一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その21

2009-07-29 19:22:32 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その21

赤裸々に描かれた女の欲望と愛――
     
『ムチェンスク郡のマクベス夫人』  

 この5月10日、新国立劇場で『ムチェンスク郡のマクベス夫人』を観て、ショスタコーヴィチの音楽に圧倒された。ホール全体をどよもすオーケストラの大音響、群衆が雄叫びを上げる合唱の迫力。オペラハウスはそれ自体が楽器だということを、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウス、それにショスタコーヴィチのオペラの実演に接すると、身をもって実感する。しかし残念ながら、財布の中身を考えると、頻繁にオペラハウスに足を運ぶわけにはいかない。そこでCDやDVDを視聴することで渇を癒すことになる。幸い7月4日に『マクベス夫人』がブルーレイで発売され、このオペラの面白さを追体験させてくれた。 

 このオペラが作曲されたのは、1930年から32年にかけてである。ロシア革命が成就してからまだ十数年しか経っていない。この時期に、ショスタコーヴィチは、なぜこのような主題でオペラを書こうと思い立ったのだろう。オペラ史の観点からみても、画期的なものではないか。主題の1つは肉体的欲望であり、それも女性のそれを正面から取り上げたのだ。その女性とは、大商家イズマイロフ家の跡継ぎジノーヴィと結婚したカテリーナである。序奏に続くレチタティーヴォといい、第1幕第3場のアリアといい、カテリーナの歌う美しい旋律のあちこちに、孤独の寂しさと満たされぬ欲望へのやりきれなさが見え隠れする。火照った身体に水をかけながら歌う本公演の後者の場面は、エロチシズムに満ち溢れて圧巻である。

 このオペラに充満する「反社会的要素」はセックスばかりではない。激しい暴力が全編を覆っている。群衆が下女のアクシーニャを襲う場面や、家父長ボリスが嫁のカテリーナを寝取った下男セルゲイを鞭打ちにする場面など、音楽は暴力そのものである。極めつけは、セルゲイがカテリーナを襲う強姦シーンであろう。セックスと暴力が結びつき、激烈な音楽が性行為のめくるめく恍惚を表現する。『ばらの騎士』の幕開けと並ぶ、オペラ史上もっとも雄弁なセックス描写である。この公演では、光を激しく点滅させ、断片的に性行為を見せることによって、エロチシズムはより強調されている。

 暴力は殺人に発展する。主人公カテリーナは、抑圧的な舅ボリスを毒殺し、セルゲイとの愛を完遂させるため、不能の夫ジノーヴィを絞殺する。さらに最終幕では、恋敵の女流刑囚ソネートカを川に突き落とす(この上演では絞殺する)。1人の女性が、3人もの人間を殺すというようなオペラが、この『マクベス夫人』以外にはたして存在するだろうか。

 革命国家ソビエトが質的な転換を遂げるのは、1929年、スターリンによるトロツキー追放以降である。権力を確立したスターリンは、反革命分子を取り締まる治安組織を巨大化させていく。自由な芸術活動を謳歌したロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちも徐々にその活動領域を狭められていった。このような時期に『マクベス夫人』は作曲された。24歳の青年ショスタコーヴィチは、いったい何を考えて、このような「頽廃的な」オペラを書いたのだろうか。そして聴衆は、このオペラをどのように受け止めたのか。

 1934年1月22日に、レニングラードのマールイ劇場で初演された『マクベス夫人』は、なんと喝采を得たのだった。その後2年の間に、マールイ劇場で83回、モスクワのネミローヴィチ=ダンチェンコ劇場とボリショイ劇場で計94回、加えてラジオ放送が6回も行われたという。ショスタコーヴィチの音楽は刺激的で、確かに面白い。しかし社会主義リアリズムが浸透しつつあったソビエト社会で、このオペラが素直に受け入れられたとは到底思えない。どうやらこの作品は、階級対立のドラマと解釈されたらしいのだ。殺されたボリスとジノーヴィはブルジョア階級で搾取者、カテリーナは抑圧された人民というわけだ。ソビエト共産党のお墨付きのもと、聴衆はこのオペラを大いに楽しんだのだった。

