女の考えは画期的なのだ。

 ただ私にいわせれば、時間をすべての宇宙をつらぬいく1次元としてよいのか、他の宇宙には他の時間軸は存在しないのか、問題となる。直接彼女に尋ねてみたいものである。