一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

安田節子著『自殺する種子』

2009-06-25 07:11:10 | 活動内容

食をめぐる政治経済学

安田節子著  『自殺する種子』 

 
 昨年の6月、知と文明のフォーラムが主宰するセミナーに安田節子さんをお招きして、2日間にわたってお話を伺った。食をめぐって展開されるお話は、そのソフトな語り口とは裏腹に、現代社会の酷薄な実情を白日の下にさらす、まことにショッキングな内容であった。

これは本にして、多くの人に読んでもらわなければならない――セミナーが終了したとき、私は安田さんに新書の執筆を依頼した。そしてセミナーからちょうど1年後、『自殺する種子――アグロバイオ企業が食を支配する』というタイトルで出版の運びとなったのである。この本には、長年消費者運動に関わってこられた安田さんの豊富な体験と深い知識、さらにそこから培われた実践的な思想が、十分に反映されていると確信する。

本書はなによりも、食をめぐる政治経済の本である。一読すると、現代世界の経済構造と、それを支える政治権力のあり方が見えてくる。食をテーマとしている故に、それらのあり方はより切実に、読む者の心に訴えかけるに違いない。

たとえば、2007年から08年にかけて世界を席巻した、穀物の異常な高騰がある。その影響を受けて、ハイチやバングラデシュでは餓死する人が多く出た。農業国でなぜ人が飢えるのか。その原因は、現在の世界銀行・IMF(国際通貨基金)・WTO(世界貿易機関)体制にあるのだと教えられた。ハイチやバングラデシュでは、債務の返済のため、バナナ、サトウキビ、綿花などの換金作物を作ることを強制され、自給農業が壊滅したのだ。主食はアメリカやフランスなど「農業国」からの輸入に頼ることになり、今回の食糧高騰で大打撃を受けることになった。

食糧高騰の理由も、バイオ燃料の拡大、気象変動、新興経済国の穀物需要拡大、投機マネーの流入、農業国の輸出規制と、明確に指摘されている。なかでも、投機マネーの流入の影響がもっとも大きいとされ、利潤を得るためには手段を選ばない、資本主義経済の本質が暴かれている。

本書のハイライトは、第3章「種子で世界の食を支配する」と、第4章「遺伝子特許戦争が激化する」である。タイトルの『自殺する種子』もこれらの章から採られている。生命を次世代に伝える、生物のもっとも根源的な存在である種子が、なぜ自ら生命を絶つのか?  この背景には、止まるところを知らないバイオテクノロジーの進化と、それを支配するグローバル企業の存在がある。

種の第2世代を自殺させる、遺伝子組み換えによる自殺種子技術。次の季節に備えて種を取り置いても、その種は自殺してしまうので、農家は毎年種を買わざるを得なくなる。まさに究極の種子支配技術である。モンサントやデュポンなど巨大アグロバイオ(農業関連生命工学)企業は、遺伝子工学を駆使した自殺種子や除草剤耐性種子(除草剤も抱き合わせにして)を世界中に売り込むことで、莫大な利益を上げているという。

 一方アメリカ政府は、遺伝子そのものにまで特許を認めることで、グローバル企業の後押しをしているのだ。「食」はまさに、アメリカの国家経済戦略の要なのである。

本書はさらに、アメリカ追随の近代的日本農業の破綻を見据えた上で、あるべき食と農の未来を展望する。地域に根差した有機農業こそ、日本の自然を護り、安全で美味しい食物を生み出すことができるのだと、結論している。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
安田節子著『自殺する種子――アグロバイオ企業が食を支配する』
 平凡社新書469巻■208頁■定価756円(税込み)

 ■目次より
 はじめに:なぜ種子が自殺するのか
 第1章:穀物高値の時代がはじまった
          
――変貌する世界の食システム
 第2章:鳥インフルエンザは「近代化」がもたらした
          ――近代化畜産と経済グローバリズム
 第3章:種子で世界の食を支配する
          ――遺伝子組み換え技術と巨大アグロバイオ企業
 第4章:遺伝子特許戦争が激化する
          ――世界企業のバイオテクノロジー戦略
 第5章:日本の農業に何が起きているか
          ――破綻しつつある近代化農業
 第6章:食の未来を展望する
          ――脱グローバリズム・脱石油の農業へ
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 2009年6月24日
 J-MOSA


