一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

第12回セミナー●「生殖革命」と人間の未来

2009-11-30 20:08:31 | セミナー関連


 知と文明のフォーラム  第12回セミナー 
「生殖革命」
と人間の未来

 
 10月24、25日に標記セミナーが開かれた。私は今回初めて参加させていただいたいわばセミナー新入生だが、参加者は30名ほどで、ヴィラ・マーヤ・セミナーはじまって以来の盛況だったそうである。

 
初日はセミナーの企画者、青木やよひさんのごあいさつで始まった。最初の報告者は首都大学東京の江原由美子さん。テーマは「フェミニズムと生殖革命—−その問題点と展望」で、女性の自己決定権と生殖技術の進展をめぐる全体的な見取り図が次のように提示された。

 
近代の出発点である「人権宣言」は、人(=男)と市民(=男市民)の権利宣言であり、自由権(人身の自由)はその基本にあった。しかし、「女性の人権」は初めから排除されていた。フェミニズムのたたかいは、「女性の人権」の獲得の歴史であった。女性参政権獲得後、「女性の人権」の課題として残ったものの一つに、女性にとって最も重大な性と生殖をめぐる権利、つまり女性の身体の自己決定権があった。

 
体外受精(=胚移植技術)が出現するまでは、この女性の自己決定権と生殖技術の進歩の間に矛盾を見出すフェミニストは少数だった。生殖技術が国家によって利用されることを危惧していた女性たちである。しかし1978年の体外受精児誕生を境に、フェミニズムと新しい生殖技術との間には齟齬が生じ始める。不妊治療として開発されたはずの体外受精は、生殖機能の市場化、代理母や卵の提供といった女性の身体の道具化を促進させる一方で、成功率の低さゆえに、必ずしも不妊カップルへの救いとはならず、むしろ不妊に苦しむ多くの女性へのさらなるプレッシャーとなっているからである。さらに、生殖補助医療の進歩は生命操作や遺伝子操作を可能にし、その結果、優生思想の強化を危惧させるからである。それ以来、女性たちはこれまでの自己決定の主張を問い直し始めた、と江原さんは言う。

 
生殖を身体から引き離し外部化し、他者の身体の支配をもたらす「生殖革命」は、女性の自己決定権を困難にする。なぜなら、自己決定権は、他者の身体をコントロールしないようにするわれわれの義務としての「自己決定権の尊重」に基づくべきものだからだ。生殖技術の革新は女性に自由をもたらしたのか。私でもあり他者でもある胎児を自己決定に包摂できるのか。生殖の領域はすぐれて、自立した個々人を前提とするリベラリズムの虚構性をあぶり出す。近代の人権思想が生み出した自己決定権は、「生殖革命」に直面した女性の自己決定権の困難を通して再考され、他者の身体を支配するものとはなってはならない。
 
 
続いて日仏女性研究学会代表の中嶋公子さんが、江原さんの問題提起を引き継ぐかたちで「女性の身体の自己決定権とその困難——フランスを中心に」をテーマに報告した。その内容は、フランスや欧州の具体的事例、データを挙げながら、「身体の自己決定権=自己の身体の処分権」を青木やよひさんが提唱する「生殖倫理」にどうつなげることができるのかという問いを軸に組み立てられたものだった

 
人工妊娠中絶の権利の現状を例にとっても、女性の身体の自己決定権は、先進地域のように思われがちな欧州でも、実は、基本的人権として確立してはいない。一方では、生殖技術の進展によってもたらされた「産む自由」、「産まない自由」の拡大は、いくつもの倫理上の重大な問題を引き起こし、この権利の確立をさらに困難な状況においている。

 
生殖倫理の視点からとくに注目すべきは、着床前診断、出生前診断による選択的中絶と代理懐胎の問題だ。前者は、自己決定権を通して、直接、優生思想に結びつく可能性をもつ。国家の優生学は個人の優生学を通して行われるようになったのだ。後者は、自己の身体の処分権を越えて、他者の身体の処分の領域(他者にとって−—この場合、代理懐胎を引き受ける女性―—、それが自らの身体の自己決定であるとする立場をとるフェミニストがいるとしても)に踏み込む、つまり他者の身体の支配だけでなく、生まれる子どもや代理母の家族までも巻き込み、母体の細分化や親子関係の複雑化をもたらすからである。さらに、代理懐胎は、同性親の問題をも提起する。

