一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その23

2009-09-29 10:54:30 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラその23

      オペラの値段――
           
ミラノ・スカラ座とバーデン市立劇場

 芸術の秋という訳でもないが、今月は偶々オペラを3本観ることになった。ヘンデル、モーツァルト、ヴェルディと、とりわけ私の好きな作曲家の作品である。内容的にもそれぞれ大変興味深い上演だったが、今回は主としてオペラの入場料について書いてみたい。3上演の入場料に興味深い特徴があるし、オペラの入場料についてはよく質問を受けるからである。オペラの値段は高そうだ、というのはどうやら一般的な憶測のようでもある。

 確かにミラノ・スカラ座の入場料は高かった。出し物は『ドン・カルロ』で、これは1年も前から心待ちにしていたものである(13日、東京文化会館)。ヨーロッパのメジャー・オペラハウスの来日公演などほとんど観に行ったことはないのだが、演目とオペラハウスのこの組み合わせには格別の魅力があった。B席に40,000円(NBSの会員割引)もの大金をはたいた。そしてこの上演は、その投資額に十分に値するものだった。

 席は2階右翼の最前列。オペラグラスを用いずとも歌手の表情がよく見える。王妃エリザベッタを歌うバルバラ・フリットリを間近に見られたことはことのほかの僥倖。このオペラは何といってもエリザベッタのオペラである。王への忠誠と、義理の息子カルロとの愛の狭間で苦悩する彼女はまた、神と政治にも向き合わねばならない。まさに悲劇の王妃である。美しさと優しさ、それに稟とした強さ――これらを備えたソプラノはそういるものではない。フリットリはその数少ない存在であろう。

 このオペラはまた、フィリッポ2世、ロドリーゴ、宗教裁判長と、バスとバリトンが活躍する演目でもある。それぞれ実力のある歌手が揃い、聴き応えは十分。ダニエレ・ガッティの指揮するスカラ座のオーケストラも、ヴェルディの抒情と壮麗さを見事に表現した。

 次に観たのはヘンデルの『オットーネ』である(23日、北とぴあ)。ヘンデル没後250年を記念して日本ヘンデル協会が主催した上演で、指揮者の他はすべて日本人が出演した。主役のオットーネにカウンターテナーを起用し、オーケストラも古楽器を使用するなど、意欲的な上演ではあった。ただ、その意欲と表現されたものの間には、いささかの乖離がみられた。イギリス人指揮者の音楽作りには共感するところがあったものの、歌手、オーケストラともに、表現力に不足するものがあった。この上演は全席自由席で入場料が8,000円。ちょっと高いな、というのが正直な感想である(プログラムは充実した出来)。

 さて最後は『ドン・ジョヴァンニ』(26日、ミューザ川崎)。このチケットは、3,000円でモーツァルトのオペラが観られるという理由で買った。ウィーンの森・バーデン劇場という存在はまったく知らなかったし、二期会や藤原歌劇団の上演よりも安い入場料ゆえ、じつは期待もそれほどしていなかった。ところが嬉しいことに、予想外の素晴らしいモーツァルトを聴かせてくれたのである。私はためらうことなくブラヴォーを叫んだのだった。

 バーデン市立劇場はここ数年、毎年来日公演をしているようだ。今回の『ドン・ジョヴァンニ』も全国18か所での公演が予定されているらしい。日本公演にあたっては、毎年ソリストをオーディションで選んでいるという。ドン・ジョヴァンニはじめ主要キャストはダブルキャストで、日本で名前の知られている歌手はいない。しかしどの歌手も安定した歌いぶりで、芝居にも無理がない。とりわけドンナ・アンナを歌ったエステファニア・ペルドォモというスペイン生まれの歌手は素晴らしかった。最後のアリア「どうか言わないでください、いとしい人」は難曲だが、危なげもなく、きめ細やかに歌いきった。もう少し声に柔らかみが加われば、世界の檜舞台に出ていく人ではないだろうか。

 演出はオーソドックスなものながら、随所に気の利いた心配りをみせて、とても楽しい。オーケストラは27名と小編成で、その分軽快感にあふれている。モーツァルトの香りも十分に伝えてくれた。指揮者のクリスティアン・ポーラックの手腕だろう。

 席は4階左翼の最前列。一番安い席ながら舞台に近いだけに、歌手の表情もよく見てとれた。これはコストパフォーマンスのすこぶる高い上演だといえるだろう。しかし客の入りは60%くらい。何とももったいないことである。  

