一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

若き精鋭たちによる打楽器の饗宴

2007-03-30 15:39:51 | コンサート情報

上野信一企画による、若い演奏家によるマリンバ、マルチパーカッションのコンサートです。
それぞれ若いながらも堂々のキャリアの持ち主。
古典から現代まで、自慢のレパートリーを力演してくれるはず。
ハズレなし! 

    若き精鋭たちによるl打楽器の饗宴     

L'EXHIBITION  d'Art  de la Percussion
par des Jeune Musicien exceptionnel
 

出演者
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林 啓太
WATER & FIRE/Donald Skoog & lunarprelude/鷲見音右衛門
三宅まどか
Reflections on the Nature of Water/Jacob Druckmen
中村友子
Chaconne in d minor from Partita No.2 BWV 1004/J.S.BACH
小俣由美子
The Castle of the Mad King for Percussion solo.op.26/Neboja Jovan Zivkovic
大熊理津子
Prism Rhapsody for Orchestra and Marimba/安倍圭子
ピアノ伴奏★山本愛香

2007年4月27日(金) 
開場6:30pm 開演7:00pm
国立オリンピック記念青少年総合センター(小ホール)
東京都渋谷区代々木神園町3-1 ℡03-3467-7201
(小田急線・参宮橋駅から徒歩7分 地下鉄千代田線・代々木公園駅から徒歩10分)

全席自由●一般3500円●学生2500円
お問合せ●フォニックスプロモート ℡044-271-5645
または、〈知と文明のフォーラム〉宛てメール maya18_2006@goo.ne.jp まで

主催:J.S.P.M.S.(Japan Society for Percussive Music Studies.)
協賛:ヤマハ株式会社
協力: blue mallet  
㈱プロフェッショナル・パーカッション・ジャパン・パーカッション・センター


教育シンポジウム報告

2007-03-27 23:30:53 | 活動内容

公開シンポジウム【北欧の教育と日本の教育】報告 
―デンマーク・オランダ・フィンランドと日本を比較して―
「知と文明のフォーラム」★日本女子大学人間社会学部文化学科★同教育学科 共催
2007年3月3日(土)午後2時から 目白キャンパス香雪館202号室で開催されました。

――――――

森田伸子教育学科長の司会により
北沢方邦先生の挨拶ののち
古山明男 (古山教育研究所主宰)
伊藤美好 (『パンケーキの国で―子どもたちと見たデンマーク』著者)
リヒテルズ直子(翻訳・通訳業、教育問題研究家 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか』著者)
佐藤全 (日本女子大学人間社会学部教育学科教授) 
の4人のパネリストが発表を行ないました。
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古山氏がフィンランド
伊藤氏がデンマーク
リヒテルズ氏がオランダについて
学校制度、政治的事情、教育改革の経緯等について、日本の現状と比較しながら、
次に佐藤教授が教員養成の立場から日本の現状について。
――――――
 それぞれ具体的かつ興味深い内容で、
200名を越える参加者が熱心に聞き入り、
予定した休憩時間をカットして引き続き行なわれた質疑応答も退席者もほとんどなく、
充実した内容となりました。
終了後に行なわれた交流会も盛会でした。(文責 杉山直子)


伊豆高原日記【23】

2007-03-22 15:30:50 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【23】
Kitazawa,Masakuni

 寒桜のたぐいも散り、純白も鮮やかなコブシの花々も散り、山桜の類やソメイヨシノ、あるいはモモやレンギョウはまだ、と伊豆高原はちょっとした花の端境期である。わが家で唯一の花盛りはアセビ(馬酔木)で、常緑の葉叢を蔽って水泡のように白い無数の花房が溢れている。ただ、ウグイスをはじめ、小鳥たちの囀りが一段と華やかになった。

イラク開戦4周年

 3月20日(アメリカでは19日)、イラク開戦の日から4年が経過した。メディアではさまざまな特集が組まれたが、とりわけテレビではほとんど取りあげられず、わが国の映像メディアが視聴率をあげるための娯楽に専心し、「一国平和主義」ならぬ「一国快楽主義」に徹していかに文化的鎖国状態にあるか、思い知ったしだいである。

 そのなかではNHKのBS1が奮闘していたが、残念ながらドキュメンタリー番組はすべて外国のもので占められていた。NHKにかぎらず、わが国のニューズ・メディアのイラク取材が、せいぜいイラク人の助手が撮影したバグダッド市内の映像程度で、米軍の鉄壁に護られたグリーン・ゾーン内部での活動にすぎないことが、これもはからずも露呈してしまった。

 それに比べ、BBCや海外の独立系映像メディアの取材では、記者やカメラ取材者自身がかなり危険な地域に入りこみ、彼らの目で現実を抉り取るその迫力が、われわれを捉えてやまない。

アメリカの占領政策は存在したのか?