 
生殖技術に関する日仏の違いは、フランスの場合、生殖技術の拡大を前にして、国家倫理諮問委員会を設置し、国や市民のレベルで倫理的な視点からの議論があり、それが生殖関係の法律に活かされているのに対し、日本では倫理が不在のまま法がつくられていることにある。生殖は、産むという行為は女性の身体という場で展開する。生殖の倫理を考えるときに、女性がこの経験を自らの言葉で言語化していく必要がある。なぜなら、自己決定権を生み出した近代の人権思想は、男性の身体を普遍的なものとし、女性の身体の経験はそこから排除されているからであると、中嶋さんは強調した。

 
二日目は、まず慶応義塾大学の長沖暁子さんが「生殖技術とは何か……当時者の視点が与えるもの」と題して報告した。長沖さんの自己紹介にも「学生時代に出会った優性保護法と専攻した発生学が「生殖技術と女のからだへの自己決定権」というその後のテーマを決めた」とあったが、生物学者と運動家としての視点が交差するきわめて固有な立場からの報告だった。

 
1953年のDNA発見以来の生命工学の歩みの中に体外受精の技術を位置づけると、それが開く「地平」は生命全体に及ぶことが分かる。長沖さんは、だから倫理を問うのであれば、生殖に限らず生命全体の倫理への問いが必要だ、とまず主張した。続いて、女の身体を実験台にした自己決定権を狭めるものとしての生殖技術、その背景にある機会論的自然観や遺伝子還元主義や父権主義や優性思想を根源から問い直した1985年のフィンレージ会議の決議文が紹介された。その後あきらかになっていく生殖技術の問題点のほぼすべてがこの決議文ですでに指摘されていたことが分かる。さらに、日本における運動として、クラインの『不妊』翻訳をきっかけにできた自助グループ・フィンレージの会、さらに05年にできた非配偶者間人工授精で生まれた人たちの自助グループDOGの取組が紹介された。

 当時者の語りがこの二つのグループの活動の基本である。生殖は私的行為であると同時に、社会的規範や価値観にも規定された、社会が介入してくる行為でもある。だが不妊は個人の問題でしかないかのように、個人による解決が、自己決定が求められる。そもそもアプリオリに自己決定などは存在しない。これまでの女たちの自己決定の主張は、それができるように社会を変革するためのものでもあった。だからこそ、当時者が出会い語り合い個々の体験を整理し、当時者以外の人々と共有できる経験や知識にしていくことが不可欠で、そのための当時者へのサポートが必要である。それをもとに自然・家族・生殖・生命等に係る多様な価値観を創造することが重要で、そのことを通してしか科学の枠組みの転換、社会の変革はできないとのではないか、と長沖さんは報告を締めくくった。

 
続いてセミナーに参加していた前述のDOGのメンバーの一人がグループの活動やAIDから生まれた子どもとしての経験を非常に整理されたかたちで語ってくれた。午後の自由討論でも、このグループのもう一人のメンバーが勇気ある発言をしてくれた。彼女たちの言葉が私たちの胸に重く響いた。これが長沖さんの言う経験の共有化だと思った。子どもが係る技術はけっして自己決定の枠には入らないことを私たちは実感できた。

 
3つの報告を受けて、最後に青木やよひさんが「私の問題提起―生命倫理から生殖倫理へ」と題する文明そのものを根源から問う問題提起を行なった。今日、生殖の人工操作が可能になった段階、とりわけ女性の卵子が体外に取り出され人工授精されるという段階から、生殖という生物的・社会的行為が人類史上始めての重大な転換の局面に到達したが、このクリティカルな転換が一般に認識されにくいのは「幸福追求の権利」のもとにどのような手段を使っても子を得るのは当然とする社会通念があるからだとし、それが「公共の福祉」の根底をゆるがしている。この状況を変えるためには従来の生命倫理の枠を大きく超える「生殖倫理」が必要であり、それによって人間とはなにか、生命とはなにか、大自然や宇宙と人間との関係はなにかを問いなおし、文明とその思考体系のあり方を変えなくてはならないと論じた。

