一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【41】

2008-06-19 00:11:26 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【41】
Kitazawa,Masakuni  

 事情があって二ヶ月ほど休筆しているあいだに、すっかり季節が変わってしまった。ホトトギスのけたたましい鳴声も間遠になり、梅雨時を香らせる、ヤマボウシやウノハナ(ウツギ)、あるいはエゴノキなどの白い花々、蔓草だが甘い強烈な香りを放つ野生のジャスミン(マツリカ)の同じく白い花なども花期を過ぎてしまった。五月晴れ(梅雨時の晴れ間)の今日はさわやかだが、熱帯並みの高温多湿の真夏の訪れはまじかだ。

バイオグローバリズムに対抗する

 先日、知と文明のフォーラムの主催で、食料問題の専門家であり、遺伝子組替え食品反対運動の活動家でもある安田節子さんを主講師に迎え、「食料・身体性・環境セミナー1」が行われた。

 1960年代末の伝説的ハード・ロック・バンド「ザ・グレートフル・デッド」の主宰者ガルシアの未亡人が、夫の遺志を受け継いで作ったドキュメンタリー映画「食の未来」を上映した後、それに沿って安田さんの報告が行われた。

 すなわち、1960年代の「緑の革命」以来、経済合理主義にもとづく食糧生産がいかに環境を破壊し、人間の生命や健康に害を及ぼしているか、とくに近年の新自由主義体制下の経済グローバリズムの進展が、バイオテクノロジーとりわけ遺伝子操作技術によって、人間の生命や健康だけではなく、環境を通じて恐るべき災厄さえもたらしかねない危険をいかに世界中に振りまいているか、またモンサント社を頂点とする巨大バイオテクノロジー企業が、ターミネーター(自殺遺伝子)を組みこむ作物――翌年そこから取った種子を撒いても芽がでない――など、遺伝子組替え種子の生産によっていかに食糧生産の世界制覇をなしとげつつあるか、またそれによって、家畜の餌などで許可されている遺伝子組替え作物や、許可されていなくても流通過程で不可避に人間の食料に混入する大豆などの遺伝子組替え作物が、それを食べるわれわれだけではなく、何世代にもわたって人間の健康や遺伝子そのものに深刻な影響をもたらす可能性など、おそるべき実態が報告された。

 食料によるバイオエタノール生産、巨大流動資金による食料投機、新興国とりわけ中国の食料消費量増大や富裕層の美味追求による食材の高級化などが、食料価格の高騰を生みだし、世界の貧困層から食料を奪い、膨大な人口が飢餓にあえいでいる事実はすでに指摘されているが、この危機的状況は刻々と深刻化している。

 ヨーロッパをはじめ先進諸国の市民レベルでは、最近の韓国の米国産牛肉輸入に反対する大デモの象徴されるような、この「バイオグローバリズム」に対抗する反対運動が盛んになりつつあるが、わが国では、遺伝子組替え作物に対する反対の世論はあるが、まだまだ危機感は薄いといわざるをえない。

 こうした状況を変えるにはどうしたらいいか。報告の後での討論会で以下のことが確認された。すなわち、われわれの生命に直結する食料の世界支配をたくらむこの「バイオグローバリズム」に対抗するためには、自然環境の生命とエネルギーの循環システムに沿った有機農法による食料生産と、それをになうコミュニティを造りだし、消費者に直結した流通機構を整えるといった持続可能な食料生産・消費システムをあらたに構築しなくてはならない、と。

 セミナー終了後の懇親会も大いに盛り上がり、小人数のセミナーだけではもったいない、東京でもっと大きなシンポジウムを開くべきだ、といった要望や意見が活発に飛び交った。シンポジウムもなんとか実現したいと思っている。

心身の不思議な不可分性

 生物学の分野では、人間が進化の頂点にあるといった進化論の近代主義的解釈や、遺伝子がすべてを決定するという80・90年代に猛威を振るった新ダーウィン主義は、すでに没落や批判の的となっているが、医学あるいは医療の分野では、まだあいかわらずデカルト的心身二元論が横行しているようだ。

 たしかに「ストレス」といった概念が登場して以後、心身相互の医学的かかわりにも注目が集まり、「心身症」(サイコソマティック・ディジーズ)が医学的カテゴリーに組みこまれ、いまや災害や凶悪犯罪などによるPTSD(トラウマ的ストレス後遺症)が流行語とさえなっているが、「心身症」は部分的概念であり、内科的症状全体を包括するものではない。だが、すでにゲーテが述べていたように、病気というものは身体の部分的な障害ではなく、全人格にかかわるものなのだ。

