一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【128】

2012-07-29 10:19:33 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【128】
Kitazawa, Masakuni  

 本格的な夏の訪れである。樹間を吹きわたる風は涼しく、まだ一度も冷房は入れていないが、陽射しは強く、蝉がかまびすしい。今年はヤマユリが遅く、いま満開であり、ヴィラ・マーヤの庭を歩くと、馥郁とした香りが鼻腔をくすぐる。

ロンドン・オリンピック狂想曲  

 ロンドン・オリンピックが開幕し、例によってメディアの狂想曲が蝉以上にかまびすしい。

 たしかに個々の競技は見るに値するし、息を飲むものは多い。開幕前にはじまったサッカーの予選で、日本チームが優勝候補のスペインを破った競技など、見ごたえがあった。圧倒的な攻撃力を誇るスペインに十分な攻撃態勢をつくらせず、果敢にボールを奪っては逆襲する日本チームのスピード感には唸らされた。

 だがいまや国際的な制度としてのオリンピックには、大きな疑問がつく。まず旧来からの問題は、ナショナリズムの高揚と強化にそれはつねに貢献することである。1936年のベルリン・オリンピックがナチズムに利用され、「世界に冠たるドイツ国」または「ドイツ民族」意識の高揚に恐るべき力を果たしたことは知られている。それをみごとに映像化したレニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』は、いまなお映像によるナショナリズム喚起の力を十分に示している。戦後もこのことへの反省はほとんどなく、戦後独立した多くの国々にとっても、オリンピックは国民のナショナリズム高揚の絶好の手段となった。

 いうまでもなくナショナリズムとは、母語や文化を通じて人間に本来そなわる種族アイデンティティや意識ではまったくなく、近代国家の統合と維持をはかる国家のイデオロギーであって、人工的な疑似アイデンティティにほかならない。人為的に植民地として分割された境界をそのまま国境として継承した新興諸国にとっても、ナショナリズム・イデオロギーは絶対的に必要であったのだ。だが多種族国家では、それをだれが担うかが大問題となる。アフリカで多発する政治的内部紛争、あるいは現にシリアで拡大している悲惨な内戦(この場合は宗派であるが)などは、多数種族と少数種族の国家の支配権とナショナリズムの正統派の争いだといっても過言ではない。

 第2の問題は、これだけ巨大化し、これだけ莫大な費用を要するオリンピックの開催は、もはや経済的に貧困な世界の大多数の国々にとっては永遠に不可能だということである。いわゆる先進諸国間のたらい回しか、せいぜい中国・インド・ブラジルなどといった一部の新興国の「国威発揚」に寄与するだけとなろう。オリンピックそのものの簡素化や数カ国連合での開催や数都市連携での開催など、さまざまな工夫でそれを避けることはできる。

 第3は、巨大化や経費高騰の原因となったサマランチ時代以来はじまったコマーシャリズムの導入やアマチュアリズムの廃止である。これがオリンピックの性格の根本的変化、しかも悪い変化をもたらしたのだ。メディアをはじめ巨額の収入がそれによってえられることになったとしても、この変化がオリンピック制度そのものの頽廃をもたらした。

 石原都知事がご執心の東京への再度のオリンピック招致に、都民が冷淡であるというのはいい兆候である。ナショナリズムに踊らされないだけひとびとの意識が成熟した証かもしれないし、それだけの巨額の費用は、貧困対策や雇用対策あるいは福祉対策などに回してほしい、という暗黙の合意かもしれないからだ。

 メディアのオリンピック狂想曲をみるたびに、これらのことを痛感する。

ヒッグス粒子狂想曲補遺  

 前回のヒッグス粒子狂想曲について疑問が寄せられたので、それに応えておきたい。つまり一般の報道ではヒッグス粒子は第17番目の素粒子であり、これで素粒子はすべて発見されたというが、なぜ18個であるか、である。  