 
さらに北沢方邦さんからは、私権、肥大化した欲望の正当化にもつながり得る「自己決定権」に代わる概念としての「個人の主権」が提案された。

 
昼食後の参加者全員による自由討論では、自己決定と「社会」、生殖技術と家父長制、生殖と「自然」、生殖倫理の観点からの生殖医療の実施のされ方や子どもの「福祉」等の様々な問題について活発な意見交換が行なわれた。私自身も、大変刺激を受けた二日間だった。今回の議論がさらに深まるような新たな企画の実現を期待したい。       (石田久仁子)

追記●この報告を書き終えた直後に、青木やよひさんの訃報に接した。青木さんのご冥福を心からお祈りするとともに、セミナーを通して青木さんから私たちへ伝えられたことをしっかりと引き継いで行きたいと思う。


伊豆高原日記【71】

2009-11-26 23:37:13 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【71】
Kitazawa, Masakuni   

 秋色が濃くなってきた。楓も色づき、ハゼの真紅などが、斑に黄ばんだ森をあざやかに彩っている。しばらく夕暮れが美しい季節である。

青木やよひについて 

 フォーラムの代表者のひとり青木やよひが死亡したので、平凡社を通じ、次のような訃報を各新聞社・通信社などに配信した。掲載されたものの多くは簡略化されているので、ご参考までに:  

 青木やよひ 二十五日大腸がんのため死去。
         八十二歳(一九二七年静岡県生まれ)。
         
故人の遺志により葬儀は行わない。 

 エコロジカル・フェミニズム理論とその視点からするベートーヴェン研究で有名。一九八〇年代の性差やジェンダーをめぐる青木・上野論争はフェミニズム思想史に残る事件であった。また一九五七年に発表したベートーヴェンの不滅の恋人がアントニア・ブレンターノであるとする新説は、いまでは世界的な定説となっている。 

 「フェミニズムとエコロジー」などフェミニズム関係の著書、「ホピ 精霊たちの台地」などの民族誌、「ゲーテとベートーヴェン」などベートーヴェン研究の著書など多数あるが、とりわけ「ベートーヴェン“不滅の恋人”の探求」のドイツ語訳はドイツ語圏で高く評価されている。訳書にメイナード・ソロモン編「ベートーヴェンの日記」などがある。遺著の「ベートーヴェンの生涯」は近く発行予定。 

 また執筆の傍ら津田塾大学・立教大学などの講師を勤め、論文「マルサスの影と現代文明」で一九七五年毎日新聞社日本研究賞を受賞する。夫北沢方邦と知と文明のフォーラムを主宰する。

私的感想 

 青木やよひは五十五年にわたるつれあいだが、フォーラムの共同創設者であるので、私的感想を書かないというこの日記の原則を破ることをお許しいただきたい。 

■11月19日 
 青木やよひにいよいよ別れを告げなくてはならないときがやってきたようだ。覚悟は決めていたからいまさらなにもいうべきことばはないが……  身体が若いのが仇となり、癌の進行が極めて早い。細胞が老化していないと、新陳代謝がよく、正常細胞も増殖するが、癌細胞も増殖するからだ。いま肺への転移が危機的状況にある。在宅では急な呼吸困難の発作に対応できないからと、佐藤主治医のすすめで急遽入院する。

■11月21日 
 病棟の端にあるよい個室に移り、状況もやや改善される。外科医の秀村晃生さんがはるばる見舞いにみえる。指圧師の田中亮二さんもみえる。沖縄の倉橋玲子さんから贈られた花が、病室を飾り、心和ませる。

■11月24日 
 まだ意識がしっかりしているうちにという主治医の配慮で、外泊帰宅。仕事終了後乱雑になっていた書斎を、私が整理し、綺麗になっていたのを見たいというので、背負って案内する。満足したようだ。ただやせ細っているのに、腎臓や腹膜などの水腫のせいで重く、苦労する。昼、いつもの朝食と同じものを食べたいというので用意し、介助して五分目ぐらい食べる。夜はなにも取らず、寝たいというので、しばらく話をする。 

 十日ほどまえ、枯れた枝々越しに美しい満天の星空の夢を見、「われらの上なる星辰、われらの内なる道徳律、カント!!!」というベートーヴェンと同じ境地を味わい、また宇宙との一体感を味わった。以前から死を恐れてはいなかったが、これですっかり満ち足りた平穏な気分となり、いつ死んでもいいと思ったという。また、これまで幸せな生涯だったし、それも、またこれだけ仕事ができ、残せたこともおまえさんのお蔭だ、とも述べた。少々照れたが、私としてもこれ以上の幸せはない。睡眠薬を飲ませて寝る。