 しかし、1936年1月26日、スターリンがボリショイ劇場で『マクベス夫人』を観るに及んで、このオペラの運命は一変する。2日後「プラウダ」に、「音楽のかわりに荒唐無稽」という論説が発表され、以降何十年もの間、闇に葬られることとなった。カテリーナは、社会主義の英雄から、危険極るトロツキストに変貌させられたのである。スターリンはある意味で、この作品の「反社会性」を見抜いたとも言える。

 政治に翻弄された『マクベス夫人』だが、この作品が明確な政治的意図をもって書かれたとは思えない。ボリスとジノーヴィたちイズマイロフ家をスターリン社会の縮図と見立てる説もあるようだが、24歳のショスタコーヴィチが、無意識のレヴェルは別にして、それほど大胆な反スターリン主義的意図を持っていたとは考えにくい。ロシア・アヴァンギャルドの残滓はまだ漂っていただろうし、若い天才作曲者の芸術的野心こそが、このオペラを生んだ原動力ではないだろうか。

 『マクベス夫人』は、1932年5月に結婚したニーナ夫人に捧げられている。このことからもわかるように、ショスタコーヴィチはこの作品に肯定的な意味を持たせているはずである。それは主人公カテリーナに対する熱い思いであろう。封建的な商家の過酷な家庭環境のなかにあって、自らの愛と自由を必死で求め続けたのがカテリーナなのである。舅と夫殺しも、愛を成就させるためには止むを得ないものであった。その愛の対象であるセルゲイに裏切られた時のカテリーナの悲哀と絶望――その底知れぬ深さは、彼女の最後のアリア「森の奥の茂みに湖がある」に見事に表現されている。これを歌うエファ=マリア・ウェストブロックの目には涙が溢れていた。美しい、しかし力強い声で全幕を歌いきったウェストブロックはカテリーナそのものであり、愛と自由というこのオペラの本質をよく体現したといえよう。

2006年6月25、28日 アムステルダム音楽劇場
【作 曲】ドミトリー・ショスタコーヴィチ
【原 作】ニコライ・レスコフ
【台 本】アレクサンドル・プレイス、ショスタコーヴィチ
【指 揮】マリス・ヤンソンス
【演出】マルティン・クシェイ
【カテリーナ】エファ=マリア・ウェストブロック
【セルゲイ】クリストファー・ヴェントリス
【ボリス】ウラディーミル・ヴァネーエフ
【ジノーヴィ】リュドヴィート・ルドハ
【アクシーニャ】キャロル・ウィルソン
【ボロ服の農民】アレクサンドル・クラヴェツ
【警察署長】ニキータ・ストロジェフ
【司 祭】アレクサンドル・ヴァシーリエフ
【ソネートカ】ラニ・ポウルソン
【合 唱】ネーデルラント・オペラ合唱団
【管弦楽】ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

2009年7月20日 
j-mosa


『ふぇみん』7月15日号より転載

2009-07-24 21:38:50 | 活動内容

★ふぇみん7月15号(No.2896)に当フォーラムが主催した
シンポジウム「食の現状・農の未来」が掲載されました。
ふぇみんのご好意により、転載します。

http://www.jca.apc.org/femin/

有機農業を軸にコミュニティ再建を
シンポジウム【食の現状・農の未来】 

自給率40%、食品汚染など食と農をめぐる深刻な状況をどう転換させるのか。
東京で6月、シンポジウム「食の現状・農の未来」
(知と文明のフォーラム主催)が
開催された。

 集会では、遺伝子組み換え食品(GM食品)や農薬汚染、添加物の氾濫に警鐘を鳴らしてきた安田節子さん、ミクロ経済学が専門の日本女子大学教員の植田敬子さん、神奈川県でCSA農場(地域住民が支える参加型農場)を営む片柳義春さんの3人が報告した。  