 結論を急ぐことにしよう。オペラの値段ははたして高いのだろうか。残念ながら答えは簡単ではない。『ドン・カルロ』には40,000円を投じたが、それに見合う価値はあった。安くはないものの、けっして高いものではなかったということだ。『オットーネ』はどうか。8,000円という金額はそれほど高額ではないけれど、受けた感銘は小さかった。残念ながら高いオペラだったということになる。『ドン・ジョヴァンニ』についてはもう言うことはない。いいオペラがこれほど安い値段で聴けたということは奇跡というほかはない。関係者の皆さんの努力に感謝したい。そしてその努力が、日本にオペラ愛好家をひとりでも増やすことに資するなら、まことに嬉しいことである。

●追記:公平を期すために、それぞれの公演の最高・最低席の値段を記す。
ドン・カルロ=59,000円/13,000円
オットーネ=8,000円/8,000円
ドン・ジョヴァンニ=12,000円/3,000円

『ドン・カルロ』
ドン・カルロ:スチュアート・ニール
エリザベッタ:バルバラ・フリットリ
フィリッポ2世:ルネ・パーペ
ロドリーゴ:ダリボール・イェニス
宗教裁判長:アナトーリ・コチェルガ
エボリ公女:アンナ・スミルノヴァ
ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団
指揮:ダニエレ・ガッティ
演出・舞台装置:シュテファン・ブラウンシュヴァイク

2009年9月13日 東京文化会館

 『ドン・ジョヴァンニ』
ドン・ジョヴァンニ:セバスティアン・ホロツェック
ドンナ・アンナ:エステファニア・ペルドォモ
ドンナ・エルヴィーラ:リタァ・シュナイダー
ドン・オッターヴィオ:ヴァレリィ・セルキン
レポレッロ:フゥベェルトゥ・クロッスセェンス
騎士長:ファルマァル・サァルゥ
ツェルリーナ:エヴァ・クゥムプミュロェァル
マゼット:イゴォロ・レェヴィタン
モーツァルティアーデ管弦楽団
バーデン劇場合唱団
指揮:クリスティアン・ポーラック
演出・監督:ルチア・メシュヴィッツ

2009年9月26日 ミューザ川崎シンフォニーホール

 2009年9月27日 j-mosa


北沢方邦の伊豆高原日記【66】

2009-09-14 21:05:53 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【66】
Kitazawa, Masakuni  

 桜や梅の樹々の葉が色づきはじめているのに、まだ蝉時雨である。夜は、すだく秋の虫の音が心地よくかまびすしい。ただ何度も書いたが、虫の種類は恐ろしく減っている。生物多様性が地球の生命を護り、人間にとっても住み良い環境をもたらすのに、現実は逆行している。

身体的喜びとしての芸術や思想 

 コレクションというほどではないが、室内にパプアやアフリカ、あるいはアメリカ・インディアンなどの仮面や彫刻を飾っている。いつ見ても飽きることはないが、それがなによりもデザインの新鮮さや形や色調の美しさといった、視覚的であるとともに身体的な喜び(フィジカル・プレジャー)からきていることに気づく。そして同時にその喜びが、それぞれに特徴的な秘儀的な宇宙論をおぼろげに喚起する。 

 感覚的で具体的なものを通じて精緻な論理を展開する、誤って未開と呼ばれている諸文化の思考体系を明らかにしたのはレヴィ‐ストロースであるが、われわれの祖先たちも、身体的な喜びをともなう芸術的表現と思想や宇宙論が不可分であることを示してきた。『古事記』や『万葉』といった言語表現だけではなく、御神楽などのパフォーマンスや建築や絵画にいたるすべてがそれである。 

 このわが国固有の精密な感性の論理を見落とした、あるいはまったく気づかなかったがゆえに、丸山真男流の日本思想史は挫折せざるをえなかったといってよい。また多くの「戦後民主主義者」の日本論が誤ってきたのもその点からである(そうかといって右翼的日本論や日本人論もイデオロギーが逆であるだけでまったくの観念論である)。 

 彼らが依拠してきた学問的方法論は、構造主義以前の伝統的な諸観念論――主観主義と客観主義とに二元論的に分裂していて、主観主義のみを「観念論」と名づけてきたが、客観主義もその裏返しの観念論にすぎない――であり、誤って「理性」と「感性」とを分裂させてきた。学問は理性と知性の作業であって、感性や感覚といった非合理的なものとはかかわりがない、というものである。こうした二元論で「未開」や古代の思想や宇宙論が理解できるはずがない。 