 よく寝ていたようだ。しかし未明に背中に痛みが起こり、要求されたので痛み止めの坐薬を使い、やがて痛みは薄れたが、朝目が醒めてから意識も呼吸もやや乱れる。9時頃点滴とワクチン注射のためやってきた訪問看護師が、血圧が異常に低く、血中酸素濃度が低下しているので危険だというので、救急車を呼び病院に戻る。病室で酸素吸入を受け、ふたたび状態がよくなったので、午後3時頃、私は一旦家に帰ることにする。明日またくるからと告げると、何時ごろ?と聴き返し、それが私の聴いた最後のことばとなった。夜、食事を済ませて片付けていると病院から電話がかかり、大至急きてくださいとのこと。駈けつけたが、すでに事切れていた。こうなるならずっと側にいたのに、とそれが唯一の心残りである。死亡証明書の時刻は9時11分。 

 佐藤芳樹主治医と話し合う。私が「佐藤先生と出会えなかったら、今度の本は書き終えられなかった」という彼女の言葉を伝えると、先生は、健康なひとでも本を書くというのは大変な苦労なのに、これだけのご病人がなしとげられるとは、とにかく尋常ではない意志の力のあるひとで、感嘆します」といわれた。たしかに、昨年五月の手術前にかなりの時間をかけて準備をし、一部書きはじめていたが、実際の執筆は手術後約2ヶ月後からである。 

 そんなにハードに仕事すると、あとで大変だからと、書斎に篭っている彼女によく話し掛け、仕事を止めさせたたものである。『ベートーヴェンの生涯』の執筆が彼女の命を縮めたかもしれないが、これを完成しなかったら、死んでも死にきれなかっただろう。 

 とにかくパートナーのいう言葉ではないかもしれないが、私も彼女を尊敬する。 

 なお、彼女の死後発見したのだが、寝室のメモ用紙のあいだに書きとめてあった句と歌を紹介する。ただ紙に大きく斜線が引かれているのは、公開されたくないという意向かもしれないが:  

病みて知る ベートーヴェンの 深き淵 

なにゆえの病苦ならんと天に問う、生きがたき夏の夜のしじまに



北沢方邦の伊豆高原日記【70】

2009-11-18 03:05:23 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【70】
Kitazawa, Masakuni  

 今年の秋は雨が多く、また寒暖の差もはげしい。植物たちも戸惑っているとみえ、まだ青い樹は青々とし、芝生も緑なのに、枯葉をすっかり落した木々やら真紅のハゼなど、奇妙なとりあわせである。吹き寄せられた落ち葉が、緑の苔の浅い谷間に溜まっている。

マキムク遺跡とヒミコ 

 奈良盆地の纏向(巻向)に、3世紀頃の大規模な遺跡が発掘されたというので、考古学界やメディアは大きな騒ぎとなっている。つまりそれはヒミコの時代の遺跡であり、邪馬台国の位置をめぐる九州か大和かという長年の論争に決着がつきそうだというのである。 

 私自身はこの論争にほとんど興味をもたなかった。なぜなら『魏志倭人伝』の記述が全面的に正しいとは思わないし、神話を分析していると、むしろこうした論争自体がこっけいに思われてくるからである。なぜなら、神話や伝説は史実を部分的に取り込んではいるが、それを超えて種族の思考体系をみごとに具体的に啓示していて、逆に歴史を再考する手がかりにさえなっているからである。 

 事実、11月16日のNHK「クローズアップ現代」でこの問題が取り上げられていたが、そこに登場した専門家の発言に、思わず耳を疑ってしまった。つまりマキムク遺跡以後の大規模遺跡では、宮殿などは中国の影響で南北を軸に建てられているが、マキムクの祭祀場や宮殿などと思われる遺構は東西を軸としていて、それがなにを意味するか不明だというのだ。 

 いうまでもなく中国では、暗黒の天の北極が天帝の玉座であり、宇宙の中心であるとされ、北がもっとも聖なる方角とされていた。わが国でもその影響で、「天子」の宮殿は北に位置して南面している。ただヤシロでは東南または北西に面するものが多いが、東南は太陽の冬至点であり、神々や祖先の霊のいます「常世(とこよ)」であるとともに、その守護神である雷神の坐すの方角とされた。北西はそのいわば逆数として、冬の気象の「荒らぶる女神」(風神)の坐す方角である(厳島神社が典型である)。 