 安田節子さんは「私たちが食べたものから、身体の細胞が出来ている」という事実をふまえ「工場で大量の加工食品が作られ、私たちの細胞の遺伝子を傷つけかねない多くの化学物質が使われ続けた結果、今日のガン大国となったのでは」と語り「このまま農薬やGM食品を摂り続けていけば、緩慢な死を迎えることになりかねない。食料を自給し、使った農薬はすべて表示するなど、安全な農作物を選択出来るように政策を変えることは急務」と訴えた。

変わる経済学
 「昔は経済学というと、経済成長率をどう上げるかという話しばかりをしていた。だが幸福度の統計からわかったことは、いくらお金ばかり増やしても、人間は幸福にはなっていないという事実だった」と植田敬子さん。幸福度の低下は、健康不安や人とのつながりが壊れるのが原因とされる。「今、欧米で急速に広がっているというCSA(Community Supported Agriculture)は、人との絆の回復し、新鮮な有機野菜で身体を健康にしてくれる。農薬使用による周囲の環境悪化がないという点でも優れている。経済学の面から言えば、有機農業には補助金を出して奨励するのが当然」と語った。

きっかけは地域通貨 
 片柳義春さんは住宅地が広がる神奈川県の大和・綾瀬・厚木市に点在する遊休地を借り、「なないろ畑農場」を営んでいる。きっかけは市民運動として取り組んだ地域通貨だった。「落ち葉を集めてくれた人には地域通貨を渡し、落ち葉堆肥で育てた花の苗と交換する」と言うと大勢の人が来て、1人で2カ月かかった作業が半日で終了した。この体験から「次は芋畑、その次は…」という経過のなかから「なないろ畑農場」が誕生した。「農場を核に、地域通貨と連動してコミュニティを再生するのが本来の目的。いずれ21世紀型社会のモデルとなるようなエコビレッジをつくりたい」と片柳さん。 

 司会の北沢方邦さん(信州大学名誉教授)は「食・農は私たちの文化の基底となるもの。危機にある食と農の現状を変えることが、文明そのものをエコロジーの方向へと向うエコ・ソリューションへの入り口となる」と語った。(大束愛子)


北沢方邦の伊豆高原日記【63】

2009-07-22 06:47:03 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【63】
Kitazawa, Masakuni  

 数日晴れ間が覗いたが、もどり梅雨らしく雨がつづく。わが家の庭もヴィラ・マーヤの庭も、草木の濃い緑を背景にヤマユリの大輪の白い花々がたわわに開き、むせるような芳香があたりに漂う。とりわけ今年はヴィラ・マーヤのユリが盛りである。居間の花瓶に差した二輪ほどの花が、家中に悩ましいほどの香りを振り撒く。 

 これが『古事記』や『万葉』に登場する古来の花とは思えない華麗さである。すでに述べたが古語でサヰといい、信濃の犀川や大和の狭井川などの地名はこれに由来する。石塊〔いしくれ〕の多い荒れた河原ほどみごとな群落をつくる不思議さも、古代人の畏敬の念をそそったにちがいない。カムヤマトイハレヒコ(神武)の妃〔きさき〕イスケヨリヒメの伝説にからむのも、そのためであろう。

「小泉改革」の歴史的審判 

 7月21日衆議院が解散され、8月30日に総選挙が行われることとなった。 

 麻生太郎氏が首相の任にふさわしくなかったのは予想どおりであり、そうかといって鳩山由紀夫氏がそれに値するというわけでもない(どちらもふさわしくないという答えが世論調査でも過半数である)。かつて旧民主党代表時代の鳩山氏に、八ヶ岳山麓のホテルで行われたある政策集団の会合で顔を会わせたがことがある。たまたまオブザーヴァーとして同席した青木やよひが、「民主党は自民党に比べてさえ女性の支持率が低いが、これをなんとかしないととうてい政権はとれませんね」と水をむけたが、鳩山氏はきょとんとしてあいまいな返事しかしなかった。女性の支持率を上げるためにはどうすればいいのかアドヴァイスしてください、という返事を期待していたわれわれは唖然としてしまった。そのうえ現在彼には、小沢氏の疑惑ほどではないにしても、政治資金規正法違反がある。 