 構造主義の画期的な点はここにある。それらの思想だけではなく、たとえばいまわれわれの味覚や料理といったもっとも感覚的に思われるものでさえも、その方法によって科学的に分析可能なのだ(たとえば私の「いなり寿司」の構造分析をお読みいただきたい〔『知と宇宙の波動』平凡社1989年、第五章参照〕)。

音楽の観念論 

 音楽はもっとも感覚的な芸術と思われてきたが、西欧の古典音楽は、こうした古代や「未開」の芸術と同じく、理性と感性の精妙な均衡のうえに展開してきた。バッハやヘンデル、あるいはモーツァルトやベートーヴェンの諸作品の深い魅力はそこにある。彼らの音楽のかもしだす身体的な喜びは、同時に彼らの思想の深みを開示してくれる。 

 ロマン派音楽は、こうした古典派への反逆ではなく、18世紀末からはじまった産業革命に代表される経済的合理主義の社会、つまりロマン主義者たちの嫌悪した「ブルジョア(ビュルガー)的俗物社会」の合理主義(理性至上主義)への反逆であった(シューマンの『謝肉祭』は、終曲で、当時流行の「先祖の踊り」に象徴される「俗物性」に対抗してそれを粉砕するダヴィッド同盟員の行進で終る)。 

 だが、感性というよりこの「感情または情念の反逆」は、それ自体、しだいに観念論の罠に陥る。ブラームスの苦渋に満ちた「矛盾」(感情と観念との相克)や、後期ワーグナー、とりわけ『指輪』の指導動機の迷路での彷徨から、マーラーにいたるポスト・ロマン主義は、情念の膨大な流れを観念によって閉じ込めようと苦闘する。 

 この「感情の観念化」から音楽を解放し、音の純粋な身体的喜びを回復しようとしたのがドビュッシーの束の間の「革命」であるが、むしろ時代の閉塞感や暴力化は、20世紀音楽をより抽象的な観念化の袋小路に誘うこととなった。それが12音やミュジーク・セリエルである。今世紀なっても、作曲技法だけは新しいが、こうしたニヒリズムから脱出できない音楽や、思想も宇宙論もなく、ただ微細な感覚的喜びだけを追求する音楽が、依然として会場に溢れている。 

 こうした状況のなかで私が西村朗や新実徳英の諸作品を高く評価するのは、彼らの音楽が芸術本来の身体的喜びを感じさせ、日本やアジアの古代宇宙論を遠く喚起しながら、しかもわれわれ現代に生きるものの共鳴を呼び起こす「音の思想」を表現しているからである。 

 最近現物ではないが、田村能里子の天竜寺塔頭宝厳院本堂の襖絵「風河燦燦」の写真を見る機会をえた。燃えるような緋色の地に、白くおぼろな菩薩の化身三十三人衆が、自在な姿で浮かび上がる幻惑的な絵に、すっかり魅入られてしまった。視覚芸術の身体的喜びを通じて「彼岸」あるいは「浄土」のヴィジョンが啓示される。アクリルという西洋画の技法を通じてアジア的宇宙論が表現されるこの様式に、西村や新実の作品との思想的共通性を見出した。 

 最近のこうした芸術動向に、私は新しい希望を見る。なぜならそれらは脱近代の文明を先取りしているからであり、実はこの感性と理性との動的な均衡こそ、私のいう弁証法的理性、つまり真の理性の実現にほかならないからである。


楽しい映画と美しいオペラ―その22

2009-09-07 10:09:12 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その22

     ドミンゴ、バロック・オペラに命を吹き込む
                  
ヘンデルの『タメルラーノ』  

 ベートーヴェンのもっとも敬愛した作曲家はヘンデルであったらしい。これは青木やよひ先生から教わった話だが、ちょっと意外だった。ボン時代の若きベートーヴェンは、ピアノの練習にバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を教材にしたという話も聞くに及んで、バッハこそベートーヴェンの理想の音楽家像であったにちがいないと勝手に思い込んでいた。  

 ヘンデルは40を超えるオペラを作曲している、音楽史上有数のオペラ作曲家である。その正統の後継者はモーツァルトではないかというのが、ヘンデルのいくつものオペラを聴いてきた私の素朴な感想でもあった。ベートーヴェンのオペラは『フィデリオ』1曲のみである。それにベートーヴェンの構築的な、壮麗な音の世界は、やはりバッハに源流があるのだろうとも思っていた。  

