一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【112】

2011-10-18 10:59:44 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【112】
Kitazawa, Masakuni  

 10月に入って季節の移り変わりが早い。伊豆高原中にただよっていたキンモクセイの香りは遠い記憶となり、桜並木が落葉しはじめた。松本にいた頃、城の外堀の桜が美しく紅葉するのを見たが、この温暖の地では枯葉色となって落ちてしまう。

「アメリカの秋」はひろがるか? 

 「アラブの春」につづく「アメリカの秋」がメディアを賑わわせている。15日(日本時間16日)には数万人のデモンストレーターが、ニューヨークのタイムズ・スクエアを埋め尽くした。先進諸国の各地でも、これに呼応するデモが行われた。 

 60年代末から70年代初頭にかけて、アメリカをはじめ先進諸国で今回とは桁違いの規模で「若者の反乱」が起こった。中国の「文化大革命」(本質は党中央の深刻な権力闘争であり、若者は踊らされたのだが)に刺激され、ヴェトナム反戦と反体制、既成のWASP(白人アングロサクソン・プロテスタント)文化への反逆、アメリカ・インディアンへの共感、ヒンドゥーや道教など東洋思想の再興、ユートピア社会主義の復権、黒人文化の独自性を訴えるブラック・パワーの台頭など、さまざまな潮流が合体し、大きなうねりとなった。 

 71年にはじめて渡米したとき、ヒッピー発祥の地サンフランシスコはもとより、ニューヨークのセントラル・パークや5番街を埋め尽くす華やかでサイケデリックな衣装のヒッピーたち、マサイの槍を手にした半裸の黒人など、目を奪う光景に高揚感をおぼえたほどである。 

 各国の高度成長期、その意味では豊かな社会に起こったこの大規模な若者の反乱は、大人たちや保守派にはまったく理解不可能なものであった。なにひとつ不自由のないこの繁栄する先進社会で、なんの不満があるのか?と。 

 だがこれは、おそらく欧米で史上はじめて起こった近代文明に対する集団的異議申し立てであったのだ。西欧植民地主義の帰結としてのヴェトナム戦争、先進諸国の繁栄の蔭のいわゆる第3世界の搾取とそれによる貧困、物質的豊かさの裏返しとしての精神や感性の貧しさ、「自由」の標榜の蔭で増大する目にみえない抑圧や情報による管理体制の強化など、文明の帰結に対する反逆であり、その転換への主張であった。 

 だが70年代後半から保守派が盛り返す。政治的新保守主義と経済的新自由主義が先進諸国の主導権を握り、世界はまっしぐらに文明の衝突と金融グローバリズムによる世界制覇に乗りだす。その破綻がリーマン・ショックであり、ユーロ危機であり、中流の崩壊であり、新興国を含めた国内経済格差のいちじるしい拡大であった。それに対する最初の答えが今回の運動であるといえるだろう。問題はそれがどのような規模になり、どのように持続し、結果としてなにをもたらすかである。 

 60年代末の運動は4・5年持続し、参加しあるいは共感を覚えたひとびとは、新しい時代の到来を予知し、希望に燃えていた。だが結果はアカデミーでの若干の改革、一部の政治改革(マックガヴァンの民主党改革)などわずかにとどまり、時代を変えることはできなかった。ただいえることは、あのときに高まった近代文明に対する疑念が、その後の生産や消費の急激な拡大の結果もたらされた地球環境のいちじるしい破壊の認識にも助けられ、持続しつづけたことである。 

 加えるに今回のフクシマの大事故である。ひとびとに潜在する近代文明転換への要請が、もし今回の運動の大規模化によって顕在化することがあるとすれば、それは新しい時代をもたらす大きな原動力になるだろう。その期待を込めて「アメリカの秋」または「世界の秋」を見守りたい。


イタリア紀行●その5

2011-10-13 04:44:09 | 紀行

イタリア紀行 ●その5 イタリア、カフェ事情

 ある朝、イギリス人の友人Pさんが、「イタリア式の朝ごはんを食べましょう」と、私たちの宿、カーサ・モレッロを訪ねてきた。イタリア人は朝食に何か特別なものを食べるのだろうかと、興味津々で彼に従った。連れていかれたのは宿にも近いある小さなカフェである。結構混んでいる。どうやら皆、朝食をとっているらしい。

 

何のことはない、それはパンとコーヒーだった。これなら私の朝食と変わりはないではないかと思っていると、パンの内容が問題なのだった。いわゆる菓子パンである。クロワッサンでも、中にチョコレートやクリームが入っているものが好まれるのだという。カプチーノと甘い菓子パン、Pさんにいわせれば、これこそ典型的なイタリア式朝食なのである。