 だが今回の選挙は、どちらの党首が次期首相にふさわしいかといった矮小な問題ではない。端的にいえば、「小泉改革」への歴史的審判にほかならない。 

 「自民党をぶっ壊す」と称して、アメリカ合衆国の政治的・軍事的覇権主義に全面的に協力し、その経済グローバリズムのために徹底した規制緩和を行い、結果として政治的・経済的に「日本をぶっ壊した」小泉政権の評価を国民が下す選挙なのだ。 

 たとえば前回の「郵政民営化」というシングル・イッシュー選挙で、眩惑された大都市住民の圧倒的支持で小泉政権は圧勝したが、いまだに「郵政民営化」は正しかったというひとは少なくない。実は郵政問題の根本は、郵貯や簡保の蓄積された庶民の膨大な預貯金(地方では銀行の支店などはない)であり、それが高度成長期(そのときには有効であったが)以来の惰性で、硬直した財政投融資としてしか投資されなかった点にある。そこをあたらしい経済状況に応じて大胆に改革し、次の時代を切り開く投資として活用すべきであったのだ(そのためには高度成長期に対応していた特殊法人などの徹底的整理統合が必要であったが、道路公団改革ひとつを見ても、小泉改革はその大改革にはほとんど手をつけなかった)。

郵政民営化とはなんであったか 

 大都市の住民は郵政民営化にほとんど影響を受けず、むしろサーヴィスがよくなったと思っているかもしれないが、地方はひどい状況である。わが家の近くには伊豆高原郵便局(特定局ではない)というりっぱな局があり、かつては20名以上の体制で集配なども行っていたが、民営化後、集配は伊東本局に移管され、5・6名の窓口業務者のみとなり、広大な局舎の大半は鼠の棲家となっている。本局からはここまでスクーターで30分以上かかり、かつての午前の配達はときには夕暮れになってしまう。また集配業務は最低賃金ぎりぎりの時給の非正規雇用者であり、住所や氏名を覚えた頃には辞めてしまう。過疎地の特定局などは次々と廃止され、いわゆるユニヴァーサル・サーヴィスは絵に描いた餅となっている。これが郵政民営化の地方の実態である。 

 この小泉改革に内心は賛成であった新自由主義者・新保守主義者が民主党の若手にはかなりいるが、もし今回野党が過半数をえて連立政権を樹立することになれば、社民党と国民新党が加わり、彼らには大きなブレーキとなるだろう。とりわけ私は国民新党にその役割を期待したい。 

 意外に思われるかもしれないが、国民新党は公明党と並んでいわゆる社会的弱者にもっとも深い配慮をもつ党である(公明党は少なくとも前代表時代、小泉改革に賛成したという点で政治責任はある。私は知人である太田昭宏現代表には個人的には期待しているが)。 

 私はまた亀井静香氏ともかなり面識があるが、警察庁出身ということでかつて右翼的なひとかと誤解していたが、まったくちがっていて好印象をもった(かつて60年安保時代警察庁長官であった故後藤田正晴氏なども実に開明的で、彼こそ総理大臣にふさわしいひとであった)。亀井氏が建設大臣時代、徳島県の吉野川河口堰建設や鳥取県の中海干拓問題が地元で大きな問題となっていた。例の政策集団の会合で、私は市民運動家の仲井富氏とともに、この問題が環境破壊であるだけではなく、財政的にもまったくの無駄遣いであると彼に説いたが、彼は黙って聴いていた翌日に現地に視察に出かけ、仲井氏が紹介した現地の反対運動のリーダーに会い、数日後それらの工事の中止を命令したのだ。私たちもその行動力と決断のすばらしさに驚嘆した。 

 いずれにせよ今回の総選挙は、小泉改革への審判と、それがもたらした貧富の格差や地方の疲弊、労働条件や自然環境の荒廃など、大きなひずみの根本的是正への一歩とならなくてはならない。とにかくその一歩を踏みだすことで、はるか彼方に蜃気楼として浮かぶ文明の大転換という目標も、現実の地平線にその姿を現わすこととなるだろう。