 東西が軸であるというのは、中国の影響以前では、冬至から夏至にいたる太陽の運行の中心点が軸であることであり、神々の中でもっとも尊崇されていた太陽の女神アマテラスの歩みを軸にしていたということである。 

 そもそもヒミコとは、『魏志倭人伝』の当て字「卑弥呼」で書かれるが、太陽の子を意味する「日御子」であるし、それはむしろ特定の女王の名ではなく、のちにスメラミコトとよばれるようになった天皇の古代名称といえるだろう。また邪馬台国という語の魏の発音がどのようなものであったかつまびらかにしないが、ヤマトの誤伝か、逆にヤマタイがのちに音韻転訛でヤマトになったことも考えられる。 

 私は古代の人名や固有名詞は必ずカタカナで表記するが、それは漢字の当て字にまどわされることが多いからである。一般名詞でさえも本来そうである。たとえば古語で天をアメというが、天から降る恵みだからアメ(雨)という。例をあげればきりがない。 

 いずれにせよ、考古学的事実や歴史的事実の「解釈」は、狭い専門性を抜けでて、神話や伝説が語っている種族の自然環境や生活という「意味するもの」と、それのうえに構築された思考体系という「意味されたもの」とが結びついている「構造」を認識することで、はじめて可能となり、真実となることを知らなくてはならない。


楽しい映画と美しいオペラ―その24

2009-11-10 10:12:19 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラその24     

      現代に越境する17世紀の音楽 
             
フィリップ・ジャルスキーとラルペッジャータ

 ここ何年か、ヘンデルをはじめバロック・オペラの復興が目覚ましいが、その一端を担っているのが、次々と輩出するカウンターテナーであろう。バロック・オペラの主役はカストラート(変声期前に去勢された歌手)など高声部を歌う歌手がつとめるのが普通で、それが存在しない現在、カウンターテナーがその代役となっている。グスタフ・レオンハルトやニコラウス・アーノンクールなどと共に古楽隆盛の礎を築きあげたルネ・ヤーコプスなどはそのはしりではないか。その後、ヨッヘン・コヴァルスキー、ドミニク・ヴィス、マイケル・チャンス、アンドレアス・ショルなど有能なカンウンターテナーが登場し、バロック・オペラを上演する環境が整ったのである。

 フィリップ・ジャルスキーは、数あるカウンターテナーのなかでも、群を抜く才能の持ち主であろう。この声種は、男性がメゾソプラノやアルトなど女声パートを歌うわけで、いささか無理が生じる。声に輝きがなかったり、フォルテに力強さが欠けていたりするのだ。しかしジャルスキーの声はどこまでも自然で、輝きと強さはもちろん、深い音楽性に溢れている。ヴィヴァルディのオペラ・アリア集のCDではじめて彼の声に接して以来、私はすっかりフアンとなったのである。

 今年の8月、NHKのBShiで放映されたステファノ・ランディ(1587-1639)のオペラ『聖アレッシオ』でもジャルスキーはタイトル・ロールを演じていた。妻や父母などこの世のすべてのしがらみを捨てて神に身を捧げるアレッシオ役は、透明で中性的な美しさをたたえたジャルスキー以外には考えられなかったに違いない。ウィリアム・クリスティの指揮共々、この上演はとても印象深いものだった。

 そのジャルスキーが来日するというので、いの一番でチケットを取り、心待ちにしていたのだった。昨5日の公演は、期待に違わぬ素晴らしいものだった。ジャルスキーは言うに及ばず、じつに巧みな歌を聴かせてくれたガレアッティ、そして特筆すべきは、バックを支えたラルペッジャータというバロック・アンサンブルである。プログラムを読むと、この公演の中心人物が、ラルペッジャータを率いるクリスティーナ・プルハルであることがわかる。  

 この公演は、2つの大きな流れから成り立っていた。1つは言うまでもなくジャルスキーの流れで、モンテヴェルディに代表されるイタリア・バロックの正統派である。あと1つが、ガレアッティが体現する、イタリア、スペイン、中南米にも及ぶ民衆音楽とでもいうべき流れである。二人の歌唱法はまったく異なる。ガレアッティをヴォーカルと表現してソプラノと言わないのには理由があるのだ。にもかかわらず、この異なる音楽の流れが、歌うこと・演奏することの愉悦を介して、舞台の上で見事な融合を見せてくれた。