北沢方邦の伊豆高原日記【61】

2009-06-23 21:33:38 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【61】
Kitazawa, Masakuni  

 いつもは緑の海の彼方にみえる隣家の屋根も消える濃い霧のなか、樹々の影が水墨画のように浮かび、深山幽谷のおもむきを醸しだしている。雨と風にも負けずウグイスが鳴き競っている。賢治の「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」の詩句を思いだす。濡れたアジサイの鮮やかな青だけが、唯一の色彩として映える。

ヘンデル没後250周年 

 今年はヘンデルの没後250周年にあたる。いくつかの記念コンサートやオペラの上演などが企画されているようだが、盛り上りはみられない。日本経済新聞にも池田卓夫記者が「作曲の巨星なぜ不人気?」と、ヘンデル、ハイドン(没後200年)、メンデルスゾーン(生誕200年)をとりあげて論じていた(6・20)。かつてロマン・ロランの『ヘンデル』の下訳をしただけではなく、どちらかというとバッハよりもヘンデルの好きな私は、ここでとりわけヘンデルが、なぜわが国で「不人気」なのか考えてみたい。 

 ひとつはわれわれが、その膨大な作品群を展望する尺度をもっていないことに由来する。つまりバッハであれば、教会オルガニストやワイマール宮廷オルガニストであった時代のオルガン作品群、ケーテン宮廷楽長時代の器楽作品群、彼にとっては不本意な「就職」であったライプツィヒのカントール時代の宗教作品群と晩年の難解な器楽曲などと、ほぼ内容とともに分類できる。 

 だがヘンデルの代表的作品群であるバロック・イタリアオペラは、わが国ではほとんど上演されず、イメージすらない。『メサイアー(救世主)』を除き、イギリス時代後期のオラトリオや合唱作品群も同様である。『水上の音楽』(前ハノーファー選帝侯だったジョージ1世との和解という誤った伝説でも有名だが)や『王室の花火の音楽』、『ハープ協奏曲』やチェンバロの『陽気な鍛冶屋』などごく少数の器楽曲はポピュラーだが、彼の器楽の頂点である数々のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)や各種協奏曲、また心をゆさぶるオルガン曲やオルガン協奏曲などはほとんど聴く機会がない。 

 ピアノのベートーヴェン同様、悪魔的とさえいわれた彼のオルガン即興演奏は、彼の内部から泉のようにほとばしりでる楽想を暗示している(ロンドンでのオペラ上演の失敗による破産と脳出血に倒れた心身を癒すため、フランス南部のエクサン・プロヴァンスで温泉療法をしていたが、あるときかなり回復した彼は、訪れた大聖堂でひとり神に感謝するオルガン即興演奏を行った。たまたま堂内にいた一群の修道女たちは、あまりのすばらしさに電撃に打たれたようになり、「奇蹟が起こりました!」と叫んだという)。 

 そのほとばしる豊かな楽想が、がっしりとした土台に支えられ、次々と壮麗な音のバロック建築を作り上げていく。そこから湧きあがる壮大な気分は比類がない。ベートーヴェンのある種の作品が醸しだす「英雄性」と親近感があるが、ヘンデルのそれはより古代的な叙事詩のおもむきをもつ(晩年のベートーヴェンが知り合いからヘンデル全集を送られ、深く傾倒し、影響をうけたことは意外と知られていない)。 

 ヘンデルの世界を、この意味で「旧約の世界」といっても誤りではないだろう。彼がオペラやオラトリオの題材としてギリシア・ローマ神話や伝説、あるいは『旧約聖書』に多くを求めているが、それだけではなく、その音楽世界全体が旧約的なのだ。ユダヤ・キリスト教と姉妹宗教イスラームだけではなく、多くの古代文明や宗教が混交し、地中海文明とも名づけうるひとつの普遍的な文明が造りあげられたが、その背景なくして『旧約』を理解することはできない。たんにイタリア・ドイツ・フランス・イギリスなどヨーロッパ各地の音楽様式(細かくいえばヴェネツィア楽派の金管楽器対位法やプロテスタント・ドイツのオルガン様式などなど)を統合しているだけだはなく、彼の音は、こうした古代の普遍的世界の面影を鳴りひびかせている。 