 

どうやらイタリア人は、女も男も甘いものが好きなようだ。中年の、体躯も堂々とした男性が、独りカフェでアイスクリームを食べている。それもガラスの器に華やかに盛られたアイスクリームである。小さな旗まで立っている。私たち日本の男は、いくら食べたいと思っても、あのようなアイスクリームを注文することはできない。イタリア人は、自らの欲望に素直なのだろうか。それに人目を気にすることもあまりなさそうである。

 

自らを美しく見せたい、この思いも欲望の一種だとすると、イタリア人は女も男も、この欲望に忠実であるようだ。とにかくカッコイイのである。身体にピタリと合ったファッションは、スマートな体躯とあいまって、眩しさを覚える。女性の胸元は大きく開いている。イタリアに到着した当初、目のやり場に困ったものだ。

 

さて、カフェの起源はヴェネツィアにあるという。おそらくサン・マルコ大聖堂前の広場こそ、その発祥の地ではないか。有名なカフェ・フローリアンは敬遠して、私たちはワーグナーが通ったというカフェ・ラヴェナに腰を落ち着けた。





 

 ヴェネツィア随一の観光区域だけあって、人また人である。中国人の団体がひときわ目を惹く。それに引き換え、日本人の観光客にはほとんど出会わなかった。現在の世界経済を反映して、まことに興味深い現象である。

 

このカフェ・ラヴェナは結構な値段がしたのだが、他のカフェはとにかく安い。カプチーノは1.5ユーロからせいぜい2ユーロである。それにどのカフェのコーヒーもとても美味しい。昼間ふらっと入って注文するのはカプチーノ、食後はエスプレッソである。キリマンジェロやらブルーマウンテンやらと種類は多くない。アメリカン(イタリア語ではアメリカーノ)を注文すると驚くことになる。普通サイズのカップの底に少量のエスプレッソと、カップ一杯のお湯が出てくるのだ。お好みでエスプレッソを薄めなさいという訳だ。いく分アメリカ人を馬鹿にしている(もちろん、味の薄い、普通のアメリカンを出す店もある)。

 

暑い夏のことである。私はほとんどTシャツで通したが、そんな姿はほとんど見かけなかった。ポロシャツ姿がほとんど。ジーンズとTシャツという典型的なアメリカン・スタイルは、日本とちがいここイタリアでは、定着度が極めて低い。このあたりにも、アメリカ文化に対するある種の抵抗感があるのだろうか。

 
 イタリアという社会のなかでカフェの果たす役割は様々である。なかでもユニークなのが公衆トイレ機能だろう。日本は、駅や公園など公共の施設にはトイレがあり、またいざというときにはコンビニでも借りられる。イタリアではこうはいかない。駅のトイレは有料であるし、小銭がないと入れない場合もある(0.6~0.8ユーロ)。公共の施設も有料が多く、まったく設置していない所もある。概してトイレを探すのには苦労する。そこで、至る所に存在するカフェが頼みの綱となる。もちろんトイレだけ借りるというわけにはいかない。おもむろにコーヒーを注文し、暫しの間を置いてトイレを拝借するのである。

 
トイレで驚いたのは、いわゆる和式、つまりしゃがんで用をたすトイレが結構多かったことだ。ヨーロッパで和式のトイレに出会うとは思ってもいなかった。和式のトイレしかないカフェでは、我々男性は困ることになる。また、和式と洋式の中間くらいのトイレもあって、これは女性が困るだろうなと、他人事ながら心配したものだ。ホテルや私たちのB&Bではもちろん洋式である。それに必ずビデがある。ビデのスペースのことも考えると、この機能も組み込んだ日本のトイレは優れものだと、つくづく思った。

 
カフェの果たす役割といえば、何といっても人とのコミュニケーションだろうか。私たちの滞在が夏であったせいか、カフェといえばオープン・カフェであった。陽射しは強くても湿気がないので、日陰は過ごしやすい。快い外気、美味いコーヒー、そして心を許せる友人とのとりとめもない会話……。これこそが生きている幸せ、という気分が伝わってくる。時間はゆったりと流れる。夜の時間も長い。

↓パドヴァのシニョーリ広場。22時に近い。イタリア人のおしゃべりはいつまでも続く。

以下は私の撮ったスナップ写真中の様々なカフェ。
↓ヴィチェンツィアのシニョーリ広場。


↓ヴィチェンツィアの路地

↓ヴェネツィアで



↓バールやレストランを流す音楽師たち(ここまでヴェネツィア)
 
↓ヴェローナのブラ広場
 
↓マントヴァのエルベ広場
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北沢方邦の伊豆高原日記【111】