 私を含めて日本の音楽愛好家は、ヘンデルを知らない。6月23日付けの当ブログ「ヘンデル没後250周年」で北沢方邦先生が書かれた、〈壮麗な音のバロック建築を作り上げた〉ヘンデルの真の姿は、私の眼前でヴェールに包まれたままである。その姿こそ、ベートーヴェンが敬愛してやまないヘンデルその人であるのだろうが。  

 そんな隔靴掻痒の気分でいた8月22日に、NHKのBShiで、ヘンデルのオペラ『タメルラーノ』が放映された。『ジュリオ・チェーザレ』『ジュスティーノ』『アルチーナ』『アリオダンテ』『オルランド』『アグリッピーナ』に次ぐヘンデル・オペラ体験で、分厚かった私の眼前のヴェールも、少しずつ剥がされていくような気分になってきている。今回の『タメルラーノ』は、ドミンゴがバヤゼットを歌うというので、何週間も前から心待ちにしていたのである。  

 タメルラーノとは、14世紀後半から15世紀初めにかけて、「東は中国の辺境から西はアナトリアまで、北は南ロシアの草原地帯から南はインド北部に至る広大な地域を支配下に置き、中央アジア史上空前絶後の大帝国を建設した」(『世界大百科事典』)ティムールの、ヨーロッパにおける呼称である。青年時代に右脚に不治の重傷を受け、そのために「跛者ティムールTimur-lang」(ペルシャ語でティムーリ・ラング)と呼ばれ、これがヨーロッパに伝えられてタメルランTamerlaneとなったらしい。タメルラーノはそのイタリア語呼称である。  

 1402年7月、タメルラーノはバヤゼット1世率いるオスマン・トルコとアンゴラ(アンカラ)で戦い、勝利した。このオペラは、そのとき囚われたバヤゼットとその娘アステリア、タメルラーノと同盟の関係にあるギリシャの王子アンドロニコ、それにタルメラーノの4人が繰り広げる、愛と憎しみの物語である。  

 オペラのタイトルは『タメルラーノ』だが、ここでのタメルラーノには、私たちが「ティムール」という名前から想像する、好戦的で威圧的な雰囲気はまったくない。心ならずも好きになってしまった宿敵の娘アステリアの行動に振り回される、どこか人のいい君主なのである。演じるバチェッリも、見事なバロック唱法を披歴しながら、バレエを踊るような軽やかな動きを見せる。対してバヤゼットは、囚われの身を嘆き、タメルラーノへの憎しみを露わにし、娘への愛に苦悩する。バヤゼットこそ、このオペラの主役なのである。  

 テノールが主役というと、19世紀以降のオペラでは一般的だが、ヘンデルの時代まではそうではなかった。去勢をしたカストラートが主役で、その華麗な技巧を競い合うのがバロック・オペラであったのだ。『タメルラーノ』は、テノールが主役となった、オペラ史上初の出し物かも知れないという(堀内修氏)。ドミンゴは、オテッロ、ローエングリン、ドン・ホセ、カヴァラドッシなど、余人ではなし得ない輝かしいキャリアを積み重ねた後、68歳にしてはじめて、テノール主役の原点に返ったのだ。その冒険精神には敬意を表さずにはいられない。  

 ドミンゴはやはり稀有なテノールである。彼が歌うことによって、現実感がいささか希薄なバロック・オペラが、人間の相貌を濃くしはじめる。憎しみ、哀しみ、愛という人間的な情感が、まことにニュアンス豊かに歌われる。とりわけ第3幕冒頭のアリアの美しい気高さ、そして10分間にも及ぶ自害の場面の、劇的で深味のある演技。まさにドミンゴならではのバヤゼットである。  

 バヤゼットの娘アステリアは、アンドロニコを愛しながらも、また復讐心を秘めながらも、タメルラーノの求婚を受け入れようとするのだが、その状況にふさわしく、悲しみに満ちた美しいアリアが与えられている。アンドロニコとの二重唱も、うっとりするほど美しい。ヘンデルの優れたメロディーメーカーぶりがいかんなく発揮されている。アステリア役のインゲラ・ボーリンもいいし、アンドロニコ役のサラ・ミンガルドもいうことはない。バヤゼットの自害の後、タメルラーノに慈悲心が生まれ、アステリアとアンドロニコは結ばれる。幕切れ直前のタメルラーノとアンドロニコの二重唱がまた印象的である。  

 指揮はイギリスのポール・マクリーシュ。ヘンデルの権威だということだが、ドミンゴと並んで、この上演を成功に導いた功労者といっていいだろう。軽快で、躍動感に富み、時に劇的、時に情感に溢れと、4時間近い上演を飽きさせない。舞台を白一色で統一し、タメルラーノの衣装にはラメをふんだんに施すなど、美術・衣裳は洗練の極み。演出にも強い説得力があり、この上演は、それこそ総合芸術というに足りる、第一級のものといえよう。