 対照的にバッハの様式は、ヘンデルよりもはるかに緻密であり、音の建築というよりも精密な音の織物というべきだが、同時に彼の世界は、「新約の世界」と名づけてよい性格をもっている。晩年のライプツィヒ時代の受難曲やカンタータが『新約』の世界、つまりイエス・キリストの受難やひとびとの苦悩を直接うたっているというだけではなく、彼のケーテン時代の純粋な器楽曲といえども、バッハの心情の奥底を形成する敬虔主義(ピエティズム)の信仰とその感情のありかたが、深く反映している。 

 つまり、バッハの「新約の世界」は、繊細な情緒を好み、ときには感傷主義にさえ陥りがちな日本人の芸術的嗜好に大きく訴えるものがあるが、ヘンデルの「旧約の世界」は、叙事詩という芸術ジャンルさえもたない抒情詩的な日本人の芸術文化をはるかに超えているがゆえに、「作曲の巨星ヘンデルはなぜ不人気?」となるのである(いうまでもなくわが国には神話や伝説は豊富であり、また『平家物語』を代表とする数々の語り物はあるが、これはユーラシア大陸でいう叙事詩ではなく、あくまで歴史的事実に感情移入する長大な抒情詩といってよい)。

【付記】 
ブログ読者のみなさんご愛読ありがとうございます。また数々のコメントも貴重に読ませていただいています。多忙で直接ご返事できず失礼しています。とりわけ日記51に対する内藤修さんのコメント、たいへん参考になりました。お礼申しあげます。


楽しい映画と美しいオペラ―その20

2009-06-17 21:26:11 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その20

華麗なるオペラ・セリアか?!
――新国立劇場の『チェネレントラ』

 このひと月、面白いオペラを立て続けに観た。『ムチェンスク郡のマクベス夫人』(ショスタコーヴィチ)、『ポッペアの戴冠』(モンテヴェルディ)、そして『チェネレントラ』(ロッシーニ)である。いずれも新国立劇場の出し物である(『ポッペア』だけは中劇場)。『マクベス夫人』をこの欄で報告しようと思っていると、『ポッペア』を観る時期が来て、どちらを書こうかと迷っているうちに、『チェネレントラ』を観るはめになってしまった。そこでまずは、ロッシーニの楽しい音楽がまだ耳に残っているうちに、『チェネレントラ』についてのあれこれを書き留めておくことにしよう。

 今回の上演は、ジャン=ピエール・ポネルの演出に基づいている。同じ演出による秀抜なLDが1988年に出されていて(指揮はクラウディオ・アバド)、これは家族全員で繰り返し楽しんだものだ。ユーモアにあふれ、躍動する音楽と見事な調和を見せるその演出は、いま観ても少しも古びていない。懐旧の情に浸る間もなく、私はポネルの世界に引き込まれていった。

「チェネレントラ」とはイタリア語で「灰かぶり娘」、つまり英語の「シンデレラ」のことである。基本構造は私たちのよく知っている物語と同じで、いじめられて台所で灰かぶりになっている娘が、思いもかけない力によって出た舞踏会で王子に見初められ、めでたく結婚するという話である。この継子話は世界に広く分布するようで、起源は東洋にあるらしい。私たちにはむしろ『グリム童話』で親しいものになっているのだが。

 ただこのオペラの物語は、『グリム童話』とはいくつかの点で異なっている。血の繋がりのない姉二人は共通するものの、重要な役割を演じる親は、継母ではなく、継父である。昔話に込められた娘と母親の葛藤という心理学的テーマは、父親を登場させることで、宮廷での出世をテーマのひとつとする世俗物語に変えられている。 

そして、ダンディーニという、王子とは対極の位置にある従者が準主役として創造され、この二人の言動は、「権力」と「愛」という対立する概念を導き出すことになる。継父と二人の継姉は、権力を求めて、従者が扮装した軽薄な「王子」をひたすらに追い、アンジェリーナ(チェネレントラ)は、心優しい「従者」(じつは王子)に愛を捧げる。このオペラの正式のタイトルは、『チェネレントラ、または真心の勝利』なのである。