北沢方邦の伊豆高原日記【62】

2009-07-07 21:19:49 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【62】
Kitazawa, Masakuni  

 ときおり晴れ間が顔をのぞかせるが、梅雨らしい日々がつづく。ウグイスやホトトギスの声も、心なしかくぐもって聴こえる。梅雨がなかなか明けず、冷夏となった敗戦の前年の夏を思い出す。小さな茶碗摺り切り一杯の雑穀飯にひもじい思いをしながら、冷たい海水に震えあがり、「サイパン島玉砕」の新聞の大見出しに暗澹とした気分となったその夏の遠泳合宿の記憶がよみがえる。 

 毎日ではないが、冬に餌をだしてやったヒヨドリたちが、挨拶に姿をみせる。パーゴラの白い棚の下にやってきて、空中で羽ばたきながらホヴァーリングをし、われわれが声をかけたり、手を振ると、喜んで飛び去る。

ホピ、脱近代の枠組みについて 

 人類学者で立教大学教授の阿部珠理さんの依頼で、比較文明学会全国大会の「Indigenous Thoughtsと還流文明」というセッションでホピについて話すこととなった。以下はそのメモである: 

 近年ホピではトラブルがつづいている。かつては伝統派対進歩派の葛藤であったが、いまはホピ対外部の葛藤といってよい。1990年代には、日本人の映画監督を含むアメリカ白人などのグループが、ホテヴィラのある「長老」の土地や畑にいくつものヤシロを造り、擬似的な儀礼を執り行うという事件が起こり、村人たちを怒らせた。 

 母系制のホピでは土地は母系氏族の所有であり、「長老」の妻をはじめ女たちの管理下にある。「長老」といえども母系氏族の許可がなければ、土地を勝手に使用することはできない。また村人といえども、正式の儀礼でないかぎり、村から離れた聖なるヤシロの周辺に立ち入ることはできない。まして仮設のヤシロや儀礼暦にも従わない擬似的な儀礼など、冒涜行為以外のなにものでもない。 

 1997年に、ホテヴィラの宗教結社の首長たちが集まり、こうした行為の厳禁や自称長老・自称スポークスパースンの排除などを記した声明を発表したのも当然である。 

 2009年、NPC(日本でいうNPO)「文化の目覚め協会」(The Institute for the Cultural Awareness)が、アースデイの期間中ホピの土地で「祖先たちの集い」(The Gathering of the Ancestors)という大規模な集会(予算150万ドル)を行うとして、ホピ部族議会に許可を求めてきた。 

 伝統派の村の首長たちを含め、部族議会は不許可を通知した(伝統派と進歩派である部族議会が一致するのは珍しい)。その理由は、あなた方が主張するように「異なった集団が異なったフィロソフィーをもち、それを実践する権利は認めるが、残念ながらあなた方のフィロソフィーは、ホピの伝統的で祖先伝来の道とは異なっている」からであるとする。 

 あまり説得力のある理由とは思われないが、われわれはその根底にあるものを理解しなくてはならない。それは近代の思考の枠組みと、ホピのみならず一般に野生の思考の枠組みとの大きな断絶である。 

 上記ICAのホームページも開けてみたが、マヤの長老の言を冒頭に引用しながら、アメリカ・インディアン(インディオ)の生き方に共鳴し、それぞれの祖先の霊たちと秘儀的な交流を図りながら、いまの地球環境を救おうという、いささかオカルト的ではあるがきわめて真面目な善意の団体である。だがそれは日本人を含む90年代のグループ同様、近代的思考とその尺度でホピをはじめとする野生の思考を理解し、自己の「善意」の支持を押しつけようとする点で、たんに有難迷惑というより、むしろ犯罪的でさえある(「罪を知りながら犯罪を犯すものよりも、罪を知らずして犯罪を犯すもののほうが、より罪深い」というインド『マヌ法典』のことばを思い起こそう)。