2008年4月1日・4日 マドリッド王立歌劇場
バヤゼット:プラシド・ドミンゴ
タメルラーノ:モニカ・バチェッリ
アステリア:インゲラ・ボーリン
アンドロニコ:サラ・ミンガルド
イレーネ:ジェニファー・ハロウェイ
レオーネ:ルイージ・デ・ドナート
マドリッド王立劇場管弦楽団(マドリッド交響楽団)
指揮:ポール・マクリーシュ
演出:グレアム・ヴィック
美術・衣裳:リチャード・ハドソン
照明:ジュゼッペ・ディ・イオリオ
振付:ロン・ハウエル

2009年8月31日 j-mosa


北沢方邦の伊豆高原日記【65】

2009-09-02 19:29:58 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【65】
Kitazawa, Masakuni  

 9月に入り、急に秋めいてきた。3日は旧のお盆、つまり七月十五日の満月である。秋のはじまりを告げる七夕につづくお盆は、かつてはこうしたしっとりとした初秋の気配のなかで迎えた。夕闇にあちらこちらの門口で焚く迎え火の仄明かりと、苧殻(おがら)の燃える独特の香りがただようなか、大人も子どもも、彼岸あるいはあの世とはどんなものか、しばし瞑想にふけったものである。無意識の深みにアイデンティティや感性のよりどころを蓄積する、季節に応じたこれらほんとうの伝統行事は、もはやこの国から失われてしまった。

民主党の「圧勝」 

 メディアの予想どおり、民主党が「圧勝」した。高度成長時代の残滓を一掃する真の改革を実行せず、もっとも瑣末な「郵政民営化」つまり「郵政改悪化」というお粗末な「改革」を行っただけで、貧富の格差拡大や地方の切り捨て、福祉や医療の荒廃といったグローバリズムの負の遺産を残した「小泉改革」に対する審判として当然といえよう。鳩山新首相や民主党には大きな期待を抱けないが、これら負の遺産を少しでも改善できれば上出来といえる。そのためには、多くの大衆メディアが危惧している「小沢院政」を阻止し、社民党や国民新党とも対等に協力して、民主党や支持者たち全体の意思をまとめることであり、地道に真の改革を推進することである(幸いなことに、メディアのアンケートによれば、自民党と異なり、民主党当選議員の多数は憲法第九条改正に反対であるという)。 

 問題は、たとえば「官僚主導から政治主導へ」といっても、現行制度や体制の根本改革をしないかぎり、挫折するか、せいぜい半端な改革で終ることである。 

 近代民主制は、立法・行政・司法の三権分立体制といわれるが、わが国では立法が制度的・機能的にきわめて弱体である。それが行政府である官僚主導を生みだしてきた。高度成長期には、「先進諸国に追いつけ追い越せ」という国家目標や戦略がきわめて明白であり、国民にいたるまでその理念を共有していた。したがってそれに沿って官僚が描き、主導した青写真を政治は実行すれば済んでいた。 

 だがいまや、近代文明そのものが袋小路に陥り、グローバリズムは崩壊し、わが国に限らず世界全体が漂流状態にある。「政治主導」によって明確な国家目標や戦略を立てるためには、そうしたヴィジョンを生みだせるような体制や制度が必要である。 

 そのためにはまず、立法府の改革が必要である。たとえば参議院をアメリカの上院なみに改革し、議会スタッフを充実し、中・長期政策の立案と立法化を行う(今回民主党提案の「国家戦略局」設置は、現行制度のもとでは悪い案ではないが、大きく見れば政府つまり行政府に従属する一部局を作ることになり、立法府の自立を損なう)。 

 これは一例にすぎないが、わが国が近代民主主義に立脚するかぎり、三権分立の徹底化をはかり、制度の改革をはかるべきである。選挙目当ての党利党略に狂奔する現状(それは近代民主主義制度がもたらすもっとも悪い側面である)には、ほとんどの国民は飽き飽きしている。経済や社会の閉塞状況を打破する、少なくとも遠い仄明かりでも望めないとなれば、鬱積した不満や不安はどこに向かうか。歴史が教えるように、それはイデオロギーの左右を問わず強力な権力的指導者(フューラー)、または「ビッグ・ブラザー」への渇望となる。 

 民主党はそれをわきまえて欲しい。