 タイトルロールを歌ったヴェッセリーナ・カサロヴァは、このオペラのセリア的要素を体現して、高貴そのものだった。その深い第一声が静かにホールに響くや、たちまち私は魅了されてしまった。もちろんロッシーニが要求する超絶技巧も難なくこなし、最後を締めくくる大アリアに至っては、寛容の徳をしみじみと、しかも華麗に讃えて、聴くものを圧倒した。 

 アントニーノ・シラグーザは、ロッシーニを歌うために生まれてきたテノールではないだろうか。気掛かりだった音程の不安定さも消え、きらびやかで軽やかな歌声は、満場の聴衆をブラボーの渦に巻き込んだ。第2幕のアリア「彼女を探し出してみせる」は、鳴り止まぬ拍手に応えて、繰り返し歌った。

 日本人歌手二人を含めて脇役も良かった。しかし肝心のサイラスの指揮については評価が分かれるだろう。ロッシーニらしくない音楽なのである。躍動感に満ちた、たとえばアバドの指揮する音楽に比べると、地味というほかない。しかし彼は、主役のカサロヴァを念頭においた音楽作りをしたのではないだろうか。ブッファとセリアが拮抗するこのオペラにおいて、明らかにセリア寄りの指揮であった。これも悪くはない。私は大いに楽しんだのだから。

2009年6月12日 新国立劇場
【作 曲】ジョアキーノ・ロッシーニ
【台 本】ジャコモ・フェレッティ
【指 揮】デイヴィッド・サイラス
【演出・美術・衣裳】ジャン=ピエール・ポネル
【再演演出】グリシャ・アサガロフ
【演技指導】グリシャ・アサガロフ/グレゴリー・A.フォートナー
【ドン・ラミーロ】アントニーノ・シラグーザ
【ダンディーニ】ロベルト・デ・カンディア
【ドン・マニフィコ】ブルーノ・デ・シモーネ
【アンジェリーナ】ヴェッセリーナ・カサロヴァ
【アリドーロ】ギュンター・グロイスベック
【クロリンダ】幸田 浩子
【ティーズベ】清水 華澄
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

2009年6月15日 
j-mosa


日本の色 日本の時間

2009-06-11 19:02:52 | コンサート情報


パーカッション・エレクトロニクス・映像による

        日本色  日本時間        
THE COLORS OF TIME: PERCUSSIONS, ELECTRONICS, AND IMAGES




 日 時  
2009
714日 午後7時開演

 場 所 
東京オペラシティ リサイタルホール 
(京王線初台駅徒歩5分)

全席自由●一般4000円●学生3500円 
(前売 各-500円)
チケット販売サイト・カンフェッティ 03-5215-1903  http://confetti-web.com/
東京オペラシティチケットセンター 03-5353-9999
フォニックス・プロモート 
concertphonix@home.nifty.jp

 出 演 
マルチパーカッション:上野信一
作曲・映像・エレクトロニクス:ジャン・バティスト・バリエール

 プログラム  
●六つの日本庭園/ 
SIX JAPANESE GARDENS (Kajya Saariaho)
改訂日本初演
三つの川/ TROIS 
RIVIERES DELTA (Kaija Saariaho)
パーカッション・ソロバージョン 日本初演
タイム・ダスト/ TIME 
DUSTS (Jean-Baptiste Barrière)
日本初演

 解 説 

 ―アコースティック、エレクトロニクス、映像― 

 若くしてIRCAM(イルカム)*の寵児となったエレクトロニクス音楽の鬼才ジャン・バティスト・バリエールのマルチメディア・アート作品。独走するマルチ・パーカッショニスト上野信一とバリエール本人とのコラボレーションにより日本で初公開!