 それにしてもイラクの現実は、目を蔽うばかりである。開戦前のアメリカ上院の公聴会で、日系人としては最高の軍歴をもつ陸軍参謀総長シンセキ大将が、戦争そのものより占領後の治安維持が困難であるとして、最低20万の兵力が必要であると主張し、約10万程度の少数精鋭派遣で十分とした当時の国防長官ラムズフェルドに忌避され、退任に追い込まれたことはアメリカではひろく知られている。彼の主張はまさに正しかったのだ。

 もし占領後20万以上の米軍その他で治安維持をはかり、その間にイラクの文化やイスラーム文明を正しく理解した占領政策で復興を行ったとしたら、結果は大きくちがったものになっていたであろう。

 第二次世界大戦中、アメリカはたんに日本の情報収集だけではなく、戦闘そのものにも必要であり(日本軍の気質や戦術の傾向など)、また占領後の統治に不可欠であるとして、軍の日本研究センターをつくり、専門家たちを集めて研究し、また軍の要員を養成した。その副産物のひとつが、日本研究として有名な人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』、つまり西欧のキリスト教的な「罪の文化」と、日本の「恥の文化」を対比した本である。ライシャワーからヴォーゲルにいたる戦後の日本研究者の系列は、この軍のセンターから出発している。

 ソヴェトなど同盟国の天皇制廃止などの強い要求を退け、それを温存しながらたくみに近代民主主義体制への変換をなしとげたGHQ(連合軍総司令部)の占領政策も、こうした研究に多くを負っている。日本の占領政策の成功には、こうした周到な準備と、惜しみなく注ぎこまれた予算という背景があった。
 
 それに比べ、ブッシュ政権は開戦にあたり占領政策についてのなんの準備も行わず、またチェイニーやラムズフェルドといったネオコンズは、占領後アメリカ型近代民主主義をイラクに押しつければ、体制は自然にそのように整えられるという、まったく観念的な幻想をもってことにあたっていたようだ。さらに、伊豆高原日記【17】で取りあげたように、イラクをよく知る有能な人材を更迭し、たんに新保守主義に忠実であり、関連企業の利益を考えるだけの無能な人物を登用し、占領政策のいっそうの混乱を招いた。このブッシュ政権の無為無策が、3,500人の米軍戦死者、24,000人の戦傷者、子供を含む何十万人(一説では600,000人といわれている)のイラク民間人の死者、膨大な負傷者、2,000,000人といわれるイラク難民、さらには40兆円にも昇る戦費の浪費をもたらしたのだ。

地獄の沙汰の解決法

 NHKBS1のいくつかの外国製ドキュメンタリーは、外部からの侵入者による自爆攻撃に加え、近年深刻化した各宗派の武装勢力による誘拐や、その後の拷問と虐殺のすさまじさを生々しく伝えている。シーア派サドル師分派の民兵でイラク最強の武装勢力といわれるマハディ軍は、バグダッドのサドル・シティなどの拠点を完全に支配し、逆に政府の治安部隊にまで入りこんでいるが、彼らはスンニー派のかつてのサダム政権有力者や支持者を拉致し、情報を引きだすために拷問し、挙句に殺す。報復としてスンニー派武装勢力は、シーア派の拠点の爆破を行い、有力者や知識人を襲撃したり、拉致して同じくすさまじい拷問を加え、殺戮する。

 外国メディアは危険なため、主としてシーア派地域での取材しかできないが、そこに運ばれてくるシーア派民間人の遺体は、歯をすべて抜かれたり、手足を切断されたりと、拷問の恐るべき痕をとどめている(NHKの映像ではすべてモザイクがかけられているが)。遠くのビルディングから米軍の狙撃兵が撮影した映像では、政府の警察軍までもがスンニー派民間人の拷問に加わっているのがよくわかる。

 もはやこれは内戦などというものでさえなく、地獄の沙汰である。

 こうした状況で唯一の救いは、北部のクルド人支配地域である。米軍に協力してサダム・フセイン軍を敗退させた強力なクルド民兵が地域の治安を完全に保持し、外国の投資を呼びこんだ石油資源の再生や開発が積極的に行われ、民間の住宅建設やいわゆるインフラ整備も活発である。首都には百貨店まで出現し、消費生活も華やかになりつつある。