 18番目は「重力子(グラヴィトン)」とよばれる仮定の素粒子である。これは重力を担う素粒子とされるが、まったく仮定であるだけではなく、それ自体が「標準理論」の根本的矛盾を表している。  

 つまり物理学的な力は、重力、電磁力、原子核の強い力、同弱い力の4つであるとされているが、標準理論では、その重力を除く3つの力しか記述できない。素粒子のレベルでは重力は検出できないからである。だが巨視的な世界ではたしかに重力は存在するから、「重力子」という架空の素粒子を措定せざるをえない。  

 4つの力すべてを記述できる理論(それがストリング理論である)ではなく、したがって宇宙すべてを統合的に説明できない標準理論が、重力子なるものを措定せざるをえないところに、標準理論の矛盾と破綻が現れている。


楽しい映画と美しいオペラ―その41

2012-07-23 10:38:18 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その41

笠智衆と7月の花菖蒲
         
―渋谷実監督『好人好日』




 私は『好人好日』のテレビ放映を観ながら、人間の「格」ということを考えていた。主人公の、数学以外にはほとんど関心のない、おそらく生活能力も覚束ない老教授に、品格の高さを感じとったからである。

 笠智衆は例によって、朴訥とした演技で、老教授を演じる。いや、彼は演じるのではなく、ただ存在する。映画俳優にとって何よりも大切なものは、存在感である。演技力ではない。新劇の俳優が映画に向かないのは、演技をしすぎるからだ。その過程で存在感が失われる。演技をしなければ存在感が滲み出るかというと、もちろんそうはいかない。それでは存在感とは何か、そして品格とは何だろうか。

 夏の初め、私は何度も菖蒲園に足を運んだ。自転車の散歩道の途上に小岩菖蒲園があり、花の盛りはもちろんのこと、数輪の開花しか見られない5月の末から訪問を始めた。そして今日、7月の18日は、咲き競った残がいが見られるだけである。しかし所々に、最後の生命力を吹き込まれたように、白い花が咲いている。盛期の華美は求めるべくもないが、しぼんだ花々の中に飄々と立つその姿に、言うにいわれぬ品位を感じたのだった。

 この7月の花菖蒲は笠智衆ではないか、ふとそう思った。そうであるならば、彼の存在感もまた、この花のなかにあるはずである。それは、「自然」そのものが持つ生命力なのかもしれない。力強く、かつ移ろいゆくもの。そしてそのはかなさを感受しうる人間にのみ、品位というものが備わるような気がする。

 この老教授は、生まれたままの無邪気さを持っている。近所の子どもとTVのプロ野球を楽しむかと思えば、ボクシングに興じることもある。子どもは友達のように老教授を扱い、偉い先生だとはつゆほども思わない。この事実は、老教授が、他者と思いを共有できる能力を持っていることの現れである。

 文化勲章を授与された夜、教授夫妻は本郷の安宿で泥棒に押し入られる。面白いことに教授は、泥棒のことまで気に掛る。暗闇で物色する泥棒に灯を向けてやるのだ。三木のり平がいかにも気のいい泥棒を演じて、ここは日本の喜劇映画のなかでも出色の場面であろう。他者に共感できる能力、これも人間の品位と大いに関係がある。

 老教授の潔い合理精神も、現代人が失って久しいものではないか。娘の結婚にあたって、結婚式などしなくていい、と妻に言う。豪華な式を挙げて、数カ月で離婚した者もいる、と。そんな教授が文化勲章をもらう気になったのは、何よりもお金のためだった。月末にはコーヒーを飲む金にも不自由していたのである。

 奈良に住む、貧乏だが世界的な数学者、しかも文化勲章の受章者となると、誰しも岡潔を想定する。枠組は岡潔から借用したとしても、この映画の老教授は、岡を遥かに超えた、爽やかな存在である。