 ハーヴァード大学医学史学科の主任教授であるアン・ハリントンの近著『内部からの治癒』(Ann Harringtonn. The Cure Within, W.W.Norton & Co., New York,2008)が、この問題にきわめて鮮明な照射をあたえている。

 すなわち彼女の結論を先取りすれば、鍼灸や指圧や気功からヨーガや瞑想にいたる東洋医学の伝統や、その宇宙論と不可分の心身一元論が、いかに心身の不可分にして不思議な相互作用と力を利用して病気の治癒を行ってきたか、また、人間を全体としてとらえるこの「心身医学」(マインド = ボディ・メディスン)が、近代医学の今後にいかに深い示唆をあたえているかである。

 医学史学者らしく彼女は、中世の「悪霊払い」などの宗教儀礼や19世紀の「ルールドの奇蹟」など信仰にもとづく治癒力の検証からはじめ、いわゆる動物磁気で有名なフランツ・アントン・メスマーやメアリ・ベイカー・エディの「クリスティアン・サイエンス」など、旧来「疑似科学」あるいは「似非科学」として退けられてきた心身治療の方法を再検討し、そこに潜む「暗示力」ともいうべき心身治療の力を掘り起こすことからはじめている。

 さらにその力を自己自身の内に積極的に呼び起こす「肯定的思考」(ポジティヴ・シンキング)を用いる医療の足跡をたどり、さらに、歴史上かつてない強度な心的抑圧にさらされた現代社会に固有の「ストレス」の発見と「心身症」概念の登場を追い、現代人がそれによっていかに自己の免疫機構をずたずたにされているかを明かにする。それを癒してくれるはずの家族や地域共同体の「癒しの絆」もばらばらに切断され、現代人は孤立のなかで癌など「死にいたる病い」に冒されるのを待つのみである。

 その救いは「東方」にある。中国・インドそしてティベットなど、東洋に現存する「古代の智恵」、すなわち心身一元論による「内部からの治癒」なのだ。近代文明のゆがみを正すため西欧に何度か訪れた「東方への旅」、つまりオリエンタリズム(著者自身もサイードのオリエンタリズム批判を否定的な見方だとして批判している)の歴史のなかで、これが最後の、そしてもっとも緊急に必要な旅であるのかもしれない。

 この本をわが国に紹介できれば、と考えている。


〈身体性〉とは? 第3回(4回連載)

2008-06-12 09:09:02 | 〈身体性〉とは?

 

   

第3回 (4回連載・毎月10日掲載)  ■青木やよひ

 

3.時代によって変わる身体観 

 人間が内面的な成熟をとげ、自立的=自律的な存在となるためには、身体を媒介にした自然とのかかわりを問いなおさねばならないのはたしかなことである。しかしこの場合にわれわれは、自分と身体というレベルだけでなく、その時代・その社会において身体がどのように考えられ、扱われているかという、イデオロギーとしての身体観を無視することはできない。

 身体とは一見、人間にとって自然から贈られた動物的与件そのもののように思える。しかし人間は、己れの身体を意識によって客体化し、状況として把握しうる動物である。したがって、身体がその時代や社会によってどう意味づけられ、またそれをどう受容するかが、われわれの意識を大きく左右することになる。事実、身体とは、文字通り自然の果実として裸で産みおとされながら、ほとんどその瞬間から文化の洗礼を受け、それぞれ特有の仕方で社会化の対象とされる。(*)

 出産の儀礼や新生児の扱い方などには、かつてはそれぞれの地方で独特の習俗が守られており、男女の性別もその大きな要因となっていた。つまり身体とは自然と文化の接点であって、身体が人間存在を規制する仕方は、単にその生物学的条件に還元することはできない。身体性とは、むしろ文化そのものであるとさえ言えよう。

 かつて18世紀のヨーロッパでは、身体については人前で口にすることさえはばかられたという。ビクトリア朝時代のイギリスでは、夫婦でさえもお互いの裸体を生涯見ることがなかったといわれる。このように、身体が人間の精神活動から排除されて、見えない世界に閉じこめられていた時代にくらべると、現代では身体は公然のものとなっている。映像の世界でも活字の世界でも、裸体や性行為の場面が過剰なまでに提供され、衣服もまた身体をかくすものであるよりも身体を美しく見せるものへと変化してきている。とくに近年おこっている健康ブームなどを見れば、人びとがこれほど身体に関心を強めている時代はかつてなかったのではないかと思われる。

 このように、こと身体に関しては、同じ近代人でありながら、この200年ほどのあいだに大きな考え方の変動がおこっているように見える。つまり、かつての精神主義に代わって、一種の身体主義が、時代の潮流としてわれわれの周囲にうずまいているようにさえ思える。

(*)フランソワーズ・ルークス『肉体――伝統社会における慣習と知恵』な  どを参照。