 その鍵は治安にほかならない。自治区の境界は民兵によって厳重に警備され、四輪駆動車なら突破できそうな平原には、車輛が越えられない深い溝が掘られている。

 こうしたモデルをみると、イラク問題の解決法は、もはやクルド地域、スンニー派地域、シーア派地域という独立国に準じた完全な三分割の連邦制に移行するしかないようにみえる。各派の民兵に域内の治安をゆだね、政府軍の役割はこれら境界や隣国との国境の厳重な警備に限定する。各派地域内の少数派は、多数派地域に移り、その補償は外国の援助にもとづいて連邦政府が行う。いうまでもなく国家としての石油収入は、この三自治政府に完全に平等に分配しなくてはならない。とにかく、治安さえ回復すれば、頼まなくても外国からの巨額の投資が流入し、石油大国イラクの復興は可能となるのだ。米軍をはじめ各国軍は、この体制が整いはじめたとき完全撤退すればよい。

 こうしたシナリオをどこか権威ある機関が提唱しないだろうか。全米各地で繰りひろげられたイラク反戦デモの映像を、ABCやCNNニューズで眺めながら(どういうわけか、日本のニューズ・メディアでは大きくは取りあげられなかった)、そんな感慨にふけった。
(3月21日)


北沢方邦の伊豆高原日記【22】

2007-03-03 20:51:51 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【22】
Kitazawa, Masakuni

 伊豆高原駅前の大寒桜(オオカンザクラ)の並木が満開となり、薄紅色の花々の蜜を吸いにメジロやヒヨドリがやってくる。メジロを知らない若い女性観光客などが、「あ、ウグイスだ」などと声をあげ、笑いを誘う(メジロは派手なウグイス色で、ウグイスはもっと地味な灰色である)。

 早朝わが家の裏の森から、ウグイスのためし鳴きが聴こえ、夢うつつに早春の雰囲気を楽しむ。

江田三郎について
 
 若い世代はもはや知らないだろうが、江田三郎という政治家がいた。かつて日本社会党の書記長や副委員長を務め、社会党の将来をになう最高の人材とされながら、党の主流からは徹底的に疎外され、委員長(党首)になることもなく、1977年に離党して結成した「社会市民連合」の旗揚げとほとんど同時に肝臓癌で病没した。社会市民連合は子息の江田五月に受け継がれたが、後、社会党の離党者たちを含め「社会民主連合」と名を変え、田英夫が代表になるとともに、しだいに小既成政党化し、政治の激動の谷間に埋没してしまった。もし江田三郎が生きていれば、その後の社会市民連合も、日本の政治の局面も、大きく変わっていたかもしれない。江田三郎はそれほど大きな影響力のあるすぐれた先駆的政治家であったのだ。

 今年は彼の生誕百周年と、没後30周年でもあるので、彼の業績を称え、そこから日本の政治のたんなる回顧ではなく、将来の展望を含めた本を編纂する計画があるようだ。彼の離党と「社会市民連合」結成プランのシナリオを描き、その推進者でもあった私に、その本のためのインタヴューに応じてほしいという依頼が江田五月からあり、参議院議員会館に出向いて、北海道大学の山口二郎教授をはじめとする編纂委員にインタヴューを受けることとなった。

 江田三郎との出会いや交流、社会市民連合結成までの経緯は、私の自伝『風と航跡』(2003年藤原書店)に書いたので繰り返さないが、彼に進言し、また討議した基本政策が、いまでも先進的なものであったと自負しているので、それを簡単に記しておこう。

 いまは取り壊されてないが、相模湾を望む瀟洒な南欧風の熱海ホテルや、森のなかの箱根の旅館などで、彼と当時公明党書記長であった矢野絢也や民社党副委員長の佐々木良作、あるいは当時岐阜経済大学教授の佐藤昇など学者を交え、政策作りの合宿が何度か行われた。水俣病をはじめ、すでに公害問題が激化し、原子力発電への反対運動が高まり、あるいはローマ・クラブの報告書『宇宙船地球号』が大きな話題になりはじめていた時代でもあり、われわれの政策も、高度成長や経済優先政策への根本的反省を中心に据えていた。

 たとえばエネルギー問題では、少なくとも21世紀の初頭までに原発を廃止し、その約30年のあいだに太陽光・風力・波力などによる発電、地熱または高温岩体発電(地熱は火山地帯だが、一般の山岳地帯でも10キロほど地下には高温の岩石体があり、その熱を利用して発電する)、小規模水力発電、バイオマス発電やその燃料化、水素エネルギー利用の研究など、自然エネルギー・地域エネルギーの開発に大きな予算を投入すれば、原発に代替するエネルギーをまかなうことができる、とした(こうしたエネルギー開発は近年までほとんど行われなかった)。