1961年 日本映画
(2012年7月10日 NHKBSプレミアム放映)
監督:渋谷実
原作:中野実
脚本:松山善三・渋谷実
撮影:長岡博之
音楽:黛敏郎
出演:笠智衆、淡島千景、岩下志麻、川津祐介、乙羽信子、北林谷栄、三木のり平

2012年7月18日 j-mosa


9月29日コンサートで写真展

2012-07-17 09:12:53 | コンサート情報

9月29日のレクチャーコンサート「グエン・ティエン・ダオの世界」当日、

このブログでも紹介のあった写真家高島史於さんのベトナムを題材とした写真をコンサート会場ロビー(ホワイエ)にて展示されます。申し訳ありませんが、ご覧いただけるのは、コンサートにご来場の方のみとなります。(追加料金は発生しません)。
西欧文化の中で形成された「現代音楽」というジャンルの中に、活き活きと息吹続けるベトナムの心を、感じるよすがとなる素晴らしい写真の数々です・・・

高島史於 かしま ふみお
★プロフィール 
64才 日芸写真、1995年からの16年間に117回の海外取材を通し、
写真と文で各国の文化、生活を雑誌に発表。2009年、韓国仁川市の広報大使。
東京下町に生まれ心持ちを伝える写真を心掛ける。
(有)カインド 日本舞台写真家協会会員 日本ベトナム友好協会会員
http://www.jsps.info/


グエン・ティエン・ダオ関連協力コンサート セット券有

2012-07-15 12:41:10 | コンサート情報
9月29日 レクチャーコンサート「グエン・ティエン・ダオの世界」の関連協力企画コンサートをご紹介します
 
カルチエドトンヌ2012 グエン・ティエン・ダオ コンセールポルトレ
QUARTIERS D'AUTOMNE 20I2
カルチエドトンヌ2012
グエン・ティエン・ダオ コンセールポルトレ
弦楽作品集
Nguyen Thien DAO CONCERT PORTRAIT


2012年9月28日(金)19時開演
19h00 vendredi 28 septembre

杉並公会堂小ホール

JR/メトロ 荻窪駅
Suginami Koukaidou Salle Récital
JR/Métro OGIKUBO

ヴァイオリン 印田 千裕 
 violon Chihiro INDA
ヴァイオリン 花房 照子
 violon Akiko HANAFUSA
ヴィオラ 中山 良夫
 alto Yoshio NAKAYAMA
チェロ 津留崎 直紀
 violoncelle Naoki TSURUSAKI


■ヴィオラ独奏のための スケルツォ・ヴィーヴォ
□SCHERZO VIVO pour alto solo (1999)

■チェロ独奏のための アルコ・ヴィーヴォ
□ARCO VIVO pour violoncelle solo (2000)

■弦楽四重奏曲第1番
□QUATUOR À CORDES nº1 (1991)

ほか

※プログラム等は変更される場合がございます。
 le programme n'est pas définitif

チケット (2012年8月20日(月)発売開)
〈全席自由〉
一般  \3000
学生 \2000
児童 \1000
パスリゾーム・会員 
各\500引 
助成 公益財団法人アサヒビール芸術文化財団
 このコンサートと、29日のレクチャーコンサートの両方に参加される方に、お得なセット券を販売いたします。
一般5000円
学生3000円
(前売りのみ。カンフェッティでは対応しておりませんので、「知と文明のフォーラム」および「カルチエドトンヌ」主催者カルチェミュジコへ直接お申し込みください。)

 

北沢方邦の伊豆高原日記【127】

2012-07-06 07:13:26 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【127】
Kitazawa, Masakuni  

 わが家の遅咲きのアジサイが満開である。土壌が酸性かアルカリ性か、あるいは中性かで花の色が変わるが、隣りあっているのに、片方は赤紫、他方は青である。今年は雨が多かったせいか、庭一面の苔が、踏みしめると鮮やかな緑の分厚い絨毯のような感触で迎えてくれる。