プラクシスとプラティーク 

 すなわち近代の思考はすべて、意識のレベル、つまり私のいうプラクシス(意識的実践)のレベルを基本としている。なにごとにもよらず、とにかく近代人は自己の「主体」あるいは「主観」を確立するために、意識的に認識し、行動する。社会的にはつねにそれが「権利」の確認と行使となる。 

 わが国の憲法第21条の「言論の自由」の保証、合衆国憲法修正第1項のいわゆる「知る権利」、あるいはわが国の憲法第13条に保証された「幸福追求の権利」などは、その法的な裏書となる。法体系からはじまり日常生活にいたるまで、すべて言語化可能な認識や行動に支配され、それが「理性」の証しとされる。それ以外の行動は理性に反する「非合理」なものである。 

 上記のイヴェントにしても、善意の参加者はホピのフィロソフィーを理解しようと努力し(「知る権利」)、相互に、また村人ともコミュニケーションを図ることで、自己と人類と地球環境の調和を実現しよう(「幸福追求の権利」)という、きわめて合理的な行動にほかならない。 

 だが野生の思考にとっては視点はまったく異なる。なぜならそこでは、思考体系はすべて無意識のレベル、私のいうプラティーク(無意識的行動)を基本としているからである。そこでは「理性」や「正義」などといった抽象語はまったく存在せず、言語化された法体系もない。だが価値判断の基準は「感性」や「身体性」にいわば埋め込まれ、それはきわめて厳密であり、プラクシスのレベルで起こりがちな恣意的なもの(個人や集団相互で起こる齟齬、その調停のために民法はある)の介入はほとんどない。 

 ホピでは幼児の躾から村の集会の討議にいたるまで、最終的にすべては「ホピ」か「カ・ホピ(ホピでない)」かの2語で決定される。ホピであるとは、平和である、礼儀正しい、生き物を殺さない、自然を尊重し、必要なものは儀礼とともに頂くなど、1語では表現できない行動の規範を包括している。 

 むしろこうした無意識のレベルの構造が確固としてあるからこそ、ひとびと相互には絶対的な信頼関係があり、「知る権利」などを行使する必要はまったくない。個人相互だけではない。兄弟姉妹といえども所属が異なっている宗教結社の伝承や儀礼は相互に秘密であり、話すことはタブーである。だがそれぞれの結社がその伝承された無意識のレベルの思考である儀礼や儀式(もちろん祭壇の造成や儀礼の手順などは綿密な意識的行為であるが)を厳密に行うことが、ホピ全体の、さらには人類全体の平和と繁栄を保障することになるのだ。 

 ここでは種々の権利の行使は、自然や部族の調和を破壊し、ひとびとを離反させる悪といわなくてはならない。

プラティークの復権と脱近代の枠組み 

 プラティークのレベルに埋め込まれたこうした構造こそ、人間を人間たらしめる倫理の源泉であり、文化の基盤である。この点でプラクシスのみに依存する近代社会ほど倒錯した人間社会はないといってよい。 

 だが一旦成立した近代社会を、一気にホピ風に逆転させることなど不可能である。ではどうすればよいか。それは、プラクシスの合理性追求ゆえに非合理的なものとなり、肥大した欲望に支配されているわれわれのプラティークのレベルから、それらを排除し、感性や身体性に本来の姿をとりもどすことである。

 まず、欲望を肥大させるメディア情報の氾濫に溺れる自己を救いだすためには、ホピがひとつのモデルであるような、宇宙や大自然のなかの人間の姿をもう一度見つめなおし、老子のいう「足るを知る」ことの充足感をとりもどすことである。いいかえれば、個々の人間がそれぞれの内部に宇宙論を確立することで、われわれはこのグローバルな消費社会の蟻地獄から脱出することができる。ホピに自己を発見しにいくのではなく、われわれ自身のなかにそれぞれのホピをみいだすことこそ、脱近代の枠組みを造りだし、世界を変革する手がかりとなるのだ。