 江田三郎はわれわれの意見に全面的に賛成してくれたが、あるとき「きみたちの政策には農業問題が欠けているよ」と、ぽつりと語ってくれた。農民運動家として出発した彼らしい発言であったが、このことばはほとんど啓示的であった。なぜなら、こうしたエネルギー開発は農業をはじめとする第一次産業再開発と不可分であったからである。私は急遽、村落を単位として、バイオマスの処理と関連する堆肥や有機肥料の生産プラントの構築や、それに対応した農業機械の開発やその共有制など、つまり高度な機械化・省力化で有機農業を行う農業共同体構想をまとめあげた。

 私が中心になって作製した教育・文化政策にも、今日の安倍教育改革に反対する強力な理論的・実践的支柱があったと思っている。

 江田三郎の死とともにすべては瓦解してしまったが、こうした政策が30年前に実施されていたらと、歴史にifはないと認識しながらも、むなしい思いにいまも囚われている。

ペプシ・コーラと黒人たち

 もはや60年も前となる。骨格のみをとどめる黒焦げのビルディングや、瓦礫と灰の廃墟がつらなる都心の街路に、襤褸をまとったひとびとの往来に交じり、緑色の略式軍服と先端の尖った制帽に身をかためたアメリカ兵たちが闊歩していた時代である。PXと称する軍とその家族のための食料や雑貨の供給組織があり、焼け残った百貨店などが接収されてその販売所となっていた。旧宝塚劇場も接収され、沖縄で戦死した新聞記者の名を冠したアーニー・パイル劇場となり、彼らのためのショウを行っていた。その地下に開設されたPXのスナック・バーに職をえて、16歳の私は約一年半「トラッシュ・ボーイ(掃除雑役夫)」として働いていた。労働はきびしかったが、餓死者や凍死者の遺体が街路に放置されているような日々に、朝の掃除のあとふるまわれる、前日の売れ残りのハンバーグをほぐして熱湯にぶち込んだスープと、同じく売れ残りの固くなったパンというブランチは、応えられない贅沢であった。

 ハンバーガーやコーラ、ポップコーンやアイスクリームというスナック・バーおきまりのカウンターに、日曜・祭日(もちろんアメリカの)ともなれば兵士たちの長蛇の行列ができた。そこで私はふしぎな光景を観察した。つまりコーラ売り場にはCokesとPepsという水色のネオンサインが掲げられていたが、なぜか白人兵はかならずコカコーラ、黒人兵はかならずペプシコーラを買って飲むことであった。ペプシのややきつい香料が黒人の口にあうのかな、としか考えられなかった。

 白人将校はもちろんのこと、下士官や兵士も日本人を一段と見下すか、あるいは保護者的親切さで接するかのいずれかであったが、黒人兵だけはたんに陽気でおおらかだというだけではなく、日本人を対等に遇して、しばしばわれわれを感激させてくれた。たしかに英語の訛りが強く、「ギミ・ワラ(Giv’me water)」などと、馴れるまではなにをいっているのか理解不能なことが多かったが。

 あの親しみやすい黒人兵たちが、なぜペプシコーラしか飲まなかったのか、60年後にその謎が一挙に解けることとなった。「ニューヨーク・タイムズ書評紙」に、ステファニー・キャパレルの『ペプシのほんとうの挑戦』(Capparell,Stephanie. The Real Pepsi Challenge)という本の書評が掲載されたからである(Feb.4,’07)。

 それによれば、1938年ペプシの社長が交替し、気鋭の若手でリベラルなウォルター・マック・ジュニアが就任した。彼は売上高でペプシの26倍もあった(1939年)「巨人ゴリアーテ」のコカコーラに果敢に挑戦するダヴィデを自負し、価格の安さで貧困層に人気のあった自社製品を、積極的に黒人層に売りこむ戦略を立て、広告にも黒人モデルを起用した。1940年の写真ポスターで、ペプシの大瓶に手を伸ばしている利発な黒人少年は、のちにクリントン政権の商務長官となったロン・ブラウンであった。

 戦後マックは、黒人の地位向上を目指す「国民都市同盟National Urban League」の幹部エドワード・ボイドを雇い、その戦略を任せた。ボイドは多くの黒人セールスマンを雇い、南部の各州や北部の大都市で売上を増大させた。

 1950年、コカコーラが地元ジョージア州の知事選で、人種差別主義者の候補に巨額の献金をしたことがきっかけで、黒人たちはコカコーラ・ボイコット運動をはじめるにいたった。

 私がPXで働いていた1946・7年にはまだボイコット運動は存在しなかったが、黒人兵の行動にはこうした社会的背景があったのだ。たしかにそれは、コカコーラに対抗するペプシの商業戦略にすぎなかったかもしれない。だが人種の壁を超えることがきわめて困難であったあの時代に、その壁にあえて挑戦した白人ウォルター・マック・ジュニアの先見の明は、高く評価されてしかるべきである。