 二人の歌を支えたのはラルペッジャータである。テオルボ、リュート、バロックヴァイオリン、コルネット、プサルタリー、パーカッション、チェンバロで構成されている。プサルタリーとは、イランでサントゥールと呼ばれている打弦楽器と同種のもので、ピアノの原型とも言われている。繊細で透明な響きがする。パーカッションは、太鼓、シンバル、鈴、カスタネット、それに目にしたこともない楽器も含めて何種類の音が聴こえてきたことか。コルネットは角笛を細長くしたような形で、ここから奏でられる哀愁を帯びた音色がまたいい。これら多彩な楽器の音色が複雑に絡まりあい、絶えて耳にしたこともない響きが、17世紀を中心とする音楽を見事に表現した。そしてガレアッティ作の親しみ深い曲とも溶け合って、現代に生きる私たちの心にストレートに訴えかけてきたのだ。アンコールのモンテヴェルディ「ああ、私は倒れてしまう」はいつの間にかジャズに変容していた。何という自在さ! 博物館入りの音楽とは対極にある。  

 演奏される曲目はプログラムに書かれているのだが、演奏順は当日発表され、私は掲示されたそれを携帯に撮ったものの、上演中にはどの曲目が歌われているのかほとんどわからなかった。そしてそれで問題はなかったのだ。すぐれた演奏は、予備知識が何もなくとも、内容を十分に伝えてくれる。愛の喜びや悲しみ、自然の賛歌、音楽への捧げもの……。一番前の席で、演奏者の表情を間近にしながら、休憩なしの2時間、舞台から溢れて出てくる音楽にただただ圧倒され続けた。王子ホールに集う300人の聴衆と一体となったこのコンサートは、音楽とは何かを考える上でも、またとない貴重な体験であった。

指揮&テオルボ:クリスティーナ・プルハル
カウンターテナー:フィリップ・ジャルスキー
ヴォーカル:ルチッラ・ガレアッティ
リュート、バロックギター:エーロ・パルヴィアイネン
プサルタリー:マルギット・ウベルアッケル
バロックヴァイオリン:アレッサンドロ・タンピエーリ
コルネット:ドロン・シャーウィン
パーカッション:ミシェル・クロード
チェンバロ:北御門はる

2009年11月5日 王子ホール

2009年11月6日 j-mosa


北沢方邦の伊豆高原日記【69】

2009-11-06 17:20:33 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【69】
Kitazawa,Masakuni  

 枯葉を落しはじめた木々と、まだ青々とした雑木類のあいだに海が輝いてみえる季節となった。まだ緑の芝生の片隅に、サフランの花がいくつか、淡い紫の花びらを陽射しに向けている。ヴィラ・マーヤの庭をあちらこちら彩っていたツワブキの黄色い花の塊も、もう終りに近い。

レヴィ=ストロースとはなんであったか 

 クロード・レヴィ=ストロースが百歳で死去した。1960年代の末、わが国ではじめて彼の思想とその「構造主義」を紹介したものとして、いささかの感慨はある。 

 彼の業績の最大のものは、なんといっても1962年に出版された『野生の思考』(原題のLa pensee sauvageには「野性の三色スミレ」と「野蛮な思考」の二つの意味が含まれていて、発売された頃は園芸書の棚に並べられたといわれている)である。いまとなってみれば、私の知っているホピやナバホの記述にすでに数カ所の間違いがみられるように、細部に誤りが多いが、レヴィ=ブリュール以来幼稚で野蛮であるとみられていた「未開」の思考が、驚くべき超合理的な体系をもっていることを明らかにした点で画期的であった。 

 ただそれが近代の抽象的な科学的思考と異なるのは、つねに具体的な事物のレベルで体系化されていることである。彼はそれを「具体的なものの科学」と呼んでいるが、その命名は正しい。だがそれを、近代の抽象的な科学的思考と対立するものと考えた点で彼は誤っている。「具体的なものの科学」はまず第一にナチュラル・ヒストリーとよばれる自然科学そのものであり、「科学的思考」なのだ。近代と異なるのは、この「野生の」科学的思考は、薬草学や精密な暦などそれ自体として応用されるだけではなく、自然や宇宙の諸事物を、鷲や蛇などいわゆるトーテム的・神話的記号に置き換えて考える「神話的思考」と矛盾なく重ね合わせられていることである。 