ヒッグス粒子狂想曲  

 ヨーロッパ核研究センター(CERN)のLHC(大ハドロン衝突機)での実験で、「幻のヒッグス粒子」、発表によれば「ヒッグス粒子らしきもの」が検出されたと、世界中のメディアが大騒ぎである。  

 素粒子物理学の「標準理論」または「標準モデル」によれば、宇宙を構成する物質の究極の単位は「素粒子」であり、18個あるとされるが、そのなかのヒッグス粒子だけは未発見とされてきた。いまから約137億5千万年まえに起ったとされる宇宙のビッグ・バン時に、超高温・超高圧下で保たれていた宇宙の対称性は、10のマイナス12乗秒時で急激に冷却され、対称性を自発的に失ったとされる(南部陽一郎博士の理論)が、そのとき飛散した多くの素粒子が「ヒッグス場」つまりいわばヒッグス粒子の海で沐浴することで質量をえたとされる(光子など質量のない粒子も依然として存続したが)。つまりヒッグス粒子は宇宙の質量の生みの親とされる(ピーター・ヒッグス博士の理論)。  

 原子核を構成するプロトンなどの重い粒子をハドロンというが、これを衝突させて破壊することによってヒッグス粒子が検出できるのではないかという主目的でLHCは建設され、14テラ(兆)電子ヴォルトという目下世界最大の出力を誇る衝突機である(日本のメディアでは「加速器」とされているが、加速器[アクセレーター]は線形でターゲットに衝突させるが、衝突機[コライダー]は円形であり、中央で粒子相互を衝突させる)。  

 何百兆回繰り返した実験で、既定の粒子に同定できなかった素粒子約2千が検出され、統計的にヒッグス粒子に同定可能とされたものである。それが「標準理論」の枠組みを最終的に完成させる大発見であることはたしかであるだろう。  

 だが問題は「標準理論」そのものである。いまや20世紀後半、物理学を絶対的に支配してきた標準理論の王座は確実にゆらぎ、黄昏の色をおびている。この宇宙を構成する無数の銀河が表している目にみえる物質やエネルギー、つまり標準理論のあつかう対象は宇宙の全質量のわずか数パーセントにすぎず、まったく目にみえない暗黒物質や暗黒エネルギーとその巨大な重力が、この宇宙を支配している。だがそれがいったいなんであるのかいまのところまったくわかっていない。  

 さらに21世紀有力となってきたストリング理論は、標準理論をその一部として包括しながら、まったく新しい視点から世界像や宇宙像を創りなおしつつある。このヒッグス粒子とされるものも、われわれの3次元空間という「ブレーン」(3次元全体がブレーンつまりある種の目にみえない「膜」とされる)を突破して異次元に飛散するループ・ストリング──普通のストリングは3次元空間ブレーンを超えられない──であるという解釈もできなくはない。

 暗黒物質や暗黒エネルギーといった「隠されたリアリティ」、あるいはこの目にみえる宇宙に多くの宇宙が重ね合わせの状態で存在するとされる多重世界のリアリティなど、ストリング理論の最先端では、多くのすぐれた頭脳がこれらの問題に挑戦し、苦闘をつづけている。  

 近代的思考の延長上で微視的世界の探求をはかり、答えを見いだそうとした量子力学から標準理論にいたる道は、多くの近代科学同様、袋小路に逢着したといっていい。ストリング理論の開示する道、だがまだ多くの謎や霧に包まれた道は、しかしながら脱近代の知とはなにかという問いに確実に応えようとしている。  

 「フクシマ」によっていわゆる原子力ムラの閉鎖的構造が明らかとなったが、わが国では原子力ムラにかぎらず、また自然科学・人間科学を問わず学界はきわめて閉鎖的であり、メディアに送り込まれた人材も、多分にその体質を受け継いでいる。学界やメディアが袋小路に陥った近代科学を超えて未来を展望できないのも当然といえよう。  

 われわれはいまこそ「ヒッグス粒子狂想曲」を超えて、脱近代の知、さらには脱近代文明そのものを展望しなくてはならない。