2011-10-04 11:09:29 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記j【111】
Kitazawa, Masakuni  

 真夏から急に秋深しとなり、すでに桜の葉が黄ばみはじめ、彼岸花だけが正確に彼岸の入り頃から満開となり、緋色の点景を散らしている。仲秋の名月には間に合わなかったススキの穂が風に揺れ、モズが、台風で吹き散らされて薄くなった葉叢の梢で、高鳴きをはじめた。

アラブの春 

 ニューヨーク・タイムズ書評紙の9月11日号が「アラブの春」の特集をしている。この問題にかかわるいくつかの本の書評や、「春」以後のアラブの知的世界や出版の動向についてのリポートなどである。 

 そのひとつはロビン・ライトの『カスバー[北アフリカ固有の迷路的居住区]を揺さぶれ;イスラーム世界をよぎる怒りと反逆』(Robin Wright: Rock the Casbah ;Rage and Rebellion Across the Islamic World)と、チャールズ・カズマンの『失われた殉教者たち;なぜかくも少ないムスリム・テロリストか』(Charles Kurzmann: The Missing Martyrs; Why There Are So Few Muslim Terrorists)の書評である。 

 ライトの主張のユニークさは、これら「アラブの春」が、政治的・社会的革命であるだけではなく、イスラーム世界をゆるがす「文化革命」であるとする点にある。

 すなわち、蜂起を先導し、主導したのは若い世代であるが、彼らを結んだ絆がたんにインターネットやトゥイッターなどであるというだけではなく、そこに込められたメッセージが、むしろイスラームの新しい覚醒をうながす「文化革命」の伝達であったというのだ。たとえばエジプトでは、若い女性たちが「ピンクのヒジャーブ[頭部に巻くスカーフ]」運動をはじめ、またたく間に運動は拡大した。それは守旧派や保守派の伝統的な『クルアーン』解釈をくつがえし、そこには女性差別の痕跡などどこにもないことを主張し、女性の地位の向上や、社会の意識改革を訴えた。

 事実私がみたTVの画像でも、カイロのタハリール広場を埋め尽くした群衆のなかで、淡いピンクのヒジャーブをまとった大勢の若い女性たちが楽しげに語り合う姿が印象的であった。

 またアラブ保守派の牙城であるサウディでは、まだ「革命」こそ起きていないが、アブ・ダビのTVショウでは詩人のヒッサ・ヒラルが、全身を覆う黒いニカーブ姿で登場し、『ファトワ[イスラーム法にもとづく法令]の混沌』と題する自作の詩を朗読、守旧派のイスラーム解釈を大胆に皮肉り、一躍有名となった。もちろん生まれ故郷のサウディで死の脅迫を受けたことはいうまでもない。だが若い世代を中心に、これら「文化革命」に盛大な拍手を送るひとびとがいかに多いかを、この挿話は物語っている。 

 こうした「文化革命」を、裏側から照射しているのが、カズマンである。

 彼によればアラブでは、ウサマ・ビン・ラディン氏の死を悼み、彼を英雄視するひとびとは圧倒的である。だがアル・カイダのイデオロギーに同調するものは圧倒的に少なく、ましてそれに参加するものはほとんどいない。むしろ彼らは、一般人をも巻き込む自爆テロによって圧倒的な嫌われ者といっていい。この矛盾はどこからくるか?

 それはアラブ社会全体が、西欧近代諸国家の植民地支配を受け、独立後もムバラク・エジプトやフセイン・イラク、あるいは現在のアサド・シリアなどに代表されるゆがめられた強権的近代国家の手助けをし、また新植民地主義的経済搾取を行ってきた西欧に対する圧倒的な不信感を抱いているからである。だが彼らは、ウサマ・ビン・ラディンを褒め称えながらも、その狂信的イデオロギーは拒否し、もっと穏健なイスラーム民主国家を求めているのだ。

 現在アル・カイダに人材を供給しているのは、西欧やアメリカの若いムスリムである。西欧では彼らは差別と貧困に苦しみ、西欧近代文明に憎しみさえ抱いている。アメリカではむしろ中産階級の若い知的ムスリムが、観念論としてアル・カイダ・イデオロギーに共感し、いわゆるホーム・グロウン・テロリストとなっている。

 ライトの本の評者モハマド・バッズィ(Mohamad Bazzi)が指摘しているように、彼女の本にはこれらの運動が19世紀に遡るという歴史的視点が欠けているかもしれないが、「アラブの春」の重要な側面を明らかにしている点で、これらの本は今後のアラブあるいはイスラーム世界を展望する意味できわめて示唆に富んでいる。