 またその後の大著「神話論理学四部作」(『生のものと料理されたもの』『灰から蜜へ』『食卓作法の起原』『裸の人間』)は、南北アメリカ・インディアンの約1000の神話の構造分析を行い、それらが相互に関係するゆるやかな「変換群」をなしていることを明らかにした。私もそれにならって『古事記』『日本書紀』各『風土記』からの神話数百を構造分析し、それが同様に「変換群」を形成していることを確認した(『天と海からの使信』1981年)。 

 こうした彼の60年代から80年代にかけての業績は、高く評価されるべきであろう。だがそこにさえ問題があるのは、「構造主義」の提唱者と見られているにもかかわらず、「構造」概念が明確ではないからである。

構造とはなにか 

 1960年代後半を席巻した「構造主義」は、ほとんど思想革命といってよいものであったが、その意味は50年経った今日でもいまだに理解されているとはいいがたい。 

 それは二つの点で、近代思想の立脚点をくつがえすものであった。第一は、デカルト以来の主観・客観の二元論の否定である。言語記号であれトーテム記号であれ、具体的な記号は、物質的または「客観的」な部分としての“意味するもの”(言語であれば発音されるもの)と概念的または「主観的」な“意味されたもの”(たとえばイヌという発話に対応する概念や意味)は不可分であり、切り離して考えることはできない。記号は人間にとって宇宙・万物の表現であるから、世界すべてはこの両者の一元性のうえに成り立つ。ただし身体と精神など、すべては一元性のなかの対立項であって、私はそれを「記号の対称性(シンメトリー)」と名づける。 

 第二は、上記と不可分に、人間の文化だけではなく世界あるいは宇宙は、具体的なもの(または物質的なもの)と抽象的なもの(または思考的なもの)とを不可分に結びつける「構造」によって成立しているということである。 

 レヴィ=ストロースのつまずきも、この構造概念の不徹底さにある。 

 もっとも正確な構造概念は数学、とりわけ抽象数学にある。具体的なものの集まりは「集合」であるが、それら個々の諸要素がなんらかの相互関係で緊密に結ばれるとき、そこに「構造」が生じる。その関係(法則)のあり方によってたんなる「集合」は、群や環などといった諸種の構造を示すにいたる。 

 レヴィ=ストロースの「野生の思考」、ジャーク・ラカンの精神分析における「無意識の構造」(無意識を非合理的なものと考えたフロイドの主張をくつがえした)、チョムスキーの言語学における言語能力という先天的構造など、60年代にいわば同時多発した各学問分野における「構造革命」(数学でははるかに先行していたが)は、いわゆる先進諸国で、近代文明にはじめて疑いの目をむけた60年代末の学生運動や「文化革命」と呼応するいわば60年代の時代精神Zeitgeistであったのだ。

構造主義余波 

 だが70年代以後のポスト構造主義や記号論(セミオティックス)や記号学(セミオロジー)は、構造主義の真の遺産を継承することなく、マスメディアで踊る思想的流行で終った。その原因はいうまでもなく、それらが上記のような構造概念をまったくもたなかった点にある。ミシェル・フーコーについてのジャン・ピアジェの厳しい批評のように、それらは「構造なき構造主義」にほかならない。 

 むしろ構造主義の遺産は、人類学や考古学などに継承されていった。かつては経験論や実証主義一辺倒であったアングロサクソンで、むしろいまや構造主義が主流である。また80年代「新考古学」を自称していたプロセッシュアル・アーケオロジーは、その名のとおり、ゴミにいたる遺跡から出土するあらゆるものを電子計算機で分析し、遺跡の生態学的様態を明らかにしてきた。その業績を認めたうえで、それを批判する構造考古学なるものが出現した。それは生態学的データその他すべての物質的資料は、かつての住民たちの思考体系をモデルとして想定し、両者を不可分なものとして対応させ、分析すべきだというものである。 

 この意味で、脱近代科学の烽火をあげた「60年代構造主義」を再評価しなくてはならないし、幾多の欠陥はあるとしても、レヴィ=ストロースの先駆的業績も再評価されるべきであろう。