 電子音楽の作曲家・映像作家にして、舞台芸術やインタレーションでも各界のトップ・アーティストとのコラボレーションで活躍するバリエールが、カイヤ・サーリアホの名作「六つの日本庭園」「三つの川」、そしてピーター・グリーナウェイのインスタレーションのために作られた、バリエール自身によるマルチメディア作品「タイム・ダスト」を、パーカッション・ソロを中心としたマルチメディア作品としてプロデュースし、自らエンジニアを担当する。パーカッションは「六つの日本庭園」「三つの川」の作曲、レコーディングに協力、初演をおこなった上野信一。マルチメディア作品としてバージョン・アップされた名曲が、オリジナルの舞台である日本で改訂初演され、新たな生命を得る。

 1992年、作曲家カイヤ・サーリアホは、パートナーで作曲家のジャン・バティスト・バリエールとともに来日し、「六つの日本庭園」「三つの川」を作曲した。バリエールがエレクトロニクスおよびコンピュータ・プログラミングを担当し、プレ・レコーディングの音源をマルチ・パーカッショニストの上野信一が担当。今回のプロジェクトは、サーリアホがこよなく信頼するバリエールがこの2作品に映像を加え改訂したバージョンの、上野信一演奏による日本初演である。ピーター・グリーナウェイのインスタレーション作品「世界を表現するための100のオブジェ」のために作曲された「タイム・ダスト」は今回バリエールによるオリジナル映像を加えた日本初演となる。

*IRCAM フランス国立音響音楽研究所。ピエール・ブーレーズにより創立され、フランスのみならず世界の現代音楽に多大な影響を与えている。

●ジャン・バティスト・バリエール(Jean-Baptiste Barrière)
作曲 編曲 コンピュータ・プログラミング エンジニアリング
フランスの作曲家、批評家、コンピュータ音楽の先駆者的な作曲家として、また映像アーティスト等とのコラボレーションによるアート作品の作者として活躍中。フランス・IRCAM教育、製作部長を務めたのち、創作に専念すべくフリー。1998年にアルス・エレクトロニカでインタラクティブ部門大賞、2000年にCD-ROM作品『プリズマ:カイヤ・サーリアホの世界』でマルチメディア・シャルル・クロ大賞等、受賞歴多数。特に作曲家カイヤ・サーリアホとのコラボレーションでは、作品のエレクトロニクス部門のエンジニアや、ビジュアル部門の監督などを長年にわたって担当している。今回日本初演する彼の作品「タイム・ダスト」は、1993年に映画監督ピーター・グリーナウェイのインスタレーション作品「世界を表現するための100のオブジェ」のために作曲したオリジナルを改訂し、映像・マルチメディア作品として完成させたもの。

●上野信一(Shiniti Ueno
マルチ・パーカッション
国立音楽大学首席卒業、フランス音楽学院連合コンクール最上級課程第一位。パリ国際現代音楽コンクール打楽器部門、特別賞等、受賞歴多数。国立ストラスブール・フィルハーモニー打楽器奏者、国立トゥールーズ・キャピトル管弦楽団の首席打楽器奏者、ティンパニ奏者を歴任。ジョリベ「打楽器協奏曲」クレストン「マリンバ協奏曲」をトゥールーズ・キャピタル管弦楽団と共演、クラフト「ティンパニ協奏曲」をドレスデン・フィルハーモニーと共演、ともに好評を得る。2007年、国際打楽器芸術学会アメリカ大会(PASIC)に、同欧州パリ大会にて招待演奏。ソリストとして、内外の作曲家の新作初演は40曲以上。現在国立音楽大学非常勤講師。パーカッショングループ「上野信一&フォニックス・レフレクション」主宰。


北沢方邦の伊豆高原日記【60】

2009-06-07 12:27:44 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【60】
Kitazawa, Masakuni  

 庭先でウツギの花、つまり卯の花が白く咲き零れている。ツツジの根元にひろがるドクダミの可憐な花も白く、芝生や背景の樹々の緑に映えて美しい。森のさまざまな樹々の花も白一色であり、6月の風景を特色づけている。それらのほのかな匂いと小鳥たちの囀りが、五月晴れ(本来の意味、つまり梅雨の晴れ間)のわずかな陽射しとともに、心を温めてくれる。

「正義」とはなにか 

 創文社のPR雑誌「創文」は、知的刺激を受ける論文をときどき掲載するので、比較的よく読んでいる。その5月号(519号)に、法哲学者で東大大学院教授の井上達夫氏の論文「リベラリズムをなぜ問うのか」が掲載され、良かれ悪しかれ強い刺激を受けたのでここで批判的に論じておきたい。 

 その趣旨は、かつては戦前体制への回帰をもくろむ保守反動勢力とマルクス主義との対立の狭間に埋もれ、冷戦終了後は、近代を批判するポスト・モダン諸思想(たとえば多文化主義やフェミニズム)によって切り捨てられたリベラリズムの真の復権こそが、「戦後日本社会の根本的な自己改革」に結びつくものである。「戦後日本の思想界において、リベラリズムが周辺化されてきた」のは、リベラリズムに対する根本的誤解があるからである。なぜなら、それがつねに権力を批判し、権力の統御とその責任の明確化(氏はレスポンシビリティの直訳らしいが「答責性」という語を使用する)をはかってきたように、「リベラリズムの基底的理念は自由ではなく、正義である」からである、と。 

 氏の論旨は、部分的には傾聴に値するものが多い(たとえば経済グローバリズム批判やアメリカの覇権主義的行動批判など)し、関心をもたれる方にはこの論文の一読をお奨めするが、問題はこの「正義」の観念にある。 

 すなわち、これほど近代キリスト教の宗教的色彩を帯びたことばはない、という点である。宗教改革以後のキリスト教とりわけプロテスタンティズムは、すべてを神と信仰者個人との問題に還元し、神のコトバすなわちロゴスを理解し、日常的に実践するのは個人の理性(ロゴス)の力であるとした。もし個人の理性による判断に差異があれば、それは公的な場(司法であれ行政であれ)での討議や検討をへて決定されるべきであり、それが公的なロゴスとしての法体系となる。ここに自由と民主主義の根源があるとする。 

 だが神のロゴスは、同時に善悪や正邪の二元論的価値判断であり、この神の審判を人間が自己の理性にもとづいていわば代行する。いいかえれば価値判断としての神のロゴスが「正義」であり、それが人間によって担われることになる。しかし近代キリスト教的な価値体系をもたない諸文化は、このような「正義」観念にまったく無縁であり、むしろその導入に反発するだろう。なぜなら、「正義」は「道徳」同様、人間の意識のレベル、いいかえればプラクシスのレベルでの判断でしかなく、全体的なものではない。極端にいえば文化や社会によって「正義」の基準、「道徳」の基準(たとえば同じ合衆国でも、時代が異なると宗教的な悪であった同性愛が許容されるにいたる)は異なってくるからである。非近代諸社会では、「倫理」はむしろ無意識のレベル、つまりプラティークのレベルにいわば埋め込まれているのであり、それが日常的な実践、つまりプラクシスを規定する。 

 たとえばホピ語には「正義」(justice)にあたることばはない。むしろ英語のjustやfairに当るsun’ta(公平な、公正なの意〔ダッシュはグロッタル・ストップ〕)があるが、富の配分などに使われ、倫理的意味は少ない。むしろ「ホピ」「カ・ホピqa hopi(ホピでない)」の方が日常的に使われ、倫理的な判断となる。平和である、温和である、礼儀正しい、などなどの意味をもつこの語は、部族の名称にさえなっているが、彼らの無意識で感性的なレベルでの根本的な倫理を表現している。ホピであることは個人に要求されるだけではなく、氏族全体、村全体、部族全体に要求される規範である。 

 これは一例にすぎないが、イスラーム諸国をはじめ、西欧的・近代的「正義」に無縁な種族にとって、井上氏の議論は倒錯した観念的なものと映るだろう。むしろそれはイスラーム原理主義などと等価の、西欧近代リベラリズム原理主義としか受け取られないにちがいない。

新聞記者の知的レベル 

 漢字の読めない首相をいただくわが国であれば、マスメディアの知識人たちの知的レベルが低下するのもやむをえないのかもしれない。それにしても噴飯ものの誤りが目立つ作今である。 

 毎日新聞に、二葉亭四迷がロシアの革命家に送ったロシア語の手紙が発見されたとの記事がでた(5・25夕刊)。その一節に「(日露戦争のロシア軍司令官)クロパトキンが書いた本をどこで、どのように入手できますか。東京のある新聞が要点を書き、センセーションを巻き起こした」とある。カッコ内はこの記事を書いた記者の補注であるが、クロパトキン将軍が革命的な本を書いたとは初耳である。クロパトキン(ロシア語のオは日本語のアに近く発音される)家は帝政時代の名門貴族であり、多くの俊秀を輩出した。二葉亭のいうクロパトキンはいうまでもなく生物学者で無政府主義者のピヨートル(ピーター)・クロポトキン侯爵(後半生ロンドンで活躍した)、つまり当時の社会ダーウィン主義や優生学に反対し、生物学的共生の概念にもとづくユートピア社会主義を提唱したひとであり、のちに堺利彦や宮沢賢治にも大きな影響をあたえた。社会主義に関心をもつ二葉亭四迷が、ロシア極東軍司令官などに興味をもつはずがないだろう。 

 また同じく「毎日」(6・5)に、パリの治安悪化が報じられていたが、暴漢が警察車輛を止め「機関銃を乱射」とあって、ギャングもここまで重武装したかと驚いたが、文中AK47銃と書かれ、自動小銃であることがわかった。この記者は自動小銃と機関銃の区別もつかないのか、とこれもまた驚いたしだいである。口径は同じ(AK47自動小銃は7.7mm)で、同じく自動連射が可能でも、機関銃は1分間あたりの発射量が大きく、また炸薬量がちがい、したがって初速(発射速度)が早く、装甲貫徹力や射程距離がはるかに大きい。それに応じて銃身が長く(空挺部隊用の短機関銃は別として)、発射機構や冷却機構も複雑で全体は重い。軍用装甲車ならぬ警察車輛を襲撃するには、重くて扱いにくい機関銃などは不要である。 

 そのほか、これは毎日にかぎらず、英語の人名発音の表記が誤っているのも気がかりである。たとえば、昨年の共和党合衆国大統領候補マケイン氏が指名した副大統領候補がサラ・ペイリンとどの新聞・テレビにも表記され、発音されていたが、英語のSarahはセラである。また巨額詐欺事件で逮捕されたNASDAQ前会長はメイドフMadoffであってマドフではない。マスメディアには私などがおよびもつかない英語の達人が多いと思うが、なぜだろう。 

 とにかくこれらは、メディアの記者たちの知的レベルの低下を示しているのだろうか。気がかりである。


〈食と農〉シンポジウム開催の主旨

2009-06-04 21:38:39 | シンポジウム

 

シンポジウム開催の主旨

               知と文明のフォーラム代表 北沢方邦

ガンなどの文明病の根源である残留農薬や食品添加物汚染問題、バイオエタノール生産にともなう食料価格の世界市場での高騰、地球温暖化がもたらす食料危機、とりわけ食料自給率が低く、遠距離の輸入食料輸送に依存するわが国の食料安全保障体制の脆弱性など、食をめぐる問題が年々深刻化しています。
 
 
また食の問題は健康問題に直結し、医療費の増大は個人だけではなく、国や世界の保健医療体制とその財政基盤をもゆるがしています。予防医学が声高に叫ばれていますが、いまや病気とはなにか、健康とはなにかが根本的に問われる時代であるといえます。

なぜなら近代の文明や思想は、人間の「身体性」を置き去りにし、知識と観念のみで合理性や利便を追求してきたからです。病院や医薬品へ一方的に依存するのみで、みずからの身体の自己管理さえできない「先進諸国」のひとびとは、この点で、薬草の利用法や応急手当などに熟知した、誤って未開とよばれるひとびとの生活知に劣っているといわなくてはなりません。むしろわが国は、かつて東洋医学の先進国であったにもかかわらず、その遺産を長い間忘却してしまったのです。

 地球温暖化に代表され、人類の存続にかかわる環境危機も、人間の内なる自然である身体性をないがしろにし、したがって大自然そのものをもたんなる資源とみなしてきた近代文明が、必然的にもたらしたものといえます。いまやわれわれの思考体系を変え、身体性を文明の新しい出発点に据えないかぎり、これらの危機の解決への出口は見えません。

 そのうえ経済グローバリズムの崩壊によって、世界的な経済危機のさなかにある現在、ポスト・グローバリズムの世界の構想にとっても、「食」の問題はひとつのキーワードとなります。なぜなら、自然エネルギーの開発と結びつく有機農法などによる農林漁業の「変革」は、村落コミュニティの再建とともに、新技術や新雇用を創出し、文明全体を変えるエコ・ソリューションのひとつの基盤